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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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25/40

第25話 泥舟は、まだ沈まない

 スタジアムのゴール裏は、まだ空いていた。


 勝利の翌々日。


 ヴァンテール海浜FCのホームスタジアムには、歓声の残り香などほとんどなかった。濡れたコンクリートの匂いと、撤去され忘れた紙コップ。風に煽られてこすれる古い横断幕の音だけが残っている。


 北関東ガーディアンズに勝った。


 犬飼の記事にも、会見で逃げなかった。


 小口スポンサーの看板が一枚、戻ってくることも決まった。


 それでも、空席は空席のままだった。


 ゴール裏の上段にあった破れた横断幕の隣に、見慣れない小さな布が結ばれていた。


 青緑の布。


 古いタオルマフラーを切ったものだろう。


 そこに、黒い油性ペンで不器用な字が書かれている。


『走れ、神田』


 成瀬隼人は、しばらくそれを見上げていた。


 大きな拍手ではない。


 満員のスタンドでもない。


 だが、誰かがここへ来て、布を結び、文字を残した。


 勝利は、まだクラブを救っていない。


 けれど、誰か一人の足を、ほんの少しだけスタジアムへ戻した。


「……看板一枚に、布一枚ですか」


 隣で笹原美月が呟いた。


 いつもの柔らかい声だったが、目は少し赤い。


「少ないな」


「少ないです。でも、ゼロではありません」


 笹原は、破れた横断幕を見つめたまま言った。


「ここから増やさないといけません。一枚ずつ。席も、看板も、こういう布も」


 成瀬は頷いた。


 泥舟は、まだ沈んでいない。


 ただし、浮き上がったわけでもない。


     *


 クラブハウスの会議室では、氷室圭吾が資金繰り表を更新していた。


 机の上には、請求書、警備費の明細、メディカル用品の補充見積もり、芝の補修費、そして小口スポンサーの看板契約書案が並んでいる。


 氷室は電卓を叩き、赤ペンで数字を囲んだ。


「月末は越えられます」


 若槻航が、椅子から半分立ち上がった。


「本当ですか!」


「ただし、条件付きです」


「ですよね。氷室さんが無条件で良い知らせを持ってくるわけがなかった」


「褒め言葉として受け取ります」


 氷室は表を指差した。


「小口スポンサーの看板一枚。勝利記念グッズの受注生産化。商店街からの食材仕入れの見直し。警備費増を観客増分で一部吸収。ここまでやって、ようやく月末を越える道が見えます」


「余裕は?」


「ありません」


「夢も希望もないですね」


「夢と希望は、支払いが済んでから計上してください」


 若槻は天井を仰いだ。


 白鳥千景が、看板契約書の条項に目を落とす。


「契約は、次のホームゲーム一試合分に限定します。継続する場合は、観客数、露出効果、炎上リスクを見て再協議です」


「信用の試用期間みたいなものですね」


「はい。こちらも、相手も、まだ互いを試しています」


 三枝玲奈は、広報端末を見ていた。


「昨日の会見動画、再生数は伸びています。ただ、派手な伸び方ではありません」


「炎上は?」


「完全には消えていません。でも、論点は変わりました。『酷使したのか』から、『六十五分制限は管理として妥当だったのか』へ」


 有栖川真白が、赤ペンを置いた。


「それなら、まだ戦えます」


「ええ。感情の火事から、議論のテーブルへ戻せました」


 成瀬は会議室のホワイトボードを見た。


 現在のクラブ状態が、短く整理されている。


 ヴァンテール海浜FC。


 三勝七分十敗。


 勝点十六。


 二十位。


 十九位との勝点差、一。


 十八位との勝点差、三。


 得失点差、マイナス十八。


 最下位脱出目前。


 成瀬就任後、五戦無敗。


 数字だけ見れば、流れは変わっている。


 だが、まだ最下位だ。


 得失点差は重い。


 資金繰りは危険域。


 藤代誠二の膝には制限があり、神田太陽の裏抜けはすでに対策され始めている。


 勝ったのに、問題は増えている。


 いや、違う。


 勝ったからこそ、問題が見える場所まで浮かび上がってきたのだ。


 成瀬の視界に、《クラブビルドシステム》の表示が淡く浮かんだ。


【クラブ状態】


 順位:二十位

 勝点:十六

 サポーター熱量:上昇傾向

 地域信頼度:微増

 スポンサー信頼度:低位安定

 資金余力:危険域

 医療負荷:高

 懲罰リスク:注意


【BP使用候補】


 リカバリー環境改善。

 映像分析設備の最低限強化。

 スポンサー営業用資料整備。

 神田と藤代の連携習熟。

 懲罰、コンディション管理表整備。


 全部は選べない。


 それが、このシステムの残酷なところだった。


 見える。


 だが、届くとは限らない。


「決めます」


 成瀬が言うと、会議室の視線が集まった。


「まず、リカバリー環境を優先する。藤代さん、神田、CB陣の負荷が限界に近い。勝ち筋を作った選手を次で壊したら意味がない」


 篠宮藍が静かに頷いた。


「最低限で構いません。氷、圧迫、可動域チェック、疲労回復の導線。まず、現場で毎日使う部分を整えてください」


「次に、懲罰とコンディション管理表を整備する」


 白鳥が顔を上げた。


「法務とメディカルの共有表ですね」


「ああ。カード、出場停止リスク、疲労、怪我、起用制限を別々に見るのはやめる。片桐監督が試合前に一枚で見られる形にしてください」


 片桐巧が腕を組んだ。


「助かります。今のままだと、戦術表、疲労表、カード管理が別々で、試合前に頭の中で無理やり合わせています」


「三つ目。映像分析設備は、最低限だけ強化する」


 久我晴臣が、反射的に前のめりになった。


「最低限、ですか」


「全面更新は無理です」


「分かっています。言われる前から、少し泣いています」


「泣く前提で話さないでください」


 真白が淡々と刺す。


 久我は咳払いをした。


「では、神田のライン確認、相手CBの肩の向き、藤代さんのパスの出しどころ。この三点だけを優先して切り出せる環境をください」


「そこに絞ります」


 成瀬は次に若槻を見た。


「スポンサー営業用資料も作る。ただし、豪華なパンフレットではなく、数字と管理方針を示す簡易資料でいい」


 若槻が少しだけ笑った。


「感動ではなく、管理を売るわけですね」


「感動も必要です。でも、今のヴァンテールに金を出す企業が欲しいのは、夢物語ではなく、潰れない理由です」


「耳が痛いほど正論です」


 若槻は手帳を開いた。


「看板一枚を、次の一枚につなげます」


 最後に、成瀬はホワイトボードの端に書かれた項目を見た。


 神田と藤代の連携習熟。


 必要だ。


 だが、藤代はもう六十五分以上使えない。次戦は先発から外す。練習でも負荷制限がある。


「神田と藤代の連携は、ピッチ上ではなく映像と短時間練習に切り替える」


 片桐が頷いた。


「藤代さんを走らせず、神田に見るべき合図だけを叩き込みます」


「そして、藤代さん抜きの形も作ってください」


 その言葉で、会議室の空気が少し変わった。


 神田が顔を上げる。


「藤代さん抜き……」


「次の相手は、神田の背後を徹底的に消してくる」


 片桐が言った。


「北関東戦で、お前の裏抜けは完全に映像に残った。相手はもう、背中だけを見せてくれない」


 神田は唇を噛んだ。


「じゃあ、俺は何をすれば」


「同じことだけをするな」


 藤代の声が、会議室の入り口からした。


 全員が振り返る。


 藤代誠二が、篠宮に付き添われて立っていた。右膝にはサポーター。顔色はまだ良くない。


 篠宮が先に言う。


「移動は最短です。発言したら医療室へ戻します」


「監視付きの囚人かよ」


「自覚があるなら結構です」


 藤代は苦笑しながら、神田を見た。


「太陽。お前の背中は、もうバレた」


「……はい」


「だから次は、背中を見せてやれ。で、相手が食いついたら、別の奴に刺させろ」


「俺が、また囮になるんですか」


「嫌か?」


「嫌です」


 神田は即答した。


「点を取りたいです」


「いい顔だ」


 藤代は笑った。


「その顔のまま囮になれ。点を取りたい本物の顔で走るから、相手は釣られる。最初から譲る顔をした囮なんざ、誰も怖がらねえ」


 神田は黙って、その言葉を飲み込んだ。


 点を取りたい。


 だが、点を取るためだけに走れば、もう読まれる。


 自分が刃であり続けるためには、自分以外の刃を作らなければならない。


 成瀬はシステム表示を閉じた。


 神田だけでは足りない。


 藤代だけでは続かない。


 北関東戦で勝ったからこそ、次の敵はそこを潰しに来る。


「片桐監督」


「はい」


「次戦のテーマは、神田以外の刃です」


 片桐は、戦術ボードの端に新しい磁石を置いた。


 神田の前ではない。


 その斜め後ろ。


 二列目。


 サイド。


 そして、まだ名前の書かれていない空白の磁石。


「作ります」


 片桐は低く言った。


「神田を消しに来た相手を、神田以外で刺す形を」


 神田は、その空白の磁石を見つめていた。


 自分が主役でなくなる恐怖。


 それでも、自分が走れば誰かが刺せるという手応え。


 その二つが胸の中でぶつかり、苦い熱になっていく。


 会議室の外で、若槻のスマートフォンがまた震えた。


 今度は別の企業からだった。


 若槻が画面を見て、息を呑む。


「……成瀬さん」


「何です」


「さっきの看板の話、もう一社が聞きつけたみたいです」


 氷室が即座に顔を上げた。


「条件は」


「まだ分かりません。でも、資料を送ってほしいと」


 真白が赤ペンを握り直す。


 三枝が疲れた顔で、それでも小さく笑った。


「看板一枚分だけ、浮いたと思ったら」


 笹原がゴール裏の写真を机に置いた。


 破れた横断幕の隣に結ばれた小さな布。


『走れ、神田』


 成瀬はそれを見た。


 看板一枚。


 布一枚。


 勝点十六。


 十九位に追いつくまで、あと勝点一。


 泥舟は、まだ沈んでいない。


 だが、次に必要なのは、神田だけの足ではない。


 クラブ全体で、もう一本の刃を研ぐことだった。


     *


 その夜。


 東京レガリアFCの強化部フロアに、まだ明かりが残っていた。


 神宮寺司は、薄いグレーのスーツの袖口を直しながら、スカウト部門から上がってきた報告書に目を通していた。


 画面の端に、ヴァンテール海浜FCの試合映像が止められている。


 神田太陽が、北関東のセンターバックの肩を見て、半歩待つ。


 そして、消える。


 神宮寺は、その瞬間を三度巻き戻した。


「速いだけではない、か」


 隣のスカウトが言った。


「正式な補強候補に上げますか」


「上げません」


 神宮寺は即答した。


「まだ粗い。足元の処理も不安定。相手に背中を消された時の選択肢も少ない。金を積んで獲る段階ではありません」


「では、無視しますか」


「それも違います」


 神宮寺は、神田太陽の名前に小さく印をつけた。


 獲得リストではない。


 もっと下の欄。


 スカウト部門の監視リスト。


「二部の泥舟にも、使える部品はあるようですね」


 その声には、称賛よりも値踏みの冷たさが混じっていた。


 神宮寺は資料を閉じる。


 画面の中で、神田はまだ走っている。


 だが、その走りを見ているのは、味方とサポーターだけではなくなっていた。


 泥舟の小さな刃は、金満クラブの冷たい棚にも、初めて名前を置かれた。



------

【現在地】 ヴァンテール海浜FC

国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ

成績:3勝7分10敗

勝点:16

得失点差:-18

状態:降格圏。最下位脱出目前。だが、神田包囲網が始まる。

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