第25話 泥舟は、まだ沈まない
スタジアムのゴール裏は、まだ空いていた。
勝利の翌々日。
ヴァンテール海浜FCのホームスタジアムには、歓声の残り香などほとんどなかった。濡れたコンクリートの匂いと、撤去され忘れた紙コップ。風に煽られてこすれる古い横断幕の音だけが残っている。
北関東ガーディアンズに勝った。
犬飼の記事にも、会見で逃げなかった。
小口スポンサーの看板が一枚、戻ってくることも決まった。
それでも、空席は空席のままだった。
ゴール裏の上段にあった破れた横断幕の隣に、見慣れない小さな布が結ばれていた。
青緑の布。
古いタオルマフラーを切ったものだろう。
そこに、黒い油性ペンで不器用な字が書かれている。
『走れ、神田』
成瀬隼人は、しばらくそれを見上げていた。
大きな拍手ではない。
満員のスタンドでもない。
だが、誰かがここへ来て、布を結び、文字を残した。
勝利は、まだクラブを救っていない。
けれど、誰か一人の足を、ほんの少しだけスタジアムへ戻した。
「……看板一枚に、布一枚ですか」
隣で笹原美月が呟いた。
いつもの柔らかい声だったが、目は少し赤い。
「少ないな」
「少ないです。でも、ゼロではありません」
笹原は、破れた横断幕を見つめたまま言った。
「ここから増やさないといけません。一枚ずつ。席も、看板も、こういう布も」
成瀬は頷いた。
泥舟は、まだ沈んでいない。
ただし、浮き上がったわけでもない。
*
クラブハウスの会議室では、氷室圭吾が資金繰り表を更新していた。
机の上には、請求書、警備費の明細、メディカル用品の補充見積もり、芝の補修費、そして小口スポンサーの看板契約書案が並んでいる。
氷室は電卓を叩き、赤ペンで数字を囲んだ。
「月末は越えられます」
若槻航が、椅子から半分立ち上がった。
「本当ですか!」
「ただし、条件付きです」
「ですよね。氷室さんが無条件で良い知らせを持ってくるわけがなかった」
「褒め言葉として受け取ります」
氷室は表を指差した。
「小口スポンサーの看板一枚。勝利記念グッズの受注生産化。商店街からの食材仕入れの見直し。警備費増を観客増分で一部吸収。ここまでやって、ようやく月末を越える道が見えます」
「余裕は?」
「ありません」
「夢も希望もないですね」
「夢と希望は、支払いが済んでから計上してください」
若槻は天井を仰いだ。
白鳥千景が、看板契約書の条項に目を落とす。
「契約は、次のホームゲーム一試合分に限定します。継続する場合は、観客数、露出効果、炎上リスクを見て再協議です」
「信用の試用期間みたいなものですね」
「はい。こちらも、相手も、まだ互いを試しています」
三枝玲奈は、広報端末を見ていた。
「昨日の会見動画、再生数は伸びています。ただ、派手な伸び方ではありません」
「炎上は?」
「完全には消えていません。でも、論点は変わりました。『酷使したのか』から、『六十五分制限は管理として妥当だったのか』へ」
有栖川真白が、赤ペンを置いた。
「それなら、まだ戦えます」
「ええ。感情の火事から、議論のテーブルへ戻せました」
成瀬は会議室のホワイトボードを見た。
現在のクラブ状態が、短く整理されている。
ヴァンテール海浜FC。
三勝七分十敗。
勝点十六。
二十位。
十九位との勝点差、一。
十八位との勝点差、三。
得失点差、マイナス十八。
最下位脱出目前。
成瀬就任後、五戦無敗。
数字だけ見れば、流れは変わっている。
だが、まだ最下位だ。
得失点差は重い。
資金繰りは危険域。
藤代誠二の膝には制限があり、神田太陽の裏抜けはすでに対策され始めている。
勝ったのに、問題は増えている。
いや、違う。
勝ったからこそ、問題が見える場所まで浮かび上がってきたのだ。
成瀬の視界に、《クラブビルドシステム》の表示が淡く浮かんだ。
【クラブ状態】
順位:二十位
勝点:十六
サポーター熱量:上昇傾向
地域信頼度:微増
スポンサー信頼度:低位安定
資金余力:危険域
医療負荷:高
懲罰リスク:注意
【BP使用候補】
リカバリー環境改善。
映像分析設備の最低限強化。
スポンサー営業用資料整備。
神田と藤代の連携習熟。
懲罰、コンディション管理表整備。
全部は選べない。
それが、このシステムの残酷なところだった。
見える。
だが、届くとは限らない。
「決めます」
成瀬が言うと、会議室の視線が集まった。
「まず、リカバリー環境を優先する。藤代さん、神田、CB陣の負荷が限界に近い。勝ち筋を作った選手を次で壊したら意味がない」
篠宮藍が静かに頷いた。
「最低限で構いません。氷、圧迫、可動域チェック、疲労回復の導線。まず、現場で毎日使う部分を整えてください」
「次に、懲罰とコンディション管理表を整備する」
白鳥が顔を上げた。
「法務とメディカルの共有表ですね」
「ああ。カード、出場停止リスク、疲労、怪我、起用制限を別々に見るのはやめる。片桐監督が試合前に一枚で見られる形にしてください」
片桐巧が腕を組んだ。
「助かります。今のままだと、戦術表、疲労表、カード管理が別々で、試合前に頭の中で無理やり合わせています」
「三つ目。映像分析設備は、最低限だけ強化する」
久我晴臣が、反射的に前のめりになった。
「最低限、ですか」
「全面更新は無理です」
「分かっています。言われる前から、少し泣いています」
「泣く前提で話さないでください」
真白が淡々と刺す。
久我は咳払いをした。
「では、神田のライン確認、相手CBの肩の向き、藤代さんのパスの出しどころ。この三点だけを優先して切り出せる環境をください」
「そこに絞ります」
成瀬は次に若槻を見た。
「スポンサー営業用資料も作る。ただし、豪華なパンフレットではなく、数字と管理方針を示す簡易資料でいい」
若槻が少しだけ笑った。
「感動ではなく、管理を売るわけですね」
「感動も必要です。でも、今のヴァンテールに金を出す企業が欲しいのは、夢物語ではなく、潰れない理由です」
「耳が痛いほど正論です」
若槻は手帳を開いた。
「看板一枚を、次の一枚につなげます」
最後に、成瀬はホワイトボードの端に書かれた項目を見た。
神田と藤代の連携習熟。
必要だ。
だが、藤代はもう六十五分以上使えない。次戦は先発から外す。練習でも負荷制限がある。
「神田と藤代の連携は、ピッチ上ではなく映像と短時間練習に切り替える」
片桐が頷いた。
「藤代さんを走らせず、神田に見るべき合図だけを叩き込みます」
「そして、藤代さん抜きの形も作ってください」
その言葉で、会議室の空気が少し変わった。
神田が顔を上げる。
「藤代さん抜き……」
「次の相手は、神田の背後を徹底的に消してくる」
片桐が言った。
「北関東戦で、お前の裏抜けは完全に映像に残った。相手はもう、背中だけを見せてくれない」
神田は唇を噛んだ。
「じゃあ、俺は何をすれば」
「同じことだけをするな」
藤代の声が、会議室の入り口からした。
全員が振り返る。
藤代誠二が、篠宮に付き添われて立っていた。右膝にはサポーター。顔色はまだ良くない。
篠宮が先に言う。
「移動は最短です。発言したら医療室へ戻します」
「監視付きの囚人かよ」
「自覚があるなら結構です」
藤代は苦笑しながら、神田を見た。
「太陽。お前の背中は、もうバレた」
「……はい」
「だから次は、背中を見せてやれ。で、相手が食いついたら、別の奴に刺させろ」
「俺が、また囮になるんですか」
「嫌か?」
「嫌です」
神田は即答した。
「点を取りたいです」
「いい顔だ」
藤代は笑った。
「その顔のまま囮になれ。点を取りたい本物の顔で走るから、相手は釣られる。最初から譲る顔をした囮なんざ、誰も怖がらねえ」
神田は黙って、その言葉を飲み込んだ。
点を取りたい。
だが、点を取るためだけに走れば、もう読まれる。
自分が刃であり続けるためには、自分以外の刃を作らなければならない。
成瀬はシステム表示を閉じた。
神田だけでは足りない。
藤代だけでは続かない。
北関東戦で勝ったからこそ、次の敵はそこを潰しに来る。
「片桐監督」
「はい」
「次戦のテーマは、神田以外の刃です」
片桐は、戦術ボードの端に新しい磁石を置いた。
神田の前ではない。
その斜め後ろ。
二列目。
サイド。
そして、まだ名前の書かれていない空白の磁石。
「作ります」
片桐は低く言った。
「神田を消しに来た相手を、神田以外で刺す形を」
神田は、その空白の磁石を見つめていた。
自分が主役でなくなる恐怖。
それでも、自分が走れば誰かが刺せるという手応え。
その二つが胸の中でぶつかり、苦い熱になっていく。
会議室の外で、若槻のスマートフォンがまた震えた。
今度は別の企業からだった。
若槻が画面を見て、息を呑む。
「……成瀬さん」
「何です」
「さっきの看板の話、もう一社が聞きつけたみたいです」
氷室が即座に顔を上げた。
「条件は」
「まだ分かりません。でも、資料を送ってほしいと」
真白が赤ペンを握り直す。
三枝が疲れた顔で、それでも小さく笑った。
「看板一枚分だけ、浮いたと思ったら」
笹原がゴール裏の写真を机に置いた。
破れた横断幕の隣に結ばれた小さな布。
『走れ、神田』
成瀬はそれを見た。
看板一枚。
布一枚。
勝点十六。
十九位に追いつくまで、あと勝点一。
泥舟は、まだ沈んでいない。
だが、次に必要なのは、神田だけの足ではない。
クラブ全体で、もう一本の刃を研ぐことだった。
*
その夜。
東京レガリアFCの強化部フロアに、まだ明かりが残っていた。
神宮寺司は、薄いグレーのスーツの袖口を直しながら、スカウト部門から上がってきた報告書に目を通していた。
画面の端に、ヴァンテール海浜FCの試合映像が止められている。
神田太陽が、北関東のセンターバックの肩を見て、半歩待つ。
そして、消える。
神宮寺は、その瞬間を三度巻き戻した。
「速いだけではない、か」
隣のスカウトが言った。
「正式な補強候補に上げますか」
「上げません」
神宮寺は即答した。
「まだ粗い。足元の処理も不安定。相手に背中を消された時の選択肢も少ない。金を積んで獲る段階ではありません」
「では、無視しますか」
「それも違います」
神宮寺は、神田太陽の名前に小さく印をつけた。
獲得リストではない。
もっと下の欄。
スカウト部門の監視リスト。
「二部の泥舟にも、使える部品はあるようですね」
その声には、称賛よりも値踏みの冷たさが混じっていた。
神宮寺は資料を閉じる。
画面の中で、神田はまだ走っている。
だが、その走りを見ているのは、味方とサポーターだけではなくなっていた。
泥舟の小さな刃は、金満クラブの冷たい棚にも、初めて名前を置かれた。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝7分10敗
勝点:16
得失点差:-18
状態:降格圏。最下位脱出目前。だが、神田包囲網が始まる。




