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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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第23話 勝ったのに、笑えない

 ロッカールームの中心で、神田太陽は何度も背中を叩かれていた。


「決めたな、太陽!」


「やっと主役っぽい顔しやがって!」


「泣くなよ!」


「泣いてません!」


 泥だらけのユニフォームのまま、神田は顔を真っ赤にして叫び返した。


 泣いてはいない。


 だが、目は完全に潤んでいた。


 誰かが水をかける。誰かが頭をぐしゃぐしゃに撫でる。渡瀬が後ろから首に腕を回し、不敵に笑った。


「お前、俺の同点弾の時より叫んでたぞ」


「だって、あれは渡瀬さんが決めたじゃないですか!」


「お前が連れていったスペースだろ」


「それでも、俺は俺で決めたかったんです!」


「欲張りだな、ストライカー」


 弾けるような笑い声が起きた。


 勝ったのだ。


 北関東ガーディアンズに、2-1。


 相手の得意なロングボールから逃げずに肉体をぶつけ、外へ流し、セカンドボールを狩って、神田が仕留めた。


 最下位に沈むクラブが、国内プロ二部リーグの「門番」を相手の土俵でへし折った。


 その事実だけで、ロッカールームは狂喜に狂っていいはずだった。


 だが、部屋の端だけは、異様なほど温度が違った。


 藤代誠二は、ベンチに深く腰を落とし、右膝に大きな氷嚢を強く押し当てていた。


 膝の周囲はどす黒く赤い。


 汗ではない熱が、皮膚の下でいまも暴れている。


 篠宮藍はしゃがみ込み、藤代の膝に指先を這わせていた。触れる場所を変えるたび、藤代の口元がわずかに歪む。


「痛いなら痛いと言ってください」


「痛くない場所を探してくれ」


「ありません」


「ひどい医者だ」


「ひどいのは、これを隠してプレーできる顔をしていたあなたです」


 藤代は肩をすくめた。


「六十五分で下がっただろ」


「六十五分まで持たせたことと、何も起きていないことは別です」


 篠宮の声は凍っていた。


 神田の周りの喧騒が、急速に遠のいていく。


 ロッカー入口の壁に背を預けた成瀬隼人は、その膝をじっと見つめていた。


 勝利は万能薬ではない。


 ロングボールを跳ね返し続けたCBの脇腹には青い痣が残り、警告を受けた若手CBは、さっきから自分のスパイクの先を凝視している。神田は笑っているが、太ももは限界を超えて張っている。


 そして藤代の膝は、勝利の歓声とは別の、破壊の熱を持っていた。


「成瀬さん」


 篠宮が成瀬を鋭く見上げた。


「次も同じ使い方をしたら、私は止めます」


 ロッカールームの空気が、パキリと固まった。


 藤代が遮るように笑う。


「おいおい。勝った直後に、次は出すな、か?」


「出すなとは言っていません。同じ使い方をするなと言っています。全然違います」


 篠宮はノートを開き、試合前、ハーフタイム、試合後の冷徹な数値を突きつけた。


「皮膚温が上がっています。腫れは最小限。でも、可動域が落ちている。踏ん張った回数も想定以上です。北関東の圧力が強すぎた。藤代さんは走っていません。でも、受ける前の半身、右足一本での踏ん張り、ダイレクトパスの軸足――すべて、膝に来ています」


 片桐巧が、濡れた髪をタオルで拭く手を止めた。


「……俺の設計が甘かった」


「違います」


 篠宮は即座に断ち切った。


「設計が甘かったのではなく、勝つためにはこれが必要だった。ただし、必要だったからといって、代償が消えるわけではありません」


 藤代が氷嚢を押さえ直した。


「勝ったんだ。少しくらい笑えよ、篠宮」


「笑いますよ。明日の検査で悪化していなければ」


「夢がないねえ」


「選手生命を夢で守れたら、私は失業しています」


 海老名修が腕を組んで、低く唸った。


「誠二。ふざけて流すな」


 藤代の笑みが消える。


 海老名は、昔から藤代を知っている男の目で続けた。


「お前は昔から、痛い場所ほど軽口で隠す。で、周りが気づいた頃には手遅れにする。若い連中の前だから言ってんだよ。太陽に、お前の真似をさせるな」


 神田が、部屋の中心で凍りついた。


 水をかけられた髪から、冷たいしずくが落ちる。


 藤代は神田を見た。


「……真似すんなよ、太陽」


「しません」


「嘘つけ。お前は絶対にする顔をしてる」


 神田は黙った。


 さっきまでの歓喜が、胸の奥で重く冷たい塊に変わっていく。


 決めた。


 嬉しい。


 だが、そのゴールの底には藤代の膝があり、CBの警告があり、チーム全体の痣がある。


 神田は初めて、自分の得点が「誰かの肉体の代償」の上に成り立っている感覚を知った。


 成瀬は篠宮のノートを受け取った。


 数字は嘘をつかない。


 だが、数字だけでは足りない。


 藤代の膝に触れた篠宮の指先。冗談で痛みを隠そうとする藤代の口元。何か言いたそうにして黙る神田。


 そのすべてを呑み込んで、成瀬は口を開いた。


「次戦、藤代さんは先発から外します」


 藤代が眉を上げた。


「早いな」


「明日の検査結果を見て、ベンチ入りも判断します。ベンチ外まであります」


 静寂が部屋を支配した。


 片桐が成瀬を見る。成瀬は視線をそらさない。


「勝ったからこそです。ここで同じ使い方をすれば、北関東戦の勝利は藤代さんの膝を削って買った、一回限りの勝ち逃げになります」


「次も勝ちたいだろ」


 藤代の声は、地を這うように低かった。


「勝ちたいです」


「なら、俺を使え」


「勝ちたいから、使い方を変えます」


 藤代はしばらく黙った。


 やがて、氷嚢の下で膝を軽く動かそうとして、すぐにやめた。


「嫌なオーナーだ」


「よく言われます」


「俺が言ってる時は、だいたい褒めてる」


「それも、最近分かってきました」


 藤代は鼻で笑った。


「生意気になったな」


 その時、ドアが開いた。


 白鳥千景が入ってくる。黒いタブレットを胸に抱え、ロッカールームの熱気を一切浴びていないような顔をしている。


「おめでとうございます」


 祝福の声なのに、温度は低い。


 若槻航が苦笑した。


「白鳥さん、勝った直後くらい笑ってくださいよ」


「心の中で笑っています。……成瀬さん、北関東戦で警告を受けたCBの懲罰管理表です。一枚追加されました」


 画面には、若手CBの欄に新しい黄色い印がついていた。


「累積までまだ余裕はあります。ただし、連戦で同じ守り方を続けるなら危険です」


 片桐が画面を覗き込む。


「北関東戦みたいに、遅れて足を出す場面が増えれば、あっという間ですね」


「はい。サッカーの警告は、その試合だけの出来事ではありません。出場停止になった瞬間、次の試合の編成計画に直撃します。勝利の映像は残ります。ですが、カードも残る」


 氷室圭吾が、いつの間にか入口近くに立っていた。


 その手には、薄い封筒がある。


 成瀬は嫌な予感を覚えた。


「氷室さん。それは」


「勝利給、警備増員分、メディカル処置費、ピッチ補修見込みです」


「今日くらい遅らせてもよかったのでは」


「支払期限は勝利の余韻を待ってくれません」


 若槻が天井を仰いだ。


「出た。勝った日に一番聞きたくない名言」


「では聞きたい日に来ます」


「そんな日は一生来ないです」


 小さな笑いが起きた。


 だが、氷室の封筒は重かった。


 神田がゴールを決めた。藤代が膝を削った。CBがカードを受けた。メディカル用品が減った。警備員が増えた。芝が削れた。


 勝利は確かにクラブに熱を戻した。


 だがその熱は、瞬時に数字と痛みへ姿を変えて、成瀬の机に戻ってくる。


 成瀬は封筒を受け取った。


「今夜、財務と医療と強化で確認します」


「助かります。勝った夜は、請求書も元気です」


 藤代が氷嚢を押さえたまま笑った。


「嫌なクラブだな、本当に」


 篠宮がすぐに遮る。


「笑うと膝に響きます」


「そこまで管理するのかよ」


「します」


 ロッカールームの笑いは、もう勝利だけのものではなかった。


 痛みを知った上で、それでも次へ進むための、泥臭い笑いだった。


     *


 その夜。


 クラブハウスの会議室には、まだ明かりがついていた。


 成瀬、片桐、篠宮、白鳥、氷室。


 机の上には、四種類の重すぎる紙が並んでいる。


 試合記録。


 メディカルチェック表。


 懲罰管理表。


 収支見込み。


 篠宮が、藤代の検査予定に赤い線を引く。


「明日は完全休養。ピッチには出しません。映像ミーティングも長時間座らせないでください。膝を曲げた状態が続くのもよくありません」


 片桐が頷く。


「次戦の戦術は、藤代さん抜きの前提で組みます」


「完全に抜くか、ベンチに置くかは検査後に決めます」


 成瀬が言うと、篠宮は厳しい目で返した。


「ベンチに置けば、使いたくなります。成瀬さんも、片桐監督も、勝ち筋が見えたら使いたくなる人です」


 片桐が苦笑した。


「否定できません」


「だからルールを先に決めてください。藤代さんがベンチ入りする場合、出場は最大十五分。リード時は使わない。同点か一点ビハインドで、なおかつ私が許可した時だけ」


 片桐の表情が歪む。


「十五分……」


「嫌ならベンチ外です」


 成瀬は少しだけ目を閉じた。


 十五分。


 短い。


 だが、今日の膝を見れば当然だった。


「その条件でいきます」


 片桐が強く息を吐いた。


「分かりました。藤代さんなしで、勝ち筋を作ります」


 白鳥が次にタブレットを回した。


「警告を受けたCBについては、次戦で強度の高いマッチアップを避ける案を検討してください。二枚目のリスクだけでなく、累積管理もあります」


「守備の組み合わせを変える必要がありますね」


「はい。カード管理は法務だけの話ではありません。戦術の制約です」


 氷室が最後に封筒を開いた。


「そして金です」


 若槻はいないのに、成瀬の頭の中で彼の泣き声が聞こえた気がした。


「勝利給は契約通り。メディカル用品は想定超過。ピッチ補修は、北関東戦の接触量を考えると予定より増えます。警備費は観客数増に伴い、こちらも増額」


「観客数は?」


「前節より増えました」


「それは良いことですね」


「はい。収入も増えました。支出も増えました。差し引き、喜べるほど残りません」


 成瀬は資料を睨みつけた。


 勝点は増えた。観客も増えた。だが現金は、劇的には増えない。


 勝つことは、クラブを救う。


 しかし、勝つだけではクラブは生き残れないのだ。


「医療費は削らない。ピッチ補修も必要分は出す。警備費も削らない」


「では、どこを削りますか」


 氷室の問いは、いつも通り容赦がなかった。


 成瀬は、机の端に置かれた勝利記念グッズの企画書を見た。


 神田の逆転弾。藤代のダイレクトパス。北関東撃破。


 今なら売れる。


 営業としては、喉から手が出るほど欲しい企画だ。


 だが、制作費が先に出る。


「勝利記念グッズは、受注生産に切り替える。初期在庫は持たない。利益は減っても、在庫リスクを消す」


 氷室が即座に計算を始める。


「妥当です」


 白鳥が書類を閉じた。


「契約文言は私が確認します。納期遅延と返品条件で揉めないように」


 その時、三枝玲奈が会議室に駆け込んできた。


 黒いタブレットを握る手が、微かに震えている。


 表情は硬い。


「来ました」


 三枝はタブレットを机に叩きつけるように置いた。


 地元ウェブ紙の記事。


 記者名、犬飼毅。


 見出しは、太く、嫌な形で踊っていた。


『ヴァンテール、勝利の裏でベテラン酷使か』


 会議室の空気が、一瞬で凍りついた。


 記事の本文には、試合通算六十五分で交代した藤代の写真が貼られている。膝に手をつき、痛みに顔を歪めている瞬間だけを悪意を持って切り取った写真だった。


 成瀬は、画面を見つめた。


 勝った。観客は沸いた。スポンサー候補も、きっと数字を見る。


 だが、外の世界は、こちらが望む美しい形だけでは受け取ってくれない。


 三枝が低く言った。


「明日の朝まで待てば、この記事は伸びます」


 真白はいない。


 だが、彼女がいればきっと赤ペンでこう書くだろう。


 ――挑発しない。保証しない。逃げない。


 成瀬はタブレットを静かに閉じた。


「逃げません」


 その声には、確かな熱が宿っていた。


「明日、藤代さんの状態を確認した上で、事実だけを出します。勝利も、制限時間も、交代判断も、次戦の管理方針も」


 三枝が強くうなずく。


「犬飼への反論ではなく、クラブの医療管理方針として出します」


 窓の外では、スタジアムの照明が一つずつ消えていく。


 勝利の夜は終わる。


 だが、勝利の代金は、まだ払い始めたばかりだった。



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【現在地】 ヴァンテール海浜FC

国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ

成績:3勝7分10敗

勝点:16

状態:降格圏。勝利の代償として、藤代の膝とメディカル費用が重くなる。

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