第22話 北関東ガーディアンズ戦・後編
ボールは、神田太陽の半歩先へ落ちた。
追いつけない距離ではない。だが、撃てる距離でもない。
神田は泥を蹴り、最後の一歩を伸ばした。北関東のCBが背後から迫り、GKも飛び出す。
「届け……!」
右足のつま先が、かすかにボールへ触れた。
だが角度がない。ボールはGKに弾かれ、タッチラインへ逃げた。
直後、前半終了の笛が鳴る。
0-0。
ロッカールームへ戻る神田の顔は、泥と悔しさで歪んでいた。
「今の、俺がもう半歩早く……」
「違う」
藤代誠二が、ベンチに腰を落としながら遮った。右膝にはすでに氷嚢が当てられている。
「お前は待った。初めてちゃんと待てた。悪いのは俺の膝だ」
「藤代さんのせいじゃないです」
「慰めるな。惨めになる」
片桐巧がホワイトボードに太く線を引いた。
「前半最後の形は完成手前です。神田は半歩待てたし、藤代さんも落ちる前に向きを作れていた。ただ、最後のパスが半歩深かった」
神田が顔を上げた。
「じゃあ、後半は」
「もう一度、同じ形を作ります」
片桐は即答した。
「ただし、北関東はさらに蹴ってきます。向こうも気づいている。得意な土俵で、こちらに針を刺されかけたことに」
藤代が低く笑った。
「なら、次は本気で潰しに来るな」
「はい」
「いいねえ。年寄りの膝に優しくない」
篠宮藍の視線が突き刺さる。
「試合通算六十五分。後半二十分までです、藤代さん」
「分かってるよ」
藤代は氷嚢を外し、ゆっくり立ち上がった。
「そこまでに、全部やり切ればいいんだろ」
後半、北関東はさらに空へ蹴ってきた。
前半よりも高く、重い。
屈強なFWが競るたび、ヴァンテールのCBの身体が削られていく。
後半七分。
北関東のロングボールが、狙いより深くゴール前へ流れた。
ヴァンテールの若手CBが、警告を受けた足をかばい、一瞬だけ寄せを緩める。
足を出せば、二枚目の危険がある。
その迷いを、北関東は待ってくれなかった。
FWが胸で落とし、二列目が突っ込む。
泥を蹴る音と同時に、右足が振り抜かれた。
低いシュートが、GKの指先をかすめてゴール左隅へ突き刺さる。
0-1。
北関東ガーディアンズ、先制。
鬼瓦権蔵は腕を組んだまま、わずかに顎を引いた。
「そうだ。迷った奴から沈む」
スタンドが重く沈む。
神田は前線で拳を握った。戻りたい。取り返したい。だが、片桐の怒声が飛ぶ。
「太陽、残れ! お前の背中で押し返せ!」
後半十五分。
ヴァンテールはようやく反撃の形を作った。
北関東がまた右奥へ蹴る。若手CBが外へ負ける。
セカンドボールが藤代の前へ転がった。
北関東の中盤が突っ込むが、藤代は前を向かない。右足の裏で触る直前、二列目へ短く落とした。
神田が中央へ走り、北関東のCBがつられて一歩下がる。
その手前へ、二列目の渡瀬が泥まみれで飛び込んだ。
「撃て!」
片桐が叫ぶ。
渡瀬のシュートは泥に足を取られながら、ゴール右隅へ転がった。
GKの手が届く前に、ネットが揺れる。
1-1。
同点。
神田は渡瀬へ走り寄り、胸を叩いた。
「ナイスです!」
「お前が連れてったんだろ!」
「俺、まだ決めてません!」
「じゃあ次は決めろ!」
歓声の底で、藤代は膝に手を置きかけ、寸前でやめた。
篠宮が時計を見る。制限時間が刃のように迫っていた。
試合通算六十二分。後半十七分。
北関東は、性懲りもなく蹴った。
いや、蹴らされた。
ヴァンテールの中盤が中央を閉じ、神田が一歩だけGKの視界を塞ぐ。
ボールは右奥へ流れ、若手CBが競る。
外へ。
狙い通りに。
セカンドボールが藤代の前へ落ちた。
北関東のMFが津波のように迫る。
前半なら、ここで一拍遅れた。
だが藤代はもう、拾ってから考えない。走らない。一歩も無駄にしない。ボールが落ちる前に、身体は開いている。
神田も、まだ走らない。
半歩、待つ。
北関東CBの肩が、ほんのわずかに内側へ向いた。
その瞬間、藤代の右足が泥を切り裂いた。
ダイレクト。
低く地を這うようなボールが、北関東のCBとSBの間を刺し貫く。
神田が消えた。
オフサイドではない。半歩待ったことで、ラインの内側に残っていた。
背中を取った。
今度は、ボールが深くない。
神田の一歩前。走る足の爪先が届く場所。
「太陽!」
藤代の声が掠れた。
神田は追いついた。
北関東CBが前半と同じように、肩と腰で潰しにくる。
だが、今度の神田は倒れなかった。走路へ先に身体を入れ替え、相手の接触を背中で受け止める。
バランスが崩れながらも、右足を振り抜いた。
泥を巻き上げたシュートが、GKの脇を抜ける。
ネットが、揺れた。
2-1。
ヴァンテール海浜FC、逆転。
神田はゴール裏へ向かって叫んだ。声にならない、喉が裂けるほどの咆哮だった。
藤代はセンターサークル付近で膝に手をつき、笑っていた。
「やっと決めやがった……」
試合通算六十五分。後半二十分。
第四審判のボードが上がる。
背番号10。
藤代誠二、交代。
守備的MFが入る。
片桐は残りの交代枠と交代回数を確認し、神田の名前を指で押さえた。
「神田は残す」
成瀬がうなずく。
「北関東が前がかりになった時、背後を消させないためですね」
藤代はピッチを出る直前、神田を呼んだ。
「太陽!」
「はい!」
「勝ってから礼を言え!」
「勝ちます!」
藤代はベンチへ戻ると、篠宮に無言で右膝を差し出した。
「……素直ですね」
「今だけだ」
試合通算七十八分。後半三十三分。
北関東は全員で押し込んできた。
CBまでハーフウェーラインを越え、何度もロングボールを放り込む。
ヴァンテールは耐えた。警告を受けた若手CBは、足を出しすぎず身体を入れる。白鳥の管理表に、これ以上余計な印を増やさないために。
苦しい。
だが、崩れない。
その時、ヴァンテールのクリアが大きく前へ飛んだ。
神田が走る。
届かないボールだったが、北関東のCB二枚が慌てて戻り、押し込みが一瞬だけ緩んだ。
その数秒で、ヴァンテールの最終ラインが息を吸う。
「そうだ、太陽!」
片桐が叫ぶ。
「点にならなくてもいい! 背中で押し返せ!」
アディショナルタイムは四分。
北関東は最後まで空から落としてきた。
ヴァンテールは跳ね返し、外へ逃がし、前を向かせなかった。
最後のクロスがゴール前へ落ちる。
GKが飛び、CBが身体を投げる。
ボールが高く跳ね、主審の笛が鳴った。
試合終了。
2-1。
ヴァンテール海浜FC、勝利。
累計成績、三勝七分十敗。
勝点十六。
成瀬就任後、五戦無敗。
そして初めて、相手の得意技を真正面から狩った勝利だった。
鬼瓦権蔵は、ベンチ前でしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「勝たれた気がしねえ」
その低い声には、怒りではなく、泥を知る者だけの苦味があった。
「だが、全部こっちの得意な形でやられた」
成瀬は、ピッチの中央で膝をつく神田と、ベンチで氷嚢を膝に押し当てる藤代を見ていた。
氷嚢の下で、藤代の右膝は勝利の歓声とは別の熱を持っていた。
勝った。
だが、この勝利にも、もう請求書の匂いがしていた。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:3勝7分10敗
勝点:16
直近結果:2-1 勝利
状態:降格圏。成瀬就任後、五戦無敗。最下位脱出が見え始める。




