第21話 北関東ガーディアンズ戦・中編
落ちてくるボールの影の中で、若手CBは奥歯を噛みしめた。
北関東のFWの巨躯が、背後から覆いかぶさってくる。肩が当たり、腰がねじ込まれる。腕は使わない。肘も立てない。だから主審の笛は鳴らない。
反則を告げない絶妙な技術で、身体の芯のパワーだけを削り取ってくるような圧だった。
「外だ!」
海老名修の怒声がベンチから炸裂する。
「中央に落とすな! 負けるなら外へ負けろ!」
若手CBは空中で強引に首をひねった。
完璧には勝てない。
だが、真正面にだけは返してはいけない。
額にかすったボールはゴール前を外れ、ペナルティエリアの脇へと流れた。
作戦通り。
少なくとも、最初の一秒は。
次の瞬間、北関東の二列目が飢えた獣のように突っ込んできた。
ヴァンテールのボランチも身体を投げ出す。スパイク同士が激しくぶつかって芝を削り、黒い泥が跳ね上がった。ボールは足裏に潰され、不規則に跳ね、泥まみれの足元を転々とする。
「拾え!」
片桐巧がテクニカルエリアの際で叫ぶ。
藤代誠二は、センターサークル手前ですでに半身を向けていた。
走らない。
だが、見る。
落下点。敵の重心。こぼれ球の回転。神田太陽の加速。
右膝の奥には、すでに鈍く重い熱がある。それでも、藤代は軸足の置き場を半歩だけ変えた。
ボールが来る。
いや、来るはずだった。
北関東のMFが一瞬早く長い足を伸ばし、ルーズボールの軌道を横から突いた。藤代の右足の外側を、泥に汚れた白い球がかすめて抜けていく。
「くそ……!」
咄嗟に追おうとした藤代の肉体を、右膝が明確に拒絶した。
その一歩が出ない。
北関東はセカンドボールを回収し、迷わず二度目のクロスを放り込んできた。ゴール前で再び激しい肉弾戦が起きる。ヴァンテールのGKが拳で必死に弾き出し、ようやくラインが押し上がった。
スタンドから大きな溜息が漏れる。
押し込まれている。
だが、まだ決壊はしていない。
成瀬隼人は、ベンチ横からその攻防を冷徹に見つめていた。
罠は機能しつつある。
北関東のロングボールは止められない。空からの爆撃をすべて跳ね返す力は、今のヴァンテールにはない。
だが、落下地点は確実に狂い始めていた。
中央ではなく外へ。
敵が最も快適に拾える場所ではなく、藤代の視界の範囲内へ。
問題は、その先だ。
ボールが落ちた瞬間の一歩。
そこだけは、まだ北関東の方が速い。
「藤代さん!」
片桐が喉をからして叫んだ。
「拾ってから動くんじゃない! 落ちる前にコンマ一秒早く向きを作ってください!」
藤代が鋭い視線で指揮官を睨み返した。
「簡単に言うな、鬼監督」
「簡単じゃないから、あなたに求めているんです!」
「言うようになったじゃねえか……っ」
軽口を叩いてはいるが、藤代の顔色は明らかに青ざめていた。右膝を庇う分、上半身のひねりで無理にバランスを取っている。首筋に浮いた汗が、スタジアムの照明の下で鈍く光っていた。
篠宮藍はベンチ脇で、ストップウォッチと藤代の関節の動きを交互に凝視している。
まだ前半。
交代の目安となる六十五分までは、あまりに遠い。
なのに、その肉体への負荷は目に見える速度で蓄積していた。
前半二十七分、北関東のGKが再び前線へロングキックを放つ。
最前線から神田が一歩だけ、ホルダーの視界を遮るように寄せた。全力では追わない。前半からスタミナを消費しすぎるなという片桐の指示が、頭に焼きついている。
そのわずかな一歩で、相手GKのキックフェースが微かにブレた。
ボールは中央を外れ、狙い通り右奥のスペースへ流れる。
若手CBが競る。やはり完全には勝てない。
だが、今度は綺麗に外へ負けた。
セカンドボールが、藤代の二歩前へと転がってくる。
「来るぞ!」
久我晴臣がタブレットを握りしめて叫んだ。
藤代は、すでに完璧な向きを作っていた。
拾ってから考えない。
落ちる前に、身体を半身に開く。
右足の裏で球の勢いを殺す。
北関東のMFが津波のように迫る。
藤代は顔を上げない。
――神田が、すでに爆発的なスプリントを開始していた。
相手CBの肩の外。
オフサイドラインぎりぎりの隙間。
一瞬だけ、背番号が見えた。
藤代の右足が、泥を裂くように鋭く払われる。低い弾道のパスが、北関東のCBとSBの間を刺し貫いた。
「行け!!」
片桐の声がひっくり返る。
神田は追いついた。
いや、追いつきかけた。
次の瞬間、並走していた北関東のCBが強引に身体を割り込ませてきた。腕は使っていない。足を掛けたわけでもない。肩と腰の分厚い筋肉で、神田の走路を真横から完全にブロックする。
神田の身体が木の葉のように弾かれ、激しく芝生に転がった。
スタンドが一斉に蜂の巣を突いたように沸き立つ。
「ファウルだろ!」
「今のはカードだ!」
だが、主審の笛は無情にも鳴らない。
神田は泥を噛みながら歯を食いしばった。
ファウルではない。
正当なショルダーチャージだ。
分かっている。
分かっているからこそ、圧倒的に悔しかった。
「立て、太陽!」
藤代の鋭い声が響いた。
「今のはパスが通った! 次は倒される前に身体を入れ替えろ!」
神田は拳でピッチを叩き、バネのように跳ね起きた。
「はい!」
北関東のCBは神田を見下ろしながら、短く激しい呼吸を吐き出した。
余裕の笑みはない。
試合開始以来初めて、彼らのディフェンスラインに明らかな焦燥の息が混じっていた。
その微細な変化を、成瀬は見逃さなかった。
通った。
潰されはしたが、確実に通った。
北関東の強固な最終ラインは、今、明確に神田の裏抜けに引きずられて一歩下がった。その瞬間、彼らの手前のバイタルエリアにわずかな歪みが生まれた。
まだゴールには遠い。
だが、仕掛けた罠の針が、初めて敵の肉を捉えた瞬間だった。
前半三十八分。
今度は北関東が牙を剥く。
ヴァンテールが神田のランニングでラインを押し下げた直後、中盤のルーズボールを北関東が強奪。最短距離で縦へと楔を打ち込んできた。
北関東のFWがゴールに背を向け、強靭な体躯でボールを収める。ヴァンテールの若手CBの寄せが半歩遅れた。
間に合わない。
前を向かれれば、再びゴール前へ壊滅的なボールを放り込まれる。
若手CBは焦燥のまま、遅れて足を投げ出した。
ボールには触れた。
だが、同時に相手の軸足も激しく刈り倒してしまった。
スタジアムに鋭い笛の音が鳴り響く。主審が小走りで近寄ってくる。
イエローカードが、照明の光を浴びて冷酷に掲げられた。
「くそっ……!」
若手CBは両手を広げて抗議しかけ、すぐに落とした。
判定は覆らない。
アプローチが遅れた。
それがすべてだった。
片桐はベンチで手帳を開き、無言でチェックを入れた。
スタンドの関係者席では、白鳥千景がタブレットの警告管理画面に同じマークを入力していた。
「一枚追加」
彼女の声は冷ややかに響く。
だが、その一枚のカードの重みを彼女は知っている。国内プロ二部リーグの累積警告は消えてなくならない。今はただの一枚でも、連戦が続くシーズン終盤、確実にチームの首を絞める鎖になる。
成瀬はピッチから視線を外さなかった。
勝つために不可避なファウルはある。
だが、その代償は必ず後から請求される。
サッカーの借金は、帳簿の上だけで処理できるものではない。
白鳥の管理表に、篠宮のメディカルノートに、そして選手の肉体に刻まれていくのだ。
前半四十三分。
北関東の猛烈な圧力に、わずかな陰りが見え始めていた。
ヴァンテールが優勢になったわけではない。
だが、北関東もこれまでのように容易く蹴れなくなっている。
前線の神田が一歩寄せるだけで、敵GKのキックの角度が揺らぐ。藤代が半身になるだけで、敵の中盤が一瞬だけそのパスコースを警戒して足を止める。二列目が中央へ侵入する素振りを見せるたびに、敵のCB陣が声を荒らげてマークを確認し合う。
植え付けられた小さな猜疑心が、北関東の強固な歯車をほんの少しずつ重く狂わせていた。
アディショナルタイムは一分。
前半終了の直前。
北関東が性懲りもなくロングボールを蹴り上げてきた。
若手CBは、今度は恐れずに身体をぶつけた。
外へ。
狙い通り、外のエリアへ。
弾んだセカンドボールが、狙い済ましたように藤代の足元へ転がる。
北関東のMFが猛然と突っ込んでくる。
だが、今度は藤代の方が一瞬速かった。右足の裏で触球するより早く、その身体は次の展開へ向けて完全に開いている。
神田は、まだ走らない。
北関東CBの肩の向きをじっと見据える。
半歩。
いや、あと数センチ。
藤代の右足の軸足が外を向いた。
――その瞬間、神田の姿がピッチから消えた。
北関東のCBの視界から、完全に。
初めて、神田太陽が完璧に背後を陥落させた。
藤代の右足が、泥を切り裂くようにボールを押し出す。
低く、地を這うような鋭い軌道。
だが、それは完全なる完成形ではなかった。
踏み込んだ藤代の右膝が負荷に耐えかねて微かにブレ、放たれたボールは神田の一歩前ではなく、半歩だけ深い位置へと落ちようとしていた。
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【現在地】 ヴァンテール海浜FC
国内プロ二部リーグ:20位/20クラブ
成績:2勝7分10敗
勝点:13
状態:降格圏。北関東ガーディアンズ戦は、残留争いの流れを変える一戦になる。




