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二部最下位の泥舟サッカークラブを買い取った俺、クラブビルドシステムで世界一のメガクラブに育て上げる  作者: 園路 遥々


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第19話 膝は嘘をつかない

「この張りで九十分は無理です」


 篠宮藍の声は、練習後のロッカールームに刃物のように落ちた。


 藤代誠二はベンチに腰を下ろし、右膝にタオルを掛けたところだった。汗で額に張り付いた前髪をかき上げ、いつものように薄く笑ってみせる。


「九十分走る予定なんか、最初からないけどな」


「走らなくても負荷はかかります」


 篠宮は一歩も引かなかった。


 彼女が抱えるメディカルチェック用のノートには、細かい数字と短い所見が書き連ねられている。皮膚温、腫れ、可動域、筋肉の硬さ、そして痛みの出る角度。


 どれも、試合に出たいベテランの意地など一切考慮してくれない、冷徹な現実の羅列だった。


「今日の練習、スプリントはしていません。でも、右足を軸にした反転、半身で受ける動作、ワンタッチで叩く瞬間の踏ん張りが多すぎます」


 藤代はわずかに視線を逸らした。


「……そんなに細かく見てたのか」


「それが私の仕事ですから」


「怖いねえ」


「怖がってください。怖がらない選手から壊れていくんです」


 片桐巧は、戦術ボードを抱えたまま口を閉ざしていた。


 ホワイトボードには、次戦の北関東ガーディアンズ対策の磁石がまだ残っている。タッチライン際へ蹴らせる赤い罠。セカンドボールの予測地点。そして、藤代という固定点と、そこから飛び出す神田太陽の走路。


 そのすべてが、藤代の右膝を中心に設計されていた。


 成瀬隼人は、反射的に口を開きかけた。


 北関東を倒すには藤代が要る。


 セカンドボールを拾った瞬間、前を向かずに背後へキラーパスを通せる男は、今のヴァンテールには藤代しかいない。


 だが、篠宮が藤代の膝からタオルをどけた瞬間、成瀬の言葉は喉で凍りついた。


 右膝の周囲が、明らかに熱を持っている。


 腫れ自体は大きくない。だが、見れば分かった。昨日より重く、鈍い。皮膚の下で、古傷がじくじくと怒っている。


 藤代はそれを隠すように、すぐに膝へ手を戻し、軽い声を作った。


「まあ、年寄りの膝なんてこんなもんだろ」


「違います」


 篠宮は即座に撥ね退けた。


「これは“こんなもん”で済ませていい張りじゃありません。今日の練習強度でこれなら、本番の北関東を相手に九十分なんて絶対に無理です」


「藤代さん……出られないんですか」


 ロッカーの入口で、神田が固まっていた。練習後の泥が、まだ黒々と脛に残っている。


「勝手に葬式を始めるな、太陽」


 藤代が軽口を返したが、神田は笑わなかった。


「だって、藤代さんがいないと、俺――」


「お前がそこで俺を必要そうな顔をするな。俺が調子に乗るだろ」


 声はどこまでも軽い。


 それでも、膝を押さえる藤代の指先は、血の気が引いて白くなっていた。


 篠宮がノートを閉じた。


「私のメディカル的判断は明確です。フル出場は許可しません」


 片桐が低い声で割り込む。


「……何分だ」


「安全圏を最優先するなら、四十五分です」


 ロッカールームの空気が一気に沈んだ。


 四十五分。


 それでは足りない。


 北関東のロングボールを誘導し、セカンドボールを藤代の近くに落とし、そこから神田と二列目を走らせる。相手にこちらの戦術を疑わせ、警戒させ、最終ラインを歪ませるには、前半だけでは短すぎる。


 片桐が奥歯を噛みしめる。


「それでは、構造を作り切れない」


「知っています」


 篠宮の瞳は揺るがなかった。


「だから、戦術上の必要性と本人の状態確認を前提に、譲れる最大値を言います。六十五分です」


 藤代が目を細めた。


「ずいぶん半端だな」


「半端ではありません。そこが限界点です」


 篠宮は片桐と成瀬を順に見据えた。


「六十五分を超えたら、パフォーマンスの問題ではなく、今後の復帰時期の問題になります。この試合に勝っても、次からのリーグ戦に藤代さんがいなくなれば、この戦術はその場限りの心中で終わります」


 成瀬は、手元のタブレットを開きかけて、やめた。


 システムを開けば、アラート画面がリスクを表示するだろう。疲労蓄積。出場時間制限。故障予測確率。


 だが、今さら画面の数字を確認するまでもなかった。


 目の前に、生々しい現実がある。


 熱を持つ膝。強がるベテラン。すがる若手。戦術ボードを握りしめる監督。


 成瀬は静かに言った。


「藤代さんは先発だ」


 篠宮の眉がわずかに跳ねる。


「理由を伺います」


「北関東は、開始直後からロングボールを蹴ってくる。そこで押し込まれてから藤代さんを投入しても、チームの重心は元に戻らない」


 片桐が深く頷いた。


「最初から罠を見せる。蹴らせる場所をこちらでコントロールするためには、藤代さんが最初からピッチの中央に固定点として立っている必要がある」


「ただし」


 成瀬は、藤代の目を真っ向から見つめた。


「最大六十五分。そこで必ず下げる」


 藤代の笑みが消えた。


「俺がまだやれると言ってもか?」


「下げます」


「一点差で負けていても?」


「下げます」


「俺が、あと一本パスを通せばひっくり返せると言ってもか?」


 成瀬は、そこで少しだけ深く息を吸った。


 かつて、プロの才能の壁に敗れた過去が、胸の奥で小さく疼く。


 まだやれる。


 もう一度だけ。


 その言葉が、選手にとってどれほど甘く、どれほど残酷な呪いかを知っている。


「それでも、下げます」


 藤代の目が、獲物を狙うように細くなった。


「嫌なオーナーだな」


「選手を使い潰して勝つようなクラブにはしません」


「勝てなかったら?」


「その責任は俺が取ります。あなたの膝には取らせない」


 ロッカールームが、水を打ったように静まり返った。


 神田が、小さく息を呑む音が聞こえた。


 藤代はしばらく黙って成瀬を見ていたが、やがてタオルを膝の上に戻し、低く笑った。


「若いくせに、言うことだけは年寄り臭い」


「藤代さんほどではありません」


「口も悪くなってきたな。いい傾向だ」


 しかし、篠宮だけは空気が緩むのを許さなかった。


「条件を追加します」


「まだあるのかよ」


「あります」


 篠宮はノートを開き直した。


「試合前日までの全体練習、藤代さんは強度制限。ロングキックの本数も制限します。当日のウォームアップ中、私が少しでも違和感を覚えたら即報告。試合中は五分ごとに私が動作分析を行います」


「過保護だねえ、本当に」


「保護ではありません。管理です」


「言葉を変えると冷たくなるな」


「冷たい方が、選手は生き残れますから」


 片桐が、戦術ボードの端に新しい線を引いた。


「後半六十五分で藤代を下げた後は、守備的MFを一枚入れる。ただし、神田は残す」


 神田が顔を上げた。


「え、俺は残るんですか」


「残す。北関東が前がかりになった時、お前の裏へのスプリントという脅威がなければ、相手のCBが全部押し上げてくる。ただし、お前も走りっぱなしになるぞ」


「でも、藤代さんがいなくなったら、誰が俺にパスを……」


「だから前半から無駄にチェイシングしすぎるな、と言っている。走る場所とタイミングを厳選しろ」


 藤代が横から、神田の頭を軽く小突いた。


「聞いたか、太陽。お前も少しは省エネって言葉を覚えろ」


「藤代さんに言われると無性に腹が立ちます」


「俺は昔から超省エネだ。動かずに偉そうにする才能だけで生きてる」


「それ、才能なんですか?」


「プロとしては一流の才能だ」


 張りつめていた室内の空気に、わずかな笑いがこぼれた。


 だが、篠宮だけは表情を崩さない。


「冗談で済ませないでください。藤代さんも、神田くんも。北関東戦のあとに、次の試合があるんです」


 その一言で、ロッカールームの熱が、静かに、そして深く変わった。


 次がある。


 今のヴァンテールにとって、それは決して当たり前のことではなかった。


 目の前の勝点を毟り取るためには、神田を走らせ、藤代の技術に頼るしかない。


 だが、その二人をここで使い潰せば、クラブの再建という未来はそこで潰える。


 成瀬は、ホワイトボードに描かれた戦術図を見つめた。


 六十五分。


 短い。


 あまりにも短い。


 だが、その絶対的な制限時間こそが、今回の戦い方を極限まで鋭くするはずだ。


「片桐監督」


「はい」


「六十五分までに、試合の形を作ってください。得点できなくても構わない。北関東にこちらの罠を徹底的に意識させる。蹴る場所を疑わせ、セカンドボールを拾う一歩目を鈍らせる。そこまでやれば仕事は半分終わりだ」


「分かっています」


「藤代さんを下げた後は、神田の牙で相手を縛り付ける」


「――了解です」


 片桐は、ボードの隅に太いマーカーで大きくその数字を書き込んだ。


【65】


 その数字が、デジタルタイマーのカウントダウンのように、重く、鋭く見えた。


 藤代はベンチから立ち上がろうとして、一瞬、無意識に右膝へ手を置いた。


 すかさず篠宮の視線が突き刺さる。


「藤代さん」


「……分かってるって。ゆっくり立つよ」


 藤代はわざとらしく両手をすくめて見せ、慎重に、静かに立ち上がった。


 そして、成瀬の目の前で足を止める。


「六十五分、か」


「ああ」


「その六十五分で、あの北関東の泥臭い自慢を、こっちの戦術の泥に沈めろってわけだ」


「できるか?」


 藤代は、痛むはずの右膝を、ぽんと一度だけ軽く叩いた。


 無理を隠すための誤魔化しではない。痛みがあるという現実を、自分自身に認め、受け入れるための仕草だった。


「六十五分なら、若造の計算通りに踊ってやるよ」


 不敵に笑うベテランの瞳には、諦めなど微塵もなかった。削り取られた限られた時間を、最強の刃へと変える男の、静かな執念が宿っていた。

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