第18話 蹴らせる罠
「ロングボールを止める必要はありません」
成瀬隼人がそう告げた瞬間、ミーティングルームの空気が凍りついた。
ホワイトボードには、北関東ガーディアンズの攻撃パターンが書き連ねられている。
GKからの長いキック。
屈強なFWの競り合い。
その足元へ、中盤の三枚が殺到する。
拾う。
もう一度、力任せに押し込む。
プロジェクターの映像の中で、対戦相手は何度も同じ形ですり潰されていた。
空中戦そのもので負けたわけではない。
競った直後の一歩目で競り負け、セカンドボールを強奪され、二度目の圧力で息の根を止められている。
若手CBが、ごくりと喉を鳴らした。
「止めなくて、いいんですか」
「止められるなら止めればいい」
成瀬は映像を一時停止した。
画面の中では、北関東の大柄なFWが相手CBの背中に身体を預け、落下点へ先に入り込んでいる。
「だが、正面から全部勝とうとすれば、こちらの足が先に壊れる」
海老名修が腕を組んだまま、苦い顔でうなずいた。
「北関東の連中は、綺麗な競り合いなんざしてこねえ。肩、腰、肘の置き方、全部が嫌らしい。反則にならない限界の泥臭さで、相手の気力を削ってくる」
「だからこそ、競る場所をこちらで選ぶ」
片桐巧が、戦術ボードのタッチライン際に磁石を置いた。
「中央では絶対に競らせません。ここへ、蹴らせる」
神田太陽が怪訝そうに眉を寄せる。
「蹴らせるって……相手がそんな都合よく蹴ってくれますか」
「都合よく蹴らせるんだよ」
久我晴臣がタブレットを操作した。
画面に、北関東のキック方向の分布が表示される。
「北関東のCBとGKは、プレスを受けると右奥のセーフティエリアへ逃がす傾向があります。中央を閉じ、逆サイドの戻りを意図的に少し遅らせれば、蹴る先はかなり限定できます」
「わざと空ける、か」
「はい」
片桐はタッチライン際の赤い磁石を指先でなぞった。
「ただし、ただ空けるだけでは決壊します。競る位置をサイドへ追い出し、こぼれる泥団子を、ここへ流させる」
続いて、藤代誠二の位置へ青い磁石を滑り込ませる。
ミーティングルームに、小さなどよめきが起きた。
藤代は椅子に深く腰掛けたまま、目を細めてボードを見つめる。
「俺のところへ、その泥団子を転がしてくるってわけか」
「泥団子であっても、あなたなら前を向かずに味方を使える」
「褒めてるのか、面倒事を押し付けてるのか、どっちだ」
「両方です」
片桐が即答すると、藤代は薄く笑った。
「本当に、底意地の悪い監督になったな」
成瀬が映像を再生する。
北関東のFWが競り、相手CBが辛うじて弾く。
だが、そのこぼれ球へ北関東の二列目が一瞬早くトップスピードで突っ込む。
そこからの弾丸シュートが、ゴールネットを揺らした。
「北関東の武器は、ロングボールそのものではない」
成瀬は言った。
「本当の脅威は、その後のセカンドボール回収だ。空中戦の勝敗ではなく、落ちた後の一歩目を完全に支配されている」
若手CBが、悔しそうに拳を握りしめた。
「じゃあ、俺たちCBは何をすればいいんですか。勝たなくていいなんて言われると、逆に怖いです」
海老名が低く笑う。
「勝たなくていい、じゃねえ。敵の好きな場所で勝負してやるな、って話だ」
片桐が大きくうなずいた。
「競る。身体を当てる。自由に落とさせない。でも、綺麗に中央へ弾こうとしなくていい。タッチライン側へ逃がすんだ。相手に拾われても、次のプレーの向きを制限できればいい」
「つまり、半分負けてもいいが、負け方を間違えるな、か」
藤代が呟くと、片桐は赤い磁石の後方へ、別の青い磁石を走らせた。
「藤代さんの近くにボールが落ちた瞬間、神田は走ります」
神田が顔を上げる。
「俺ですか」
「お前だ。ただし、触れなくてもいい」
「触れなくても?」
「神田が完璧な囮になれれば、お前が触らなくても相手を崩せる」
片桐はさらに、中央へ二列目の磁石を置いた。
「北関東はお前の裏抜けを警戒し、CBを一枚深く残す。そこまでは前節と同じだ。だが、神田が走れば、敵のラインは必ず一歩下がる。その瞬間、バイタルエリアが空く」
神田はボードを凝視した。
自分の磁石は、ゴールへ向かって一直線に伸びている。
だが、パスはそこへ来ない。
中央には、別の選手の磁石が置かれている。
「俺が走って……中央に入る奴が決める」
「そうだ」
片桐は容赦なく言い放った。
「お前が消された時のための刃を、最初から仕込んでおく」
神田の唇が、わずかに歪んだ。
悔しさが滲む顔だった。
「……俺、どんどん囮が上手くなってませんか」
藤代がすかさず鼻で笑う。
「最高じゃねえか。点を取りたいギラついた顔で囮になれるFWなんざ、DFからすりゃ悪夢だ」
「俺は点も取りたいです」
「取れ。だが、取れない時にチームを道連れにするな」
神田が黙り込む。
片桐が声を少しだけ和らげた。
「太陽。お前が点を取る形も当然残す。だが、北関東戦で必要なのは、お前一人で勝つことじゃない。お前が潰されても、チームが前へ進む形だ」
「……分かりました」
神田は奥歯を噛みしめ、深くうなずいた。
「俺が触れなくても、敵を動かします」
ミーティング後、グラウンドには赤と青のマーカーが網の目のように並べられた。
タッチライン際に、わざと空けたスペース。
中央を閉じる中盤。
競り合うCB。
藤代の立つ位置。
その背後へスプリントする神田。
片桐のホイッスルが鳴る。
GK役が低く重いボールを蹴り出す。
若手CBが競る。
完全には勝てない。
だが、身体をぶつけ、相手FWのヘディングの向きを外へ狂わせた。
ボールが跳ねる。
だが、狙いより少し中央寄りにこぼれた。
「違う! 中へ落とすな!」
海老名の怒声がピッチに響く。
「勝ち負けじゃねえと言っただろ! 負けるなら外へ負けろ!」
若手CBがユニフォームの袖で汗を拭う。
「もう一本、お願いします!」
二本目。
今度は狙い通りタッチライン側へ流れた。
相手役の中盤が拾う。
だが、身体を寄せられ、前を向けない。
久我がタブレットを睨みながら叫ぶ。
「向きの制限は成功! ただ、藤代さんまで二メートル遠い!」
藤代がボールの落下地点を見て、あからさまに舌打ちした。
「二メートルも余計に走らせるな。俺を殺す気か」
「殺さないための戦術です!」
片桐が応じる。
「落ちる前に予測してポジションを作ってください! 拾ってから考えてたら潰されます!」
藤代は顔をしかめた。
「注文が雑に高度だな」
それでも、三本目。
藤代はボールが落ちるより早く、あらかじめ身体を半身に開いた。
走らない。
だが、右足の置き場所だけをミリ単位で変える。
足元へ転がってきたこぼれ球を、藤代はワンタッチで、走り出す神田の背後へ流した。
神田が爆発的な加速で飛び出す。
だが、相手CB役が強引に身体を入れ、神田を激しく突き飛ばした。
神田が芝生に転がる。
激しい音がしたが、ホイッスルは鳴らない。
「ファウルじゃない!」
片桐の声が飛ぶ。
「本番でもこの程度じゃ笛は鳴らない! 太陽、倒れ方まで計算しろ!」
「倒れ方までですか!?」
「倒されても、次の味方が拾える場所にボールを残して落ちろ!」
「無茶苦茶だ……!」
藤代が声をあげて笑った。
「サッカーなんてのはな、だいたい無茶苦茶なんだよ。慣れろ」
練習場に、乾いた笑いが起きた。
だが、誰も視線は外さない。
この罠は、まだ粗削りだ。
競る場所は数メートルずれる。
こぼれ球は不規則に暴れる。
そのたびに、藤代の膝に余計な一歩の負担を強いる。
神田は何度も泥に塗れて潰される。
それでも、確実に形は見え始めていた。
ただし、これは練習だ。
本番の北関東は、この何倍もの圧力で、こちらの肩と腰と心を潰しに来る。
練習で半歩ずれたものは、試合では一メートル遅れる。
練習で一歩余計に走った膝は、試合では悲鳴を上げる。
北関東の得意なロングボールを、ただ恐怖してラインを下げるのではない。
蹴らせ、競らせ、落とさせ、そして奪った瞬間にその背中を裂く。
成瀬はピッチ脇で、その不格好な反復練習を静かに見守っていた。
システムは最短の勝ち筋を表示できる。
だが、その線を現実に変えるのは、泥をかぶるCBの肩であり、藤代の痛む膝であり、何度潰されても立ち上がる神田の肺だった。
全体練習が終わる頃、藤代はベンチに深く腰掛け、無言で右膝を強く押さえていた。
顔色がひどく悪い。
いつもの軽口も、ワンテンポ遅れて絞り出された。
「いやあ……楽な作戦だな。走らなくていいんだろ?」
その前に、篠宮藍が立ちはだかった。
手にはメディカルチェック用のノート。
その表情には、一切の余裕がない。
「藤代さん」
「何だよ。まだ怒られるほどスプリントはしてないぞ」
「走っていないのに、これだけ異常な張りが出ています」
藤代の口元から、完全に笑みが消えた。
篠宮は彼の右膝を厳しい視線で指さした。
「この組織の硬化は、絶対に見逃せません」
成瀬と片桐が、同時に藤代へ視線を走らせた。
北関東をハメるために必要な、戦術の絶対的な固定点。
その膝が、決戦を前にして、静かに悲鳴を上げていた。




