第16話 固定点
「藤代さんが動かないなら、そこを狙われます」
紅白戦の開始前、若手ボランチがそう言った。
悪意はない。
だが、遠慮もなかった。
練習場には、ハーフコートより少し広い実戦形式のエリアが作られていた。ペナルティエリアまで使う。ゴールも置く。GKも入る。
中央より少し右に、白いマーカーが一つ。
藤代誠二の立ち位置だ。
そこから大きく動かない。
走らない司令塔。
昨日の個人練習では、神田太陽の走る先へ、初めて長いパスが落ちた。
だが、試合は二人だけでやるものではない。
相手がいる。味方もいる。そして、必ず穴もできる。
藤代は若手ボランチを見た。見つめられた若手の額に、じわりと汗がにじむ。
「いい指摘だ」
意外な返事に、若手が固まった。
「そこを狙われたら、お前が泥をかぶってでも走って助けろ」
「俺が、ですか」
「俺が動かないなら、お前がその倍動く。簡単だろ」
「簡単じゃないです。肺が破れます」
「知ってる。だから今から泥をすする練習をするんだ」
片桐巧が、パンと手を叩いた。
「今日は紅白戦形式で確認します。藤代さんは固定点。神田は背後。サイドと二列目は、神田に釣られて空いた場所を狙う」
ホワイトボードには、赤と青の磁石が並んでいる。
赤が主力組。
青が相手役。
青のCB役には、海老名修が手配したフィジカルの強い練習生が入っていた。丸太のような体格があり、神田の進路に身体を入れるのがうまい。
神田は、その巨体を見て喉を鳴らした。
「強そうですね」
藤代が横で薄く笑う。
「強そう、じゃなくて強いんだよ」
「ですよね」
「嬉しそうに言うな。骨ごと潰されるぞ」
「潰されないように、ちぎれるほど走ります」
「それが一番簡単に潰される答えだ」
篠宮藍が、ベンチ脇からノートを片手に口を挟んだ。
「神田くん、今日は全力スプリントを連続で入れないでください。藤代さんも、長いボールは本数を制限します。壊れたら元も子もありません」
神田は不満そうに眉を下げる。
「紅白戦なのに、セーブするんですか」
「紅白戦だからです。試合より止められる分、調子に乗って無駄に脚を使う選手が出ます」
藤代が神田の頭を軽く小突いた。
「聞いたか。お前のことだ」
「藤代さんもですよね。昨日も居残りして」
「俺は大人だ。自分の限界はコントロールできる」
「篠宮さんが思いきり首を横に振ってます」
「見なかったことにしろ」
鋭い笛が鳴った。
一本目。
藤代が固定点で受ける。
神田は早い。
藤代の軸足が外を向く前に、もう相手CBの背後へ芝を蹴っていた。
藤代は出さない。
ボールを足裏で止めたまま、大きく息を吐く。
「早い」
「すみません!」
「謝る暇があったら戻れ。次が来る」
青組はすかさず藤代の背後を突いた。
若手ボランチが慌てて寄せる。スパイクが芝を削ったが、一歩間に合わない。
中央を強引に通され、赤組の最終ラインがずるずると下がった。
片桐が容赦なく笛を吹く。
「止めます!」
選手たちが荒い息を吐きながら足を止めた。
片桐は藤代の足元のマーカーを強く指さす。
「藤代さんが動かない分、周囲が先に身体を張って支えないといけない。固定点は、ただ置けば機能するおもちゃじゃない。周りが必死に動いて初めて、武器になります」
若手ボランチが悔しそうに唇を噛んだ。
「俺、遅れました……!」
「はい。完全に遅れました」
片桐はごまかさない。
「でも、体感したなら次で直せます。もう一回!」
二本目。
神田は我慢した。
だが、今度は我慢しすぎた。
藤代はパスコースを探すが、神田が出ない。相手CBが前へじりじりと圧力をかけてくる。
藤代は仕方なく横へ逃がした。
ボールはサイドへ流れ、せっかくの攻撃の勢いが死んだ。
「遅い!」
藤代の怒声が飛ぶ。
「さっきは早いって言ったじゃないですか!」
「早いと遅いの間の、針の穴を通すような瞬間に正解があるんだよ!」
「細かい!」
「サッカーはそういう細かい泥の積み重ねなんだよ!」
周囲に少しだけ笑いが起きた。
だが、片桐は笑わなかった。
「神田、走り出しを一つだけ我慢しろ。藤代さん、見る前に出さないでください。迷いがパスを鈍らせています」
神田が汗を拭いながらうなずく。
「一つ、ですか」
「はい。一つだけです。二つ我慢すると、お前はピッチから消えます」
藤代が腕を組んだ。
「見る前に出すな、か」
片桐はまっすぐ視線を返す。
「昨日の練習では、神田の動きだけを見ればよかった。でも実戦形式では、サイドと二列目の連動も視野に入れてください」
「注文が増えるね、監督」
「固定点ですから。そこがチームの心臓です」
「便利な言葉にしたな」
「便利に使い倒したいんです」
三本目。
赤組が左から右へ、激しくボールを動かす。
藤代が固定点に立つ。そのユニフォームの背中は、動いていないのに汗で色が変わっていた。足は止まっている。だが、周囲を睨む眼球の動きだけが、焼けつくように忙しい。
若手ボランチが、声を枯らして藤代の死角を支える。
神田は相手CBの肩を見た。
一つ、我慢。
太ももの筋肉がちぎれそうなほどの制動をかけ、神田は芝を噛んで踏みとどまる。
藤代はまだ出さない。
サイドが走る。青組のSBがつられて外へ開く。
「今!」
神田が爆発的な加速で背後へ抜けた。
藤代の右足からパスが出る。
だが、半歩遅い。
ガツン、と鈍い衝突音が響いた。神田は追いつきかけたが、相手CBのぶ厚い胸板に身体を入れられた。
ファウルではない。
荒い砂混じりの芝に、神田が肩から突っ込む。
「くそっ……!」
神田は口の中の砂を吐き出した。
相手CB役の練習生が、膝に手を突き、激しく肩を上下させる。
「今の……っ、少しでも遅れたら無理でした……!」
藤代が額の汗を手荒く拭った。
「その、少しが、命取りなんだよ」
声がいつもより低い。
久我晴臣がサイドライン際でタブレットを睨む。
「今のは走り出しより、出すタイミングの問題です。藤代さんがサイドの状況を確認した一瞬で、神田への最短ルートが消えました」
「言われなくても、分かってる……!」
藤代の声が荒くなった。
成瀬隼人は、その横顔を見ていた。
走れない。だから止まる。
だが、止まれば迫り来る重圧の中で、見るべき情報が何倍にも跳ね上がる。
神田の動き。サイドの連動。二列目の飛び出し。背後を支える味方の位置。
固定点とは、楽をできる場所ではない。
すべての重圧と責任が、泥のようにのしかかる場所だ。
四本目。
藤代は再びマーカーの上に立った。両膝に手を置きたい衝動を、プライドだけで抑えつけている。
神田は背後を狙う。サイドは外へ走る。二列目が手前へ入る。若手ボランチが藤代の死角を埋めるために走る。
青組の守備が、一瞬だけ迷った。
誰を見る。
どこを切る。
藤代は、今度は顔を上げなかった。見る時間はもう残されていない。脳内の絵だけでピッチを把握する。
右足の裏でボールを吸い付ける。
身体を外へ向ける。
神田が、一瞬だけ泥を噛んで動きを止める。
藤代の軸足が外を向いた。
行く。
神田のスパイクが芝を大きく抉り取った。
パスが出た。
低く、地を這うような、強い回転のかかったボール。
相手CBの爪先が届かない内側をすり抜け、神田の走路上へ伸びていく。
神田は減速しない。
突っ込む。
ボールは、走る足の一歩前に落ちた。
トラップが少し大きくなる。
すかさず相手CBが後ろから、壁のように神田を押し潰しにかかった。
「うおおおッ!」
神田は叫んだ。倒されまいと、ユニフォームの肩口を掴まれかけながらも、体幹だけで踏みとどまる。
シュートの余裕はない。
ニアへ走るふりをして、相手の重心が乗った逆を突く。
泥臭く滑り込みながら、中央へボールを掻き出した。
そこへ、二列目が泥まみれになりながら飛び込む。
シュート。
バサァッ、とゴールネットが激しく揺れた。
練習場に、一瞬だけ、荒い呼吸音だけが響く沈黙が落ちた。
次に、神田が拳を突き上げて叫んだ。
「入ったあ!」
得点した二列目の選手が、泥のついたユニフォームを払いながら笑う。
「お前、今の体勢からよく戻したな! 偉いぞ!」
「本当はめちゃくちゃ撃ちたかったです!」
「知ってる!」
藤代はマーカーの上に立ったまま、膝に手を置き、深く熱い息を吐いた。
篠宮がすぐに厳しい声を飛ばす。
「藤代さん、今日はあと二本までです。それ以上は許可しません」
「……今ので終わりでもいいくらいだ。脳みそが沸騰しそうだ」
「なら終わりますか」
「いや、残り二本、きっちりやる」
「そう言うと思いました」
片桐がホワイトボードに力強く線を引いた。
藤代から神田へ。
神田から二列目へ。
その周りに、サイドとボランチの矢印が血脈のように足されていく。
「これです」
片桐の声は、少し震えていた。
「藤代さんが動かないことで、周りが連動して動ける。神田が身体を張って背中を取ることで、二列目が入るスペースが生まれる」
神田はまだ肩を激しく上下させていた。
「俺、あそこまで走って、自分で撃たなくてもいいんですね」
藤代が即答する。
「撃てる時はエゴを出して撃て」
「どっちなんですか!」
「どっちも選べるだけの強さと余裕を持てって話だ」
神田は一瞬呆気に取られ、それから顔の汗を拭って大きく頷いた。
「……はい!」
成瀬は、まだかすかに揺れているゴールネットを見ていた。
固定点は置かれた。
線はつながった。
だが、本番の相手が同じように迷ってくれるとは限らない。もっと激しく、もっと泥臭く潰しにくる。
それでも、ヴァンテールには初めて、神田の背中以外へ伸びる、確かな攻撃の形が生まれようとしていた。




