第15話 走らない司令塔の練習
「走らないでください」
篠宮藍は、練習場の端でそう言った。
藤代誠二は、スパイクの紐を結びかけたまま顔を上げる。
「練習に来て、最初に言われる台詞じゃないね」
「あなたの場合は最初に言わないと動きます」
「信用がない」
「実績があります」
藤代は苦笑した。
だが、その笑い方には少しだけ棘があった。
勝点三を取った。
そのあと、引き分けた。
神田太陽の裏抜けは、もう相手に警戒されている。CBを深く残されれば、ただ走るだけでは勝ち切れない。
次に必要なのは、神田が作った空白を使う刃。
そして、その空白へボールを届ける足だった。
久我晴臣が、タブレットを片桐巧に見せる。
「藤代さんのパス成功率です。走りながら出したボールは低い。移動直後、身体の向きが整わない状態だとさらに落ちます」
「言い方が遠慮ないな」
藤代が言う。
久我は表情を変えない。
「事実です」
「最近、その言葉が嫌いになってきた」
「ただし」
久我は画面を切り替えた。
「動かない地点から出したパスだけ、成功率が高いです。特に、右足の裏で止めて、身体を外へ向けてから出す斜めのボール」
片桐が画面を覗き込む。
「神田への一本も、そこからでしたね」
「はい。走って作る選手ではなく、止まって相手を動かす選手として使う方が効率的です」
藤代の眉が、わずかに動いた。
「効率的、ね」
その声で、空気が少し冷えた。
海老名修が腕を組む。
「久我。言葉を選べ」
「選んでいます」
「選んでそれか」
藤代は笑った。
今度は、さっきより乾いた笑いだった。
「いいよ。俺は走れない。膝も重い。九十分どころか、三十分でも怪しい。数字にしなくても分かってる」
誰もすぐには返せなかった。
藤代はピッチを見た。
神田が、遠くでスタッフと一緒にスプリントの前の動きを確認している。走りたくて仕方ない顔をしているが、篠宮に見張られているせいで全力では走れない。
「あいつは走れる。俺は走れない。分かりやすくていいじゃないか」
「藤代さん」
片桐が声をかける。
藤代は手を振った。
「怒ってない。事実だろ」
成瀬隼人は、その横顔を見ていた。
軽口の奥にあるものは、諦めではない。
未練だ。
走れないことを受け入れたふりをしている男の、まだピッチに残りたいという未練。
だから、成瀬は言った。
「藤代さん」
「何です、オーナー」
「あなたを走らせるために使うつもりはありません」
藤代の目が、こちらを向いた。
片桐も、久我も、海老名も黙る。
「走れない選手を、走れる選手の代わりに使えば壊れます。あなたにそれをさせる気はない」
「じゃあ、置物にするんですか」
「違います」
成瀬は、ピッチ中央から少し右に置かれた白いマーカーを指した。
「固定点です」
「固定点?」
「神田が走る。相手CBが下がる。中盤に空白ができる。その時、全員が動きながら判断していたら、ボールの出しどころが遅れます」
風で、戦術ボードの紙が揺れた。
「だから、動かない場所を作る。そこに藤代さんが立つ。あなたが走るんじゃない。周りを走らせる」
藤代は黙っていた。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
噛みしめている沈黙だった。
片桐がホワイトボードに丸を描く。
ピッチ中央から少し右。
藤代の位置。
そこから斜め前へ矢印。
神田の背中へ向かう線。
「練習します」
片桐が言った。
「藤代さんは、このマーカーから大きく動かない。神田は、最初の二本は走り出しを遅らせる。サイドは神田に釣られたCBの脇を見る」
神田が呼ばれて走ってきた。
「俺、全力ですか」
篠宮が即答する。
「七割です」
「七割で背中取れるかな……」
「取れなければ、今日は取れない日です」
「厳しい」
藤代が笑う。
「良かったな。七割で済むなら、頭を使える」
「藤代さんは走らないんですよね」
「お前、今ちょっと腹立つ言い方したな」
「すみません!」
「謝るな。背中で返せ」
一本目。
藤代はマーカーの上で受けた。
足元にボールを止める。
神田が走る。
早い。
パスが出る前に、完全に前へ出た。
藤代は蹴らなかった。
「今のは出さないんですか」
神田が振り返る。
「出したら旗だ」
「練習でもですか」
「練習で旗なら、試合でも旗だ」
片桐が手を叩く。
「神田、走る前に藤代さんの軸足を見ろ。藤代さん、見る前に出そうとしないでください」
「注文が多いな」
「必要な注文です」
二本目。
神田は我慢した。
我慢しすぎた。
藤代のパスは、神田の手前で転がった。
「遅い!」
藤代が叫ぶ。
「待てって言ったじゃないですか!」
「待てとは言った。寝ろとは言ってない」
「難しい!」
「だから練習してるんだよ!」
周囲から小さな笑いが漏れた。
だが、神田の顔は真剣だった。
藤代の顔も同じだった。
三本目。
藤代が受ける前に、神田が相手役CBの肩を見る。
藤代は右足の裏で止める。
身体を外へ向ける。
神田は、まだ走らない。
藤代の軸足が、わずかに外を向く。
そこで走った。
パスが出る。
少し長い。
神田は追う。
届きそうで、届かない。
ボールはラインを割った。
神田が悔しそうに両膝へ手をつく。
「今の、もう少しで」
「そうだな」
藤代が言った。
「今のは、もう少しだった」
その言い方に、神田が顔を上げた。
怒鳴られなかった。
それだけで、次の一本へ向く顔になった。
久我がタブレットを見ながら呟く。
「タイミングは合い始めています。距離だけです」
藤代が舌打ちした。
「距離だけって簡単に言うな」
「事実です」
「お前も走れ」
「私は走ると分析効率が落ちます」
「全員、走らない理由だけは立派だな」
四本目。
風が少し強くなった。
藤代はマーカーから動かない。
神田は相手役CBの背中へ入りかけ、半歩だけ残る。
藤代が右足の裏で止める。
神田はまだ待つ。
藤代の膝は、たぶん重い。
それでも、上半身だけは少しもぶれない。
軸足が外を向いた。
神田が走った。
藤代の右足が、ボールを長く滑らせた。
低く、速く、しかし強すぎない。
ボールは白いマーカーの列を越え、相手役CBの足が届かない内側を通り、神田の走る先へ伸びていく。
神田は減速しない。
追いつくために走るのではなく、そこに来ると信じて走っていた。
ボールは、神田の一歩前へ落ちた。
初めてだった。
神田が速度を殺さず、次の動作に入れる場所に、藤代のロングパスが届いた。
トラップは少し大きい。
けれど、足は届いた。
神田が右足で収め、前を向く。
練習場の空気が止まった。
藤代は、マーカーの上に立ったまま息を吐いた。
「……今のだ」
神田が振り返る。
「今の、もう一回ください!」
「調子に乗るな。膝が一回分老けた」
「でも、届きました!」
「届いたな」
藤代は、ほんの少しだけ笑った。
「走らなくても、届くもんだな」
成瀬は、その一言を聞いていた。
走れない司令塔。
壊れかけた膝。
前だけを見て走る若いFW。
その二つが、初めて一本の線でつながった。
片桐がホワイトボードに、新しい矢印を引いた。
マーカーの位置から、神田の背中へ。
今度の線は、迷いなく伸びていた。




