第14話 商店街のシャッター
アウェー帰りの深夜バスは、前節の勝利の夜とは違い、通夜のように静まり返っていた。
試合結果は、1-1。
負けはしなかった。
だが、勝ち切れなかった。
累計成績は二勝六分十敗、勝点十二。順位表の一番下から、泥にまみれた足はまだ抜け出していない。
相手は、神田太陽の裏抜けを最初から消しにきていた。
CBを一枚深く残し、ラインを上げない。神田が走れば、先に身体を入れて進路を塞ぐ。神田は何度も走った。肺から血の味がするまで走った。だが、前節のような空間は残されていなかった。
その分、前線と中盤の間には穴が開いた。
けれど、今のヴァンテールはそこを使い切れない。縦パスは引っかかり、サイドの判断は一拍遅れ、藤代誠二のパスも、受け手の身体の向きと噛み合わない。
後半、こぼれ球から先制を許した。
終了間際、神田が相手CBを引っ張り続けた背後から、右サイドの折り返しを二列目が泥臭く押し込んだ。
追いついた。
ただ、それだけの勝点一だった。
バスの窓に、神田の横顔が映っている。泥のついたスパイクを両手で抱えたまま、一睡もしていない。
神田太陽だけでは、もう勝ち切れない。
それは絶望ではない。
このクラブが次に進むための、冷徹な現実だった。
翌日。
海浜中央商店街のシャッターは、昼前だというのに半分ほど下りていた。
雨上がりのアーケードには、濡れた段ボールと古い揚げ油の匂いが沈んでいる。
若槻航は、汗ばんだシャツのネクタイを締め直した。
「美月さん。ぶっちゃけ今日、俺は何回怒られる予定ですかね」
隣を歩く笹原美月は、地元資料を詰めたファイルを胸に抱えたまま答えた。
「予定ではありません。死ぬ気で覚悟してください」
「せめて数で教えてほしかったんですが」
「数え始めると、途中で営業スマイルが引き攣ります」
「これでもプロの営業ですよ。顔くらい保ちます」
「ヘラヘラ笑いすぎると、今回は火に油です」
「相変わらず鋭く刺しますね」
「刺していません。致命傷になる前に止めています」
若槻は苦笑いし、一軒目の前で足を止めた。
古い赤文字の看板に、『海浜精肉店』とある。ガラスケースには、揚げる前の白いコロッケと、串に刺された豚肉が並んでいた。
頑固そうな店主は、新聞を畳みもせず顔を上げる。
「……また来たのか、お前ら」
最初の一言から温度が低い。
若槻は営業の笑顔を封じ、深く頭を下げた。
「お時間をいただき、本当にありがとうございます」
「協力するとは一言も言ってねえぞ」
「はい。今日は虫のいいお願いではなく、うちの過去の不手際の説明と、これからの契約条件を持ってきました」
「説明なら聞き飽きた。地域密着だの、改革だの」
店主は、油の染みたカウンターに新聞を叩きつけた。隅には、昨日の1-1の記事が小さく載っている。
「で、昨日は勝ったのかよ」
若槻の喉が動いた。
「……引き分けました」
「だろ」
店主は鼻で笑った。
「勝った翌日なら、うちの重いシャッターも少しは軽かったかもしれねえのにな」
「おっしゃる通りです。勝てていません」
「勝てない泥舟の看板出して、うちに何が残る。ただのボランティアじゃねえんだよ」
店の奥で、油が小さく跳ねた。
笹原が、ファイルから一枚の写真を差し出す。
雨のアウェースタジアム。試合終了直後、泥まみれのユニフォームで膝に手をつき、今にも倒れそうな神田太陽の写真だった。背後のスコアボードは1-1。アウェー席では、十数人のサポーターが拍手している。
店主は、その写真を睨んだ。
「……この小僧、点取ったのか」
「取っていません」
「じゃあ、なんなんだよこれは」
「最後まで走りました。でも、昨日は完全に対策されました。今のうちの実力では、この子一人に頼るだけじゃ勝ち切れなかったんです」
若槻が、次の写真を並べた。
同点ゴールの直前、神田が二人のCBを引き連れて中央へ走り、右サイドの選手が空いた場所へ抜け出す瞬間だ。
「だから、次はこの空いた場所を使える選手を増やさないといけません。神田の名前を売りに来たわけじゃありません。この街の肉を食って、チーム全員でもう一歩走りたいんです」
「それで、うちに肉をタダで寄こせって話か」
「違います」
若槻の声が低くなった。
「選手寮の食事を、正式に地元から仕入れたいんです。無償提供ではなく、クラブの予算で買います。ビジネスとして、買わせてください」
「きれいな言い方だな」
店主の目に、怒りが戻った。
「昔も似たような話があった。試合の日に、うちの串を出した。チームはボロ負け。客は来ない。串は大量に売れ残った。担当は次の週から電話一本よこさなかった」
笹原の指が、ファイルの端を白くなるほど押さえる。
「売れ残った段ボールを、雨の中で誰が片づけたと思う? うちの女房だよ。あとで届いたのは、印刷された礼状一枚だ。お前らの地域密着なんて、その程度の搾取だろ」
笹原は、直角になるほど深く頭を下げた。
「その時の担当は退職しています。ですが、私も当時、この商店街の担当でした。止められませんでした。本当に申し訳ありません」
「覚えてたのか」
「忘れたら、二度とこの街の土は踏めません」
「だったら、なおさら来るなよ」
「来なければ、あの最悪なクラブと同じままで終わります」
笹原の声は震えていた。
だが、引かなかった。
「今日は、勝ったから味方してくださいと言いに来たのではありません。昨日は引き分けました。まだ弱いです。神田くんだけでは勝てませんでした」
若槻も横に並び、頭を下げた。
「だから、選手がもう一歩走るための食事を、地元から適正価格で買わせてください。スタジアムに来る理由を、裏切られた怒り以外に、もう一度だけ作らせてください」
「……在庫の赤字を、店に押しつけねえんだな?」
「絶対に押しつけません」
若槻は、氷室と白鳥が徹夜で確認した申込書を出した。
「次のホームゲームで、商店街の屋台枠を正式に作ります。まずはそこに、海浜精肉店さんの串を出していただきたいんです」
出店条件。クラブ負担金。販売場所。搬入時間。雨天時の補償。売れ残り時の相談窓口。
細かい数字と、フロントの退路を断つ文言が並んでいる。
「売れ残りのリスクを店に押しつけません。すべて書面で保証します。窓口は笹原です。もし私が逃げても、笹原が私の首を掴んで逃がしません」
「逃げる前提かよ」
「逃げません。だから、逃げられない紙を持ってきました」
店主は、申込書を睨んだ。
すぐには受け取らない。
「後から、苦しいからって値切りに来たら叩き出すからな」
「値切りません。買うなら正規の価格で買います。うちの財務の氷室が、一円単位の領収書まで鬼の目で確認しますから」
「誰だ、そりゃ」
「うちで一番、血も涙もない怖い男です」
若槻が真顔で言うと、店主は一瞬呆れ、それから鼻で笑った。
「……ケチな泥棒より、怖い奴が金を見てる方が少しはマシか」
カウンターの下から、油染みのついた黒いボールペンが放り出された。
「置いてけ」
若槻が顔を上げる。
「申込書、受け取っていただけますか」
「読むだけだぞ」
「ありがとうございます!」
「礼を言うのは百回勝ってからにしろ。あと、次に来る時は、引き分けじゃなくきっちり勝ってから来い」
若槻は、今日一番深く頭を下げた。
「次は、必ず勝って肉を買いに来ます」
「軽く言うな、青二才」
「軽くは、言っていません」
店の外へ出ると、若槻は肺の空気をすべて吐き出した。
「申込書、まずは一枚……!」
「まだ、たったの一枚です」
「一枚ですよ、美月さん。昨日まで完全にゼロだったシャッターが、一枚こじ開いた」
笹原は、アーケードの先を見つめた。
半分下りたシャッターが、まだ何十軒も並んでいる。
「ここからです。あの過去を怒っている店は、あそこだけじゃありません」
「分かってます」
若槻は、少し曲がったネクタイを直した。
目の奥に、営業の火が灯っていた。
「頭なんていくらでも下げますよ。このクラブが、神田たちが生き残るためなら、何百回でも」
「次の店では、最初から絶対に笑わないでください」
「そこまで表情指定します?」
「します。相手はまだ、うちの試合結果で笑う気分じゃありません」
「了解。行きましょう」
二人は、次の冷たいシャッターへ歩き出した。
アーケードの奥で、古い衣料品店のブラインドが、風もないのに少しだけ揺れた。
暗い店内から、誰かがじっと二人の背中を見つめている。
完全に閉じきったわけではない。
だが、歓迎して開いたとも、まだ言えない。
その頑なな隙間へ、ヴァンテールの未来を賭けた申込書が、いま確かに向かっていた。




