第25話 ドーナツ
「こ……こんばんわ……」
私は警察署へと足を踏み入れました。
昼間に来ているので、警察署には誰か必ずいることは分かります。灯りもついていますし、警察官がいるので外に居るよりもずっと安心できます。
しかし、そこには予想もしていなかった光景が広がっていました。
「あ……あれ……?」
私の目の前に広がっているのは、人が居なくて灯りがついているだけの警察署の光景でした。
人の姿は見えないどころか、気配さえしません。
しかし、それにしては妙です。
奥のテーブルには、湯気の立ち上がるコーヒーカップが置かれています。書類も机の上に置かれていますし、まるで人だけがいなくなってしまったようでした。
いったい、警察官の方はどこへ……?
「あっ……」
そのとき、私はカウンターに呼び鈴が置いてあることに気がつきました。
もしかして、これを押して誰かを呼ぶのでしょうか?
物は試しにと、私はベルを押してみました。
チーン。
ホテルやレストランで幾度となく耳にした音が、警察署のオフィスに響きます。
「はーい……」
すると、カウンターの奥から制服を着た警察官が出てきました。
先ほどまで寝ていたようで、少しだけ寝ぼけまなこになっています。
「ど、どうなされました? メイドさん」
「あの、道に迷ってしまいました……」
ちょっと頼りなさそうですが、今はこの人に頼るほかありません。
私は警察官に、これまでの出来事をすべてお話しすることにしました。
私が一通り話し終えるころには、警察官もだいぶ目が覚めたみたいでした。
「そうでしたか、それは大変でしたね」
「あの、どうやってご主人様の元に帰ったら……!」
「まぁまぁ、とりあえず落ち着いてください」
不安になってきた私を、警察官はなだめてくれました。
「とりあえず、こちらで待っていてください」
そう云うと、警察官は私を応接スペースへと案内してくれました。
昼間にプロキオンさんの件で事情聴取を受けた、あの応接スペースです。
見覚えのある場所だったためか、少しだけ安心できました。
すると、先ほどの警察官が淹れたてのコーヒーと、いくつかのドーナツを持ってきました。
警察官はドーナツとコーヒーを、私の目の前に置きました。
「あの、これは……?」
「食べたら落ち着きます。どうぞ召し上がってください」
警察官からの勧められましたが、食べていいのか気になります。
ドーナツは大好きなのですが、これはきっと警察官の夜食です。本当に食べてしまっていいものなのか、悩みます。
しかし、私はお腹が空いていました。
空腹とドーナツの甘い香りには耐えられるわけもなく、私はドーナツを口に運びました。
「……!」
ドーナツの甘味が口の中に広がっていき、私の味覚を刺激します。
ドーナツを2口3口と食べ、コーヒーを一口飲みました。
「……ふぅ」
ドーナツの甘味、コーヒーの匂いと温かさが、私の不安をやわらげてくれました。
私はその一瞬だけ、私が道に迷ってしまったことを忘れてしまいました。
すると、警察官が私の正面に座りました。
一体、何が始まるのでしょうか?
「あ、食べながらで大丈夫ですよ。お名前と住所と、あったら電話番号も教えてください」
「はい。私の名前は……」
すっかり落ち着いていた私は、警察官からの質問に答えていきました。
私の名前と住所、電話番号を伝えますと、警察官は席を外して電話をかけに行きました。
その間に、私はドーナツとコーヒーをご馳走になってしまいました。
「マリア!」
聞き覚えのある声に、私は耳をピンと立てて、立ち上がりました。
声がしたほうを見ますと、そこにはご主人様がいました。
「ご主人様!」
私はご主人様に駆け寄ります。
そしてそのまま、私はご主人様に抱き着いてしまいました。
「マリア、だから明日でいいって、云ったじゃないか」
「申し訳ございませんでした。ご主人様」
抱き着いたままご主人様に謝罪します。
ご主人様の匂いを嗅いでいると、とても安心できました。
私はご主人様と共に、警察官にお礼の言葉を述べてから、警察署を後にしました。
家に戻った私は、ご主人様から長時間のおしかりを受けることを覚悟していました。
もしかしたら、解雇を言い渡されるかもしれません。
しかし、そうなってしまったら、それを受け入れます。
わたしはご主人様に心配をかけてしまったのですから。
そして予想していた通り、私はご主人様からおしかりを受けました。
でも、それはすぐに終わってしまいました。
「次回からは、こういうことをしないように」
そう注意を受けただけでした。
オレはマリアに注意をすると、大きく伸びをした。
明日もある。そろそろ眠ることにしよう。
「さて、もう遅い。マリアも早めに寝るように」
「はい、ご主人様!」
マリアはそう云うと、買い物かごから卵を取り出した。
しかし、卵の次に買い物かごから出てきた物に、オレは目を見張った。
紙袋だった。
マリアはその紙袋から、3個のドーナツを取り出して、皿に移していく。
「マリア、そのドーナツは?」
「あのお巡りさんからもらいました」
マリアはそう答えると、オレの目の前にドーナツが乗った皿を置いた。
「あんまり美味しかったので、ご主人様にもとっておいたんです。コーヒーと、すごくよく合うんです。コーヒー、淹れましょうか?」
「いや、もう遅いから水でいいよ」
思わぬ夜食タイムとなったが、ちょうど良かった。
警察署から電話がかかってくるまで、オレは原稿書きの仕事をしていた。それで頭が疲れたのか、身体が糖分を欲していた。
マリアがコップに注いでくれた水を貰い、オレはドーナツを口に運んだ。
「ん……!」
マリアの言葉に嘘はなく、美味しいドーナツだった。
警察官はこんな美味しいドーナツを食べていたなんて。
思わぬ発見に、オレは口元を緩ませる。
そして気がつくと、オレは3個あったドーナツを全て食べてしまった。
その頃にはもう、マリアがオレの言葉を無視して行動したことなど、どうでもよくなっていた。
「美味しいドーナツだった。ありがとうマリア。オレは先に寝るから、マリアもあんまり遅くまで起きずに早めに寝るように」
「はい! ご主人様!」
マリアの嬉しそうな返事を受けて、オレは自分の部屋へと向かっていった。
その日の夜は、ドーナツで血糖値が上がったのか、いつもよりよく眠れたような気がする。
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次回更新は、8月28日の21時を予定しております。





