一歩
閉店準備を終えて、店に鍵をかける。その裏手にあるアパートが、信悟の家。夜の商店街はだいぶひっそりとしていた。路地を入って10分程歩けばアパートだが、大きなため息をついて夜空を見上げる。
三日目の月……つまり三日月が夜空で淡い光を出していた。その優しい光は、信悟が気になっている女性の微笑みに似ていて軽く首を振った。
まともな告白もする機会さえ与えてもらえずに、信悟はかの女性からダメ出しをされているのだ。あれは桜が咲いていた時期で、今はもう少しで梅雨に入るだろう時期。
月1回の会合で彼女に会う機会は有ったが、挨拶をする程度だった。それだけで精一杯だし、彼女も信悟と距離を置いているようにしか、見えなかった。
信悟の思い込みでもない限り。
「あ、すみません。花をお願いしたいのですが」
信悟に声を掛けて来たのは、信悟の思い人・悠里の弟だった。
「あ、いらっしゃいませ。どんな花に致しますか?」
何度か会った事はあるものの、あまりきちんと会話をした事が無かったため、悠里のことを尋ねたかったが、どう切り出せばいいか解らなかった。
「黄色い花が入った可愛い花束がいいですね」
可愛い花束というと、ガーベラがいいかもしれない。と咄嗟に思いながら、信悟は花を見繕っていく。かすみ草も可愛いだろうか。年齢を尋ねて、花束を作ってみた。
「こんな感じでどうでしょうか?」
「ああ、ありがとうございます。彼女が喜びそうだ」
ホッと笑った表情が、やはり悠里と似ていた。
支払いを済ませた彼女の弟が店を出ようとしたので、思いきって信悟は尋ねた。
「あの、悠里……さんの弟さん、でしたね?」
「ええ。あ、高橋宏樹と言います」
信悟の呼び掛けに名乗って、頭を下げた。
「宏樹さん、ですか。あの、悠里さんは元気ですか?」
どう訊いていいのか解らないから、そう尋ねたが、これがまずかった。
「姉さん? あなた、俺の姉さんにどんな用なんですかね」
途端に宏樹の眉間に皺が寄った。信悟は宏樹の豹変ぶりに驚きながら「いや、あの」と呟く。
「……もしかして、最近の姉の気落ちの原因は、あなただ。とか言わないですよね?」
煮え切らない信悟の態度に、宏樹の声音が一段と低くなった。
「えっ? 悠里さん、俺のせいで気落ちをしているんですか?」
信悟は、余計な一言を口走ってしまった。
「俺のせい?」
更なる低い声音と深く刻まれる皺が、宏樹の機嫌を損ねているのは、信悟も解った。
ピーピー
何かを言おうとしていた宏樹のジーンズのポケットから、音が鳴る。取り出したのはスマホだった。
「うわっ。……もしもし、萌恵? ……うん、忘れてないよ。待ち合わせまでまだ時間があるだろ? うん。行くよ。じゃあ」
彼女からの電話らしく、宏樹の顔が柔和になった。だが、切った途端に表情が瞬く間に変わって、その切り替えの早さは、俳優並みかもしれなかった。
「あんた、今夜、暇?」
よりによって、あんた呼び。信悟はなんだか解らないが、宏樹の怒りを買ったことを知った。
「み……店は夜の9時で閉めますから、その後なら」
その雰囲気に気圧されて信悟は素直に頷いた。
「9時ね。ちょっと付き合ってもらおうか」
信悟はただ、頷くことしか出来なかった。
***
9時ジャストに、宏樹は信悟を待ち構えていた。
「あんた、家どこ? 近いの?」
主導権は完全に宏樹に有った。
「そ、そこの路地を入った裏手のアパートだけど」
「成る程。じゃあちょうどいいや。あんたん家行くよ」
信悟に案内をさせて宏樹は信悟の部屋に行った。じっくり話し合うためである。
「あんた、名前、なんだっけ」
上がり込むなり、宏樹はそう尋ねた。
「大澤信悟、だけど」
「ふぅん。大澤さんか。あんた、姉さんの何?」
いきなり核心を突かれて、信悟はちょっとだけ黙った。
「何? って訊かれても……。悠里さんには、告白をする前に振られたというか……。そんな存在です」
信悟は本当のことを言うしか無かった。
「……告白する前に?」
宏樹は、その一言を聞いてなんだか考えているようだった。
「ふぅん……。そうか。姉さんが……」
ブツブツ呟いている。
「あの?」
「大澤さん、さぁ。単刀直入に訊くけど姉さんに惚れてるわけ?」
いきなり大澤さん、と呼ばれて目を白黒させながら、訊かれた質問に信悟は真剣に頷いた。
「好き、と言い切れる程じゃないけれど、辛そうに笑っていた美しさに惹かれています」
そして、出会いから今までの事を事実を宏樹に説明をして、宏樹は黙って聞いていた。
「成る程ね。そういうことか」
一通り聞くと、宏樹がため息をついた。
「俺はね、姉さんがとても大事なんだ。だから姉さんを泣かせる奴は許さないつもりでいたんだけど。大澤さんは違ったみたいだね。姉さんの元彼って、ちょっと自分勝手なところがある人だったんで、余計に姉さんに近付く男には、警戒をしていたんだけど。大澤さんは、違うみたいだね」
宏樹の話し方は随分と親しみがこもっているように聞こえた。それは、信悟に親しみを覚えたからだった。
「はぁ……」
宏樹の話し方に戸惑い、内容にも戸惑って、信悟は返事の仕方をあぐねていた。
「姉さんはさ。優しい人だから、孝彦さん……ああ、元彼ね……が、幸せにならないと、自分も幸せになってはダメだって考えていると思うんだよね」
宏樹の言いたいことが解る気がした。
「自分だけ幸せになるのは、相手に申し訳ない。ってことですか」
「そういうこと」
信悟が言うと、宏樹がにやっと笑った。解っているじゃないか。と言いたそうな笑いだ。
「でも、悠里さんが幸せになれば、元彼も幸せになるかもしれないですよね? 悠里さんの幸せを願っていると思いますが」
信悟が至極真っ当なことを言った。が。宏樹は微妙な表情をした。
「あー。うん、まぁ、姉さんが幸せになることを願ってくれているかもしれないけど、あの人もそれで幸せかどうかは解らないな。まぁ、あの人の事は、この際、どうでもいいよ」
宏樹は息を吐くと、信悟の顔を真っ直ぐ見た。
「姉さんは、まぁ鈍い人じゃないけれど、気になっている男性でもない限り、告白をされても無いのに、釘を差すようなことを言わないよ」
信悟はビックリした。
「それって、つまり。俺は少し期待してもいい、ってことですか?」
信悟が宏樹をじっと見た。
「期待はしていい、と思う。だけど、姉さんはまだまだ男性と恋愛をする気持ちになれていない、と思う。だからゆっくりあなたが姉さんの気持ちをほぐして下さい」
宏樹が信悟に頭を下げた。信悟もつられて頭を下げる。
「俺に出来るかどうかは解らないけれど、もう一歩を踏み出してみるよ」
「お願いします。……但し、姉さんを泣かせる事になったら、許さないですからね」
宏樹が信悟に釘を差して信悟は、コクコクと頷いた。もしかしたら、悠里より宏樹を攻略するべきなのかもしれない。
「では、俺はこれで」
宏樹が帰る。信悟は部屋から宏樹を見送った。
まだまだスタート地点に立ったばかり、と思えば、信悟も気長に考えられる。とりあえず、次の会合では思いきって声をかけてみよう、と決めた。
お題は「三日月」でした。
夏月が書くと何故かシスコンの兄もしくは弟を持つ女性が多い……
作中、信悟は花屋。悠里は喫茶店の店主です。




