桜並木
――彼女に出逢った時、辛そうなのに、綺麗に笑っていた。
俺の名前は大沢信悟。最近、この街で花屋を始めた。親戚が近所に住んでいて商店街に花屋が出来るといいのに、という話から俺に話が持ってこられた。
別の花屋で修行を積んで独立をしようと思っていた矢先の話で、開店資金がギリギリだったけれど、なんとか開店にこぎつけられそうだ、と思った。準備に追われていたある日。
近所に住んでいる親戚が手伝いに来てくれた。その時だった。彼女に出逢ったのは。悩みを抱えていたのか、目が哀しみを湛えていて。けれど、親戚に声をかけられて俺が挨拶をすると、綺麗な笑顔を浮かべた。
なんて、綺麗な笑顔なんだろう。
それが第一印象だった。彼女の名前は、高橋悠里さん。同じ商店街で喫茶店の店長だと聞いた。
親戚から聞いた話では、悠里さんは婚約者がいる。ということだった。そりゃ、あれだけ綺麗な笑顔の人なら、いるよな。と思っていた。
ところが。しばらくしてから聞いた話では、別れた。という。悠里さんの弟から聞いた話だから信憑性は高い、と親戚が言った。一体彼女に何が有ったのだろう。
そう思っても、顔見知りになった程度の俺が、そんな突っ込んだ話なんか出来るわけが無くて。商店街の集まりに挨拶をする程度でしか無かった。
そんな折、日課の早朝マラソンで俺は悠里さんと会う機会が有った。ちょっとだけ、親しく会話が出来た。それから、悠里さんが可愛く思えて。
その頃には、後戻り出来ない程、惹かれている自分に気付いた。
それからはもう悠里さんの事ばかりで。幸いと言うのか、悠里さんの店に飾る花を俺の店でご両親が買いに来てくれて、かなり親しくさせてもらっている。
特にお父さんと良く会話をさせてもらっていて、そのせいか悠里さんの店に顔を出すように良く誘われる。しかし、なかなか1人で彼女の元を訪れる事が出来なかった。
そんな俺の気持ちが丸わかりなのか、親戚が気を利かせてくれてバレンタインデーには悠里さんの店を訪れるきっかけをくれた。後から聞いたところ、実は親戚の初恋が悠里さんだったと言う。
なんとなく解る。憧れる気持ちが。
だから、悠里さんには幸せになってもらいたいのだ、と言っていた。初恋の女性の幸せを願う男の気持ちが解るだけに、尚更一歩進めないでいた。
やがて、悠里さんも早朝マラソンを始めたらしく、時々顔を合わせるようになった。会話も増えてますます惹かれていった。
「いつの間にか、桜の季節を迎えましたね」
昔から花好きの俺が女性と会話するきっかけに出すのは、花しか無くて。更に詳しく語ってしまう所からドン引きされて振られる経験ばかりの俺にとって、婚約者と別れた女性なんて、レベルが上過ぎてどうしていいのか分からない。
結局、無難な花の話題しか無かった。
「本当にそうですね。大沢さんがこの街にいらっしゃったのが冬だから、もう1つの季節が過ぎたんですね」
悠里さんの穏やかな声が耳に心地好い。
「そうですね。桜並木の下で走ると気持ちいいだろうなぁ」
目を細めて少し遠い桜並木を見た。今は、早朝マラソンじゃなくて悠里さんと歩いている。
残念ながらデートではなくて、悠里さんの店に飾る花について、悠里さんが俺の店に来た帰りだった。お互い、店が休みの今日は、前々から約束をしていることが有った。
悠里さんの店の花瓶を増やす話が有って、花屋の俺に相談したい、ということだった。それでまず、俺の店で明日飾る花を選んで、それから一緒に悠里さんの店へ向かっている。
「席ごとに花を活けたいというわけですよね?」
「ええ。一輪挿しがいいのか、一輪挿しより少し大きい花瓶がいいのか、分からなくて」
……実は、何度も悠里さんの店にお邪魔をしているから、改めて行かなくても判る。しかし、悠里さんと少しでも長く居たい俺としては、そういう話で店を見たことが無いから、改めてお邪魔をしたい、と言っておいた。
悠里さんの店で、改めて席を見回した俺は一輪挿しの方が良いと思う、と答えた。
「ありがとうございます。わざわざ来てもらってすみませんでした」
「いえ、仕事の一環ですから。今日は天気も良いし、散歩がてら桜並木を観てから帰ります」
例え10分でも長く居られれば、それで良かった。じゃあ……と帰ろうとした俺に、悠里さんが笑った。
「もしお急ぎじゃなかったら、コーヒーをお淹れします」
願ってもない申し出に一も二もなく頷いた。コーヒーを淹れてもらって、飲み終わる間まで、一緒に居られる。そう思えば、断る理由なんてどこにもなかった。
「悠里さんは、もう桜並木の下で走りましたか?」
最初は、高橋さん、と呼んでいたが、ご両親も高橋さんと呼んでいる俺に、悠里さんが名前で呼んで下さい、と言ってくれたので、名前で呼んでいる。
「ええ、この前。あの向こうの隣町まで行って、先も見て来ました」
「坂を下った先ですか?」
「ええ」
最近の彼女の笑顔は、辛そうな部分が無くて、ますます綺麗だ。その綺麗な笑顔で悠里さんが頷いた。
「へぇ。何だったんですか?」
「それに答えてしまっていいんですか?」
悠里さんが首を捻った。その拍子に髪の毛が流れて白い肌の首が見えた。なんだか色気を感じてドキリとしてしまう。
「あ、い、いや、楽しみは自分で解った方がいいですね、教わるより」
少しどもりながらも返事をすると、悠里さんがそうでしょう? と笑った。その笑顔は茶目っ気たっぷりで、またドキリとする。
今日の悠里さんは、俺の心臓に悪い。
自覚をしながらも、出されたコーヒーをゆっくり味わった。
「もし……」
コーヒーを飲む間の沈黙の時間で、俺はその誘い文句を考えていた。
「はい?」
「もし、悠里さんが良ければ……一緒に桜並木を歩きませんか?」
断られてもいいように、軽い口調にする。真剣な口調になって断られたら、しばらく立ち直れない気がした。
「ええ」
悠里さんが頷いた。……頷いた? 本当に?
「えっ? いいんですか?」
驚いて確認すると、悠里さんも驚いたようだった。
「えっ? 桜並木の散歩ですよね?」
悠里さんの質問に俺は強く頷く。いいんだ! 30を過ぎている男が、中学生みたいだ……と自分で思いながらも、嬉しくて仕方がなかった。コーヒーを飲み終えると俺は悠里さんと連れ立って、桜並木へ歩き出した。
夢のようなひとときだった。悠里さんと会話をして、悠里さんが俺を見て笑ってくれる。桜並木の美しさが更に夢のように思えた。
「悠里さん、俺に付き合わせてしまってすみませんでした」
「いいえ。楽しかったですから」
俺が頬をかきながら口にすると、悠里さんが首を振った。悠里さんの店の前で別れを告げる。
「あの、また、そのうち、今度は別のところへ、一緒に……」
もう少し悠里さんと距離を縮めたくて、誘いをかけた。もしかしたらオーケーを出してくれるんじゃないか、と期待して。でも、悠里さんの表情は曇った。
「ごめんなさい。今はまだ……。彼のことは思い出にしたけれど、だからといって他の男性を恋愛対象とは考えられないんです。だから」
悠里さんは、少なくとも俺が好意を抱いていることに、薄々気づいていたのだろう。また、ダメなんだ。と思うと、あやふやな笑みを浮かべて、帰るしかない。
明日から、どんな顔をして会えばいいのか解らないが、でも、すっぱり諦められるわけでもなかった。
お題は「花瓶」でした。
名前を付けるのも壊滅的に下手な夏月です。この悠里さんに香里さんに他樹里ちゃんというキャラまで見事に似通った名前……
夏月あるあるです←




