記憶
脳の中には様々な記憶を収める引き出しが、あるらしい。そうだとしたら、俺の苦い記憶も引き出しに仕舞って二度と開かないように鍵をかけたい。
だが、それは無理な話だ。無理やり衣類を押し込んで、溢れて閉じる事が出来ないタンスの引き出しのように、俺の脳の引き出しも溢れて閉じる事が出来ない。
あまりに長く居すぎた。彼女と。
親友の姪である彼女を初めて見たのは、まだ彼女が子どもで。高校を卒業したと同時に、俺を頼って業界に入り込んだ、はねっかえりで。
俺はいつまでも彼女の素敵なおじさまで居たかったのに、彼女を奪って、怖くなって離れて。けれど、他の男なんて寄せつけないように、切り捨てて仕事しろ、と言いおいて。
10年以上ほったらかしておいた。でも、ようやく素直になって迎えに行ったら……ピンキーリングと俺を置いて、去って行った。
迎えに行くのが遅すぎたのか。それともずっと俺だけを慕ってくれると思っていたのが間違いだったのか。
何度考えても解らない。両方なのかもしれないし、他の要因もあるのかもしれない。
男も結婚も切り捨てて仕事に打ち込め
そう言ったのは、ピンキーリングをあげたのは、いつか迎えに行く約束のつもりだったわけじゃない。
この仕事は甘くない。覚悟しろ。
そういうつもりだった。だが、思い返せば俺のエゴが入っていたのかもしれない。……失ってから気付く。いかに自分の中で水野香里という女性が、大きな存在だったか。
気付いた時に、不様だろうと笑われようと
離れて行くな
と言えば良かったのか。しかし、俺には出来なかった。理解力ある大人の男を演じるしかなかった。追い縋る? 出来るわけが無い。出来なかった時点で、結果は目に見えていた。
いや、出来たとしても結果は変わらなかったかもしれない。それでも今の、この中途半端な状態より良かったかもしれない。
しかし、仮定はあくまでも仮定だ。実際の俺は不様な姿など晒せずに彼女が去って行くのを止められなかった。
それから3年が経過して彼女が結婚した、と風の便りで聞いた。とても幸せそうな結婚だった、と。それだけでもふられた甲斐があったことにしよう。
50代も半ばだというのにカッコつけているのだから、我ながら笑ってしまう。だから女房にも去られてしまうのか。とりあえず、今日も今日で仕事をしよう。俺は生きている。
そう思うのに、彼女……水野香里の影が脳裏に過って、俺にしては珍しく仕事に集中力を欠いた。あちこちを歩いても楽しめない。こんなことは初めてだ。
思いの外引き摺っている自分が情けない。いや情けないでは済まされない。仕事に支障をきたすのは、社会人……それも新米などでは無いベテランとして、恥ずかしい。早々に気分転換をする必要がありそうだった。
今回は、案内役のいない気ままな仕事だから俺は飲み屋を探した。夕方だから開いている店はあるだろう。……本当はとっとと帰りたい街なんだけどな。
小料理屋を見つけた。飲み屋じゃなくても酒は置いてあるだろう。こういう佇まいの店は美味い物を出してくれる。
「いらっしゃい……あなた」
店内に入るなり、俺は目を丸くして、突っ立っていた。女将は……別れた女房だった。この街は女房が生まれ育った街だから、会う可能性はあった。だが、こんな再会になるとは思いも寄らなかった。
「……お前、こんなところで何をやっているんだ?」
他に言う事もあるだろうに、俺の口からはそれしか出て来ない。
とりあえず、カウンターの向こう側から察するに一人で切り盛りしている店のようだ。……時間が早いせいか、客もいない。
「あなたと離婚する時に言ったでしょ。やりたい事があるって」
「……それが、コレか? 俺と別れたいための嘘かと思った」
あれからどれだけの月日が流れただろう。20年は確実に。20歳そこそこの2人が結婚して10年以上一緒にいて、離婚した。女房の別れたい理由が、やりたい事がある。という曖昧なものだった。
「結婚している頃にね、この店の前店主のおば様――母の友人――が、病気になってね。入院していたけど、おば様は旦那さんと死別してから女手一つで育て上げた息子が、入院費用にこの店を売りに出していて。でも、ここは客が来ないから買い手も見つからない。お世話になったおば様だから、ローン会社からお金を借りて、私が店を買ったの。……入院費用は足りてもおば様は他界してしまったけどね。あなたに内緒で借りたお金だし、返さなくちゃならないし、買った店を営業しながら返す事にしたのよ」
女房の話に俺は何も言えなかった。
「……なんで、言わなかった?」
やっと搾り出したセリフがコレだ。仕事では伝説と呼ばれ、鬼と言われるこの俺が。……男女の事となれば、からっきし。笑いが込み上げてくるというものだ。
「言ってどうにかなるものなの?」
その言葉より、口調に俺ははっとした。なんて静かな声音と口調なのだろう。言葉は非難めいたものなのに、声音と口調で全然別物の言葉に聞こえる。
……俺は、いつからこの女性と対峙することを忘れていたのか。
目眩がしそうな程に、俺は二人で確かに過ごした日々を思い返していた。新婚の頃は確かに向き合っていたのだ。共に歩む道を違えないように確認しながら。分岐点では、向き合って話し合ってきたはずだった。
しかし、いつからか俺は向き合う事をやめた。仕事が忙しいと言い、家庭を省みず、それでも道が違えることはない、と高を括っていた。
その結果が、離婚の引き金になりはしなかっただろうか。俺は自然に頭を下げていた。
「すまん」
「今さら、何よ」
俺の謝罪の言葉に戸惑った声が飛んで来て、俺の脳天に突き刺さる。
「俺はいつからか慢心していた。お前と向き合う事から逃げていた。離婚の話が出た時でさえ……どこかで、お前は俺の事を理解しなかったのだ、と思った。そうじゃない。俺が努力をやめたんだ。だからお前は借金の事も店の事も話さなかった。俺が理解する気がない、と見抜いていたから。……そういう事、だろう?」
ゆっくり顔を上げると、女房は微笑んでいた。その笑みはいつかどこかで見た笑みだった。
必死になって思い出す。今、思い返さないと、全てが無くなりそうな気がして。
そうだ。あれは……
「俺が仕事で失敗した時、お前はその笑みを見せたな」
ポツリと呟く。笑われた、と思い、人の失敗を笑う女なのか! と思ったが、違った。あの時、なんて言ったっけ。
「失敗に気付いた事で、次は失敗をしないし、取り戻そうと頑張って成長出来るでしょ。……そう言ったな」
驚いた顔をしている。
「覚えていたの?」
「いや、思い出した。……俺は色んな事を見過ごしていたんだな、と解ったよ」
「……そう。あなた、いくら閑古鳥が鳴くような店でもね、いつまでも店先に突っ立っていられたら、邪魔なのよ。この店を見つけたってことは、お腹を空かせているんでしょ。座りなさいな。何か見繕ってあげるから」
促されてカウンターに腰かける。それから、水野を嫁にしなくて良かった、と思えた。きっと今までの俺のままでは、同じように離婚の道を辿っていたに違いないから。
俺が店を取材したことで、繁盛し、女房は借金を返せた。そのお礼なのか、いつ店に行っても、俺は女房から追い帰される事はなかった。
お題は「引き出し」でした。
ここまで【クリスマス・ギフトボックス】というお題掌編小説集その1から抜粋しました。
明日の更新はお題掌編小説集その2【トイ・ボックス】から抜粋したいと思います。その抜粋が終わり次第完結にさせて頂きます。
では、また明日。




