第6話 化け物と呼ばれても
「灰島。初任務だ」
一ノ瀬さん――いや、「凛さん」と呼べと言われたので、凛さんが、朝七時に俺の部屋のドアを叩いた。
隣に越してきてから、一週間。
この一週間で、凛さんについてわかったことがある。
まず、壁が薄いので生活音が丸聞こえだということ。凛さんは毎朝五時に起きて、筋トレと素振りをしている。床がみしみし鳴るので、すぐわかる。
次に、料理がまったくできないということ。引っ越してきた日に、カップ麺の空き容器が三つゴミ袋に入っているのを見た。見かねた小春が夕飯に誘ったら、無表情のまま肉じゃがを三杯おかわりしていた。
そして最後に――
「凛さん。それ、何ですか」
「プリンだ」
凛さんは、コンビニの袋から取り出したプリンを、真顔で食べながら答えた。朝の七時に。俺の部屋の玄関先で。
「朝ごはん、ですか」
「糖分は脳の唯一のエネルギー源だ。任務前に補給するのは合理的だ」
そう言いながら、凛さんの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
甘いものが好きらしい。
『あの女、プリンを食べると機嫌が良くなる』
ヨルが、学者のような口調で分析する。
『覚えておこう。何かあった時の交渉材料になる』
化け物のくせに、妙に処世術を学んでいた。
◆
任務の場所は、湾岸地区の廃工場だった。
数年前に倒産した食品加工会社の工場で、最近、ホームレスや肝試しに来た若者の失踪が相次いでいるという。
「蝕の巣になっている可能性が高い。C級からD級の小型が複数。B級が混じっている可能性もある」
工場の前に停めたワゴン車の中で、凛さんが説明する。
車内には、俺と凛さんのほかに、三人の対策官が乗っていた。
全員、俺を見る目が冷たかった。
特に、俺の正面に座っている男。短く刈り込んだ金髪に、耳にはピアス。二十代半ばくらいで、対策官というより、繁華街でたむろしていそうな雰囲気だ。
その男が、あからさまに舌打ちした。
「なあ、一ノ瀬。マジでコイツ連れてくの?」
「局長の決定だ、佐伯」
「局長の決定ねえ」
佐伯と呼ばれた男は、俺を頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めた。
「蝕を狩るのに蝕を使うとか、正気じゃねえだろ。後ろから喰われたらどうすんだよ」
「喰いません」
「どうだかな」
佐伯さんは、ふんと鼻を鳴らした。
「言っとくけどな、化け物。俺はお前を仲間だなんて思ってねえ。妙な動きしたら、蝕より先にお前を撃つ。わかったか」
化け物。
鷹宮にも言われた言葉だ。
わかっていたことだ。特災の人たちにとって、俺は「蝕」なんだ。彼らは毎日、蝕と命がけで戦っている。仲間を蝕に殺された人だって、きっといる。
そんな人たちに、「俺は人間です」と言ったところで、信じてもらえるはずがない。
「……わかりました」
俺は、それだけ答えた。
『ミナト。あの男、ぶん殴っていいか』
駄目だ、と心の中で返す。
『なぜだ。お前は腹を立てている。私にはわかる』
腹は立ってる。でも、殴ったら、あの人の言ってることが正しいって証明するだけだ。
『……人間は、面倒だな』
ヨルは不満そうに黙り込んだ。
◆
工場の中は、暗く、湿っていて、ひどい臭いがした。
腐った肉の臭い。そして、蝕の臭い。
ヨルと同化してから、俺の五感は異常に鋭くなっていた。暗闇でも、ぼんやりと周りが見える。そして、蝕の気配が、肌でわかる。
「……いる」
俺が呟くと、凛さんが足を止めた。
「どこだ」
「上と、奥。上に四……いや、五。奥に、もっとたくさん。それから――」
一番奥。工場の最深部から、ひときわ大きく、ひときわ濃い気配がした。
「奥に、でかいのが一体」
凛さんの目が鋭くなる。
「B級か」
「たぶん」
「チッ、本当かよ」
佐伯さんが、疑わしげに舌打ちした。
その直後だった。
天井から、何かが降ってきた。
灰色の、猿のような蝕。長い腕と、鋭い爪。一体、二体、三体――五体。俺が言った通りの数だった。
「散開!」
凛さんの号令で、対策官たちが一斉に動く。祓弾の青白い閃光が、暗い工場内を照らし出す。
一体の蝕が、俺に向かって飛びかかってきた。
「ヨル!」
『任せろ!』
右腕が黒く弾け、影刃が形成される。
一閃。
猿の蝕が、空中で真っ二つになった。
その感触に、俺は――ぞくりとした。
恐怖ではなかった。
快感、だった。
獲物を切り裂く感触。噴き出す体液。断末魔の悲鳴。そのすべてが、背骨をなで上げるように心地よかった。
――なんだ、これ。
戸惑う暇もなく、次の蝕が来る。
斬る。斬る。斬る。
気づけば、俺の周りには蝕の死骸が転がっていた。三体。俺一人で、三体を仕留めていた。
対策官たちが、呆然と俺を見ていた。
「……マジかよ」
佐伯さんが、銃を構えたまま呟いた。
死骸の胸で、核が脈打っている。
いい匂いがした。
俺は、三つの核を拾い上げて、次々と口に放り込んだ。
一つ喰うごとに、全身に力が満ちていく。視界がクリアになる。指先まで、熱いものが巡っていく。
うまい。
もっと。もっと喰いたい。
「……灰島」
凛さんの声で、我に返った。
振り返ると、凛さんが、じっと俺を見ていた。
その目に浮かんでいたのは、警戒だった。
他の対策官たちは、もっとはっきりしていた。
恐怖と、嫌悪。
蝕の核を、うまそうに貪る俺を見る目。
「――化け物が」
誰かが、小さく呟いた。
……そうだよな。
今の俺は、どこからどう見ても、化け物だ。
『ミナト』
ヨルが、静かに言った。
『お前の目が、赤くなっている』
慌てて、近くの割れたガラスに自分の顔を映す。
瞳が、血のように赤く光っていた。
瞬きをすると、元の黒に戻った。でも、確かに今、俺の目は赤かった。
『核を喰うたびに、お前の中の何かが大きくなっている。私ではない、何かが』
わかってる。
たぶんそれは、あの夜、小春の手首を掴んだ時に聞こえた声と、同じものだ。
◆
工場の奥へと進む途中で、佐伯さんが単独行動を取った。
「俺は右から回る。化け物と一緒に歩くのはごめんだ」
「待て、佐伯! 隊列を崩すな!」
凛さんの制止も聞かず、佐伯さんは脇の通路へと消えていった。
凛さんが、珍しく苛立ったように舌打ちする。
「……あの馬鹿」
「凛さん。あっちは――」
嫌な予感がした。
佐伯さんが入っていった通路の先。そこから、さっきの「でかい気配」が、ゆっくりと動き始めていた。
佐伯さんのほうへ。
「――まずい!」
俺は走り出していた。
「灰島!?」
凛さんの声を背中に聞きながら、通路を駆け抜ける。
角を曲がった先は、巨大な冷凍倉庫だった。
天井から吊るされた、錆びた鉤。床に散らばる、骨。
そして、その中央に――
熊のような巨体の蝕が、佐伯さんを壁際に追い詰めていた。
全身を甲殻のような灰色の装甲で覆い、両腕は巨大な鎌になっている。
B級。いや、もしかしたら、それ以上かもしれない。
佐伯さんの銃が、祓弾を連射する。だが、蝕の装甲に弾かれて、青白い火花が散るだけだ。
「くそっ、くそっ、なんで効かねえんだよ!」
蝕が、鎌を振り上げた。
間に合え。
俺は、全力で床を蹴った。
核を喰ったばかりの体は、信じられないほど軽かった。一瞬で、蝕と佐伯さんの間に滑り込む。
振り下ろされた鎌を、影刃で受け止めた。
ガギィィン!
衝撃が、腕から肩、背骨まで突き抜ける。膝が床にめり込みそうになる。
「お、お前……っ!?」
背後で、佐伯さんが絶句している。
「下がってください!」
俺は叫んだ。
蝕のもう一方の鎌が、横薙ぎに襲ってくる。
避けきれない。
鎌の刃が、俺の脇腹を深々と切り裂いた。
「ぐっ……!」
熱い。血が噴き出す。
『ミナト!』
ヨルの叫び声。
痛みで意識が飛びそうになる。でも、ここで倒れたら、後ろの佐伯さんが死ぬ。
歯を食いしばる。
「ヨル……装甲の、隙間だ……!」
『わかっている! 首の付け根、装甲の継ぎ目だ!』
ヨルと、意識が重なる。
影刃が、形を変えた。太い刃から、細く鋭い、針のような形に。
蝕の鎌を押し返し、懐に飛び込む。
首の付け根。灰色の装甲と装甲の、わずかな継ぎ目。
そこに、黒い針を突き立てた。
針は、装甲の内側で無数に枝分かれし、蝕の体内を蹂躙した。
「ゴアアアアアアアア!!」
蝕が、断末魔の咆哮を上げる。
そして、巨体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
静寂。
俺は、その場に膝をついた。脇腹から、血がどくどくと流れ出している。
でも、傷口がじわじわと塞がっていくのがわかった。ヨルが、内側から修復してくれている。
『無茶をするな、ミナト。私がいなければ死んでいたぞ』
「……ああ。ありがとな」
『礼はいい』
凛さんの口癖を真似したらしい。少しだけ笑えた。
振り返ると、佐伯さんが、壁にもたれたまま、呆然と俺を見ていた。
「……なんで」
掠れた声だった。
「なんで、助けた。俺、お前のこと、化け物って……撃つって言ったのに」
なんで、と聞かれても困る。
俺は少し考えてから、正直に答えた。
「目の前で人が死にそうになってたら、助けるでしょ。普通」
「普通、って……」
「あと、佐伯さんが死んだら、凛さんが悲しむと思うんで」
佐伯さんは、ぽかんと口を開けた。
それから、くしゃりと顔を歪めて、金髪をがしがしと掻きむしった。
「……っ、クソが。意味わかんねえ」
そう吐き捨てながら、佐伯さんは、俺に手を差し出した。
一瞬、何のことかわからなかった。
立てるか、ということらしい。
俺は、その手を掴んだ。
右手で。
佐伯さんは、一瞬だけびくりとしたが、手を離さなかった。
ぐい、と引っ張り起こされる。
「……借りは、返す」
目を合わせずに、佐伯さんはぼそりと言った。
「それと、化け物っつったのは、取り消さねえ。お前の戦い方は、どう見ても化け物だ」
「ですよね」
「でも」
佐伯さんは、ちらりと俺を見た。
「化け物にしちゃ、お人好しすぎる」
その時、凛さんと他の対策官たちが、冷凍倉庫に駆け込んできた。
倒れた巨大な蝕と、血まみれの俺と、俺の手を掴んでいる佐伯さんを見て、凛さんは一瞬、目を見開いた。
それから、小さく、本当に小さく、息を吐いた。
「……無茶をするな、灰島」
「すみません」
「謝るな。……よくやった」
その一言が、なぜか、胸の奥にじんわりと染みた。
◆
帰りの車の中で、ヨルが聞いてきた。
『ミナト。なぜ、あの男を助けた? あの男は、お前を嫌っていた。合理的ではない』
「合理的じゃなくても、助けるんだよ。人間ってのは」
『それも、お約束か?』
「……どうだろうな」
窓の外を、夜の湾岸の光が流れていく。
「お約束っていうより、意地かな」
『意地』
「化け物の力を使っても、化け物みたいなことはしない。それが、俺が人間でいるための、意地だ」
ヨルは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
『……意地。覚えておこう』
隣の席で、凛さんがコンビニで買ったシュークリームを無言で食べていた。
その横顔が、ほんの少しだけ、優しく見えた。




