第1話 承認印を押したら、転生していた
冥界の朝は、早い。
そして、書類の山は、高い。
俺の机には、今日も三百件の輪廻申請が、アルプス山脈のごとく聳え立っていた。
「木野係長! 今日の分、あと三百件です!」
「毎日それを聞いてる気がしますね。」
俺は木野。冥界・輪廻課第三係の係長だ。勤続八年、三十歳。仕事は、魂ごとに付いている「魂の履歴書」を読んで、その人がどう生きたかを確かめ、来世の行き先を決めること。
数は多い。それでも、一人ひとり、必ず「お疲れさまでした」と胸の中で声をかけてから、判子を押す。それが、八年間守ってきた、俺のルールだ。
目の前に浮かぶ履歴書には、生前の行いが、全部書いてある。
【前世:農夫。隣家の火事で三人を救った】
善人だ。胸の中で「お疲れさまでした」とつぶやいて、判子を押す。来世は「穏やかな家庭」行き。
次の一枚。
【前世:商人。税を逃れるため、裏帳簿をつけていた】
……グレー。何か違和感がある。迷う。迷って、もう一度だけ読み返す。
「係長、また読み返してますね。時間ないのに」
「念のためですよ、念のため」
ネクタイを直す。八年間、この癖だけは治らなかった。そして、この「念のため」こそが、八年間、一件の誤判定も出さなかった理由でもある。
……そう、思っていた。この日までは。
「木野くーん! ちょっといいかなー!」
部長だ。
背中に、冷たい汗が走った。部長がこの呼び方をする時は、だいたいロクなことがない。統計的にも、そうだ。
「この書類、決裁印がいるんだよ。急ぎでね!」
「……確認します。内容は?」
「いやー、どれでもいいから! とにかく押して!」
どれでもよくないだろ。
でも、八年間、逆らえた試しがない。俺は、渡された書類に、判子を構えた。
題名が、目に入る。
『輪廻転生申請書』
承認欄に、判子を――
……ん?
欄の見出しが、目に飛び込んだ。
『申請者:(押印)』――その横に、俺の名前。
『承認者:(空欄)』
待て。
逆だ。
申請者と承認者の欄が、逆に刷られている。このまま押したら、承認したつもりの俺が、申請者になる。つまり、俺が――
「部長、これ、欄が逆――」
ポン。
言い終わる前に、判子は、紙に着地していた。
八年間、押し続けた右手は、頭より先に動く。止まらなかった。止められなかった。
書類が、まばゆく光った。
「あ、やっべ。それ、ミスしてたやつだわ。」
「様式の改訂は、去年から提案していましたよね」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「そうだっけかー?」
「申請者と承認者が、逆の様式のままなんです。去年の稟議で出しました。部長が、保留にされました」
「あー、あったねー、そんなの。ごめーん」
足元で、魔法陣が展開する。
「係長!? 係長ー!!」
部下の悲鳴。「始末書はあとで書いとくからー」と叫ぶ、軽すぎる部長の声。
怒りは、あとから来るタイプだ。その時の俺は、頭の中で、三百件の書類が崩れていく音だけを聞いていた。
誰が、あれを、片付けるんだ。
そこで、世界が、真っ白に弾けた。
---土の匂いがした。
目を開けると、緑の天井があった。いや、枝だ。その隙間から見える空は、青かった。冥界の空は、いつも灰色だったから、それだけで、少し泣きそうになった。
「……森?」
体を起こす。背中に土。着ているのは、冥界のスーツのままだ。ネクタイまで、きっちり締まっている。我ながら、律儀すぎる。
手が、震えていた。
「確認します。木野。三十歳。冥界・輪廻課第三係、係長。」
声に出して、自分に言い聞かせる。念のため、頬もつねる。痛い、夢じゃない。
「自分の転生を申請してしまうとは、笑えませんね……」
笑えないはずなのに、口の端が、ちょっとだけ上がった。人間、限界を超えると、笑うらしい。
ありがとう部長。いや、ありがとうじゃない。始末書は、絶対に書かせる。
立ち上がった、その時。
視界の端で、光るものが、揺れた。
「……え?」
見慣れた、光る巻物。
木の陰から出てきた旅人風の男の頭上に、それが、ぷかぷかと浮かんでいた。
【魂の履歴書】
武力:B ほか:C
「これは…」
転生しても、仕事の力だけは残っていたらしい。ただし、前世の記録までは読めない。見えるのは、才能の大きさだけ。
それでも、震えが、止まった。八年間やってきた「見る」という仕事が、この世界でも、まだ、俺の手の中にある。
「他にも使える人がいるのかは、分からない。……まあ、いい。使えるものは使う。それが、俺の流儀だ。」
森を抜けた先に、街の門が見えた。
「止まれ。身分証は?」
「あ、持っていなくて。実は遠くから来まして」
「ない? じゃあ入れん」
「そこを、何とか。……無一文でして」
門番は、俺のスーツと革靴を、上から下まで眺めた。
「……変な格好してんな。どこの国の服だ、それは。首に布まで巻いて」
返す言葉が、なかった。
しばらくして、門番は、ため息をついた。
「ギルドに行け。冒険者として登録すれば、身分証が出る。日雇いの仕事もある」
「冒険者ですか……」
「他に道はないぞ、兄ちゃん。がんばれよ。」
ぶっきらぼうな言い方。でも、最後の一言は、思ったより、優しかった。
門番の頭上の履歴書は、武力B、ほかC。さっきの旅人と同じ。この世界の普通の人は、だいたい、それくらいらしい。
門の向こうに、冒険者ギルドの大きな看板が見える。
ネクタイを直す。
三十歳、事務職、戦闘経験ゼロ。
異世界での最初の就職活動が、いま、始まる。




