5
季節は秋になった。
八重咲吹雪が消えて半年が経った。
いつも奏芽の隣りにいた幼馴染は誰の記憶からも忘れ去られていた。
奏芽は人気の少ない通学路を一人ぼっちで歩く。
吹雪を忘れたのは人だけじゃない。世界が吹雪を忘れてしまった。小さい頃、一緒に手を繋いで渡った横断歩道。一緒に遊んだ公園の砂場や滑り台にブランコ。一緒に黄昏れた土手道。そのすべてが吹雪を忘れて寂れている。彼女の可憐で優しい笑顔は幻想よりも虚しい思い出として、暮井奏芽だけが世界で唯一覚えていた。
道路に積もる枯葉が、うら寂しい風に吹かれて舞う。
今は鮮明に思い出せる吹雪の顔や何もかもが、冬に向かって末枯れてゆく草木のように褪せていくのだと思うと酷く寂しくて胸が張り裂けそうになった。
それでも奏芽は歩いた。
今日は遅刻せずに学校にたどり着けた。
3時限目の世界史の授業が終わって奏芽は静かな場所で一人になりたいと思い至り、廊下を歩いて別棟に向かった。
連絡路を渡りきって登り階段に差し掛かったとき、奏芽は人影を発見した。階段の踊り場で佇む制服姿の少女。その後ろ姿にどこか懐かしい思いがこみ上げてくる気がして、立ち止まる。
しばらく見上げ眺めていると件の少女が振り返った。奏芽はその少女の容姿に息を呑んだ。
「……吹雪?」
その少女は吹雪と瓜二つだった。しかしすぐに違和感が奏芽を襲う。
「いや、誰だ……?」
まるで双子の様に吹雪とそっくりな少女の瞳は、宝石のルビーと同じく真っ赤だった。それは奏芽の知る幼馴染とは非なる存在だった。
奏芽の問いに少女は意味深に微笑んだだけで階段を登っていってしまう。
「おい……」
背中に声を掛けながら、慌てて後を追う。足音は階段をどんどん登っていく。やがて足音は屋上へと辿り着いた。
赤眼の少女と視線を交わし、対峙する。
「クレイカナメさん……ですね」
少女は自分を知っていた。
「あぁ、そうだけど……君は一体……誰だ?」
赤眼の少女は吹雪に似ているけれど、奏芽は確信を持って別人だと言い切れる自身があった。瞳の色以外でも表情や纏う雰囲気から、この目の前の人間は絶対に吹雪ではないと断言できる。
「私はサラ、貴方を迎えに来ました」
「迎え……?」
奏芽が怪訝な顔で聞き返すと、サラと名乗った少女は薄く笑みを作る。
「はい。私達の世界に来てもらいます」
「来てもらうって……」
いまいち要領を得ない返答しか引き出せなかった。そもそも、奏芽が知りたいのは彼女の名前でも目的でもないのだ。
奏芽は単刀直入に問うことにした。
「なんで吹雪とそっくりなんだ?」
赤眼の少女、サラが吹雪を知っているかは分からないが、無関係とも思えない。もし知らなければ改めて説明してみればいい。
奏芽は相手の言葉を静かに待った。
「フブキと似ている理由については申し訳ないですが答えることができません……しかし、フブキについては言えることがあります」
「吹雪を知っているのか……?」
「はい」
サラはそこで小さく息を吸う。
「フブキは今、ミレスカンナにいます」
「……ミレスカンナ?」
「はい。ミレスカンナは、そうですね……あなたに分かりやすく言うと、この世界とは異なる別世界。異世界です」
サラは真剣な眼差しで告げてから、やはり意味深に微笑んだ。
──異世界。
奏芽はサラの赤い眼の奥まで見据えるように目に力を込める。そして、告げられた言葉を理解しようと努めた。
この世界とは別の世界に幼馴染がいる。そんな荒唐無稽な話を信じるべきだろうか。けれど、もっと馬鹿馬鹿しく不条理な出来事を身を持って体験したではないか。日常の崩壊を叩きつけられたじゃないか。
奏芽は半年前に幼馴染が消えた時程混乱はしていなかった。
それでも考える時間が欲しかった。もっと理解したかった。しかし、それは叶わなかった。
「言いたいことも聞きたいことも尽きないでしょうし、あちらで話しましょう。そのほうがいいかも知れません」
そう提案しながらサラは奏芽の懐に歩き寄る。
そして唐突に奏芽の胸ぐらを、あくまで優しく掴み、軽々持ち上げてから屋上の柵に飛び乗った。
「ちょ……おい」
これには流石に奏芽も慌てて抵抗するが、身体が上手く動かない。まるで見えない力に押さえつけられているかのようだった。
サラは奏芽を掴む腕を掲げて、
「流れに身を任せて、歩けるようになったら塔の天辺を目指してください……死ぬことは無いはずです」
言葉を切ったのと同時に奏芽を掴み上げていた手を離した。
奏芽は落ちる。
幼馴染が消えて灰色の日々を送っていた奏芽の目に青空が広がった。今日は晴れていたらしい。 そんな感想を、必死に何かを掴もうとしながら胸に抱いて、それから死を覚悟した。
されど死は訪れず幻想世界が訪れた。
奏芽は落ちる。とっくに地面に激突しているはずなのに、尚も落ち続けている。
地面への激突に怯えて閉じた瞼を開けると、視界は果てしなく真っ暗だった。
奏芽は今も変わらず背から落ちている。いつ終わりが来るかも分からない暗闇の底が、落下への恐怖と合わさり奏芽を臓腑から震え上がらせる。
奏芽は空中で身を捻り、落下している方向を向く。薄闇の水面が広がった。
遥か下方に広がる水面には流れがあり、川なのだろうと奏芽は推測する。
しばらくの自由落下の末、奏芽はそれに激突したが、あれ程の落下距離に対して衝撃はごく僅かで、まるでプールに遊びで飛び込んだ程度の可愛い衝撃だった。
墜落した川は果てまで流れている。川の水はさほど冷たくは無く、流れも穏やかだった。しかし、足が地面に届く気配はまるで無く、奏芽は必死に顔だけを水面から突き出すことに労力を賭した。
やがて、僅かな余裕が生まれ、視界に黒い陸地を捉える。奏芽は川岸を目指して泳いだ。
黒い陸地に近づくにつれてぼんやりと人影が見えた。川岸に佇立する影は段々と鮮明になってゆく。それは黒いローブに身を包んでいて、こちらに手を差し伸べているようだ。助けてくれるのだろうか。不安に蝕まれつつあった心に芽生えた期待を抱えて、奏芽はさらに泳ぐ。
近づくにつれて瞳に映る黒い陸地がドロドロとしていて流動性があることに気づいた。そんな場所に立つ黒ローブの人物は手だけを差し伸べながら微動だにしない。
奏芽は更に近づき、黒ローブの人物に手を伸ばしかけて、息を呑んだ。黒い陸地は陸地では無かった。その全てが黒い蟲だった。ゆっくりと蠢く無数の黒い蟲。それが流動する陸の正体だった。
もしかしたらその蟲達の下にはちゃんとした陸地が存在しているかもしれない。だがそのゾロゾロと蠢く蟲の群の向こうを視認できない。
奏芽の心臓が、鼓動で怖気を全身に巡らせていく。恐怖の毒素によって硬直してしまう。
そして、すぐに嫌な予感を感じて、恐る恐る蟲の陸地から視線を黒ローブの人物に向けた。
依然として差し伸べられていた黒ローブの手は黄色いぬめりを帯びた骨だった。
奏芽はすかさず手を引っ込めた。逃げるように川に身を委ね、流された。それは先刻、赤眼の少女サラに告げられた『流れに身を任せてください』という言葉に添う形になっていた。
黒ローブが視界から消える頃には川の流れは早くなった。前方に目を向けると、終わりが近づいているかのようだった。実際それは正解で、奏芽は情けない絶叫とともに滝から落ちた。
落下した場所は滝壺ではなく、草むらだった。 奏芽は気を失っていたつもりは無いのだが、気づくと水気は消え、ふんわりと草むらに倒れ落ちた。天を仰いで目を凝らしても雫一滴落ちてはこない。赤眼の少女サラが言っていたように、本当に異世界なのだろうか。いや、異世界なのだろう。諦め色の確信を持ちながらも不思議なものを見るような面持ちで奏芽は当たりを見渡す。時計回りに岩肌、暗闇、岩肌、暗闇に小さな灯り。
サラは塔の天辺を目指せと言っていた。それが何処にあるかは定かではないが、遠くに見える小さな灯りが恐らくそれだろうと奏芽は決めつける。
奏芽が灯りに向かって足を踏み出した瞬間だった。後ろの暗闇から地響きがした。それは質量を持ってこちらに近づいてきていて、奏芽が逃げる間も無く姿を表す。
巨大な蛇の様なシルエット。鋭い爪を持つ前足。腐りかけの体を疎らに覆う赤黒く堅い鱗のような肌。ねっとりとした粘液を垂らす口から覗く無数の牙。腐り、朽ちかけてはいるが、それに相応しい名称は、龍。その幻想の生き物は憧れとは程遠い醜さで、濁った眼球は奏芽を射抜いていた。
「嘘だろ……」
その圧倒的な巨大生物に奏芽は足を震わせながら後ずさる。そして背を向けて駆け出した。
「何が死ぬことは無いはず……だよ!」
奏芽はサラへの怨嗟を呻きながら走った。冷静に思い返せばサラは死ぬことは無いはずと言っただけで死なないと断言してはいなかったのだから嘘はついていない。それでも恨みをぶつけずにはいられなかった。あんなにの追いつかれたら絶対に死ぬ。
朽ちかけの龍は前足で身体を引きずりながら奏芽に迫り、咆哮を上げる。それに驚いて奏芽は躓いてしまった。
奏芽が身体を起こしながら振り返ると龍は数メートル先で立ち止まり、口を大きく開いていた。
喉の奥が少し明るくなって強靭な牙をはっきりと浮き出させる。鱗が剥がれ、皮が捲れ、骨が剥き出しの龍。その腹から赤い炎が込み上げてくるのが見えた。
「……まじかよ」
それはまたも信じられない光景だった。
龍は口から炎の息を吐こうとしている。奏芽を焼き殺そうとしている。
しかし、肉体が腐っていたその龍は炎のブレスを吐きかけた瞬間に自らの炎で己の身体を燃やして断末魔をあげた。
「なんなんだよマジで……」
奏芽は悪態をつきながらも、絶命した様子の龍を見て安堵のため息を漏らす。
しばらく燃える龍を眺めてから踵を返して、今度こそ灯りを目指した。
辺りを警戒しながら遠くの灯りを目指す。身体の震えはいつしか治まっていた。
草むらを抜け、土の地面を歩き、石畳の道に変わる。道の両脇には、見慣れない姿形をした石像が立ち並び、新鮮な不気味さを醸し出す。
石像が突然動き出すのではないかという自分の妄想におっかなびっくり歩き続けること数分、目指していた灯りは大きな塔の天辺に灯っていると判明した。
奏芽は、あそこにたどり着けばこの不気味な冒険が終わると思うと、心が少しだけ軽くなる気がした。
塔の足元に辿り着く頃、聳える塔の後ろの湖を隔てて対岸に、無数の灯りがぽつぽつと増えた。
それらは栄えた街のようにも見えた。
人がいるなら助けを求めに行ってみたい気もするが、この広い湖を迂回するのは骨が折れそうだし、良い結果が待っているとも限らない。
塔を見上げてから奏芽は中に足を踏み入れて、石の螺旋階段を一段一段登る。グルグルと階段を登り続けて頂上にたどり着くと、強い風が吹いて篝火の炎が荒れていた。
奏芽はゆっくりと炎に近づく。そして、自分の意思か、あるいは理解を超えた力に誘われてか、奏芽は荒ぶる炎に手を伸ばした。炎に手が触れそうになった瞬間、強い光が放たれ、目を瞑る。
程なくして、光が引いた気配に瞼を上げると夜の森にいた。




