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閑話休題:まるで夢のような日々


(……また眠れない)


 これまで何度も転校を繰り返し、様々な環境に身を置いてきた。

 もしかしたら人生という一生の内、出会いと別れの経験を済ませたかもしれない。

 だけど、今まで眠れない日はなかった。


「ん~どうしよう」


 幸羽は用意された敷布団の上をゴロゴロと転がる。


 今まではベッドというのもあり、引っ越してから間もなくで慣れていないのもあった。


 それ以外にもエアコンの無い室内、開け放った窓には網戸をしている。その向こう側では昆虫たちの大合唱が、幸羽の眠りを妨げているのかもしれない。


 時刻は日付けが変わる頃。


 いつもだったら寝ている。


 それがここしばらく眠れず、明け方まで動画を垂れ流すのも飽きてきた。


 建物内を仕切る壁に防音効果はなく、プライベートがあってないようなもの。


 いくら母親の実家とはいえ、どうしても他の住人に気を遣ってしまう。


「……散歩でもしてこようかな」


 今までそんなことを考えたことも、したこともないから躊躇する。


 人口の多い都心部だったら深夜徘徊で警察に補導されそうなものだが、人間よりも動物や昆虫の方が活発的だ。


 そんな中、幸羽が1人で出歩いても誰も気に留めないだろう。


 寝っ転がりながら窓辺を、街灯よりも煌々と夜空に輝く月を見上げる。


「よし、行ってみるか」


 結論がでれば、後は行動あるのみ。


 幸羽は住人を起こさないように身支度を整え、足音を忍ばせて玄関へと向かう。


「……防犯意識」


 薄手のカーディガンを羽織り、玄関の扉を閉めている役割の突っ張り棒を引き抜く。


 そして年季の入った扉をゆっくりと音を立てないようにスライドさせたが、努力は虚しく微かに音が響いてしまう。


(ま、その時は怒られればいいや)


 あの母親が、一度でも幸羽を怒ったことはない。それ以外にも褒めるどころか、見られていたのかも定かじゃなかった。


 いつも淡々と家事をこなして、仕事から帰ってくる元夫の世話を焼く。


 それが身に染みているからなのか、実家に戻った母親はまるで抜け殻のような生活を送っているようだ。


 食事は摂っているようだが姿をみかける事はなく、気配だけは感じられる。


 どこか不気味に思いながらも、幸羽はすることのない夏休みを過ごす。


「結局、あそこでの日記帳ってどこ行ったんだろう」


 しばらくして幸羽の下にまとめた荷物のダンボールが届いていた。


 約束通りに荷物を送ってくれたことには感謝したが、肝心の日記帳が一冊足りないことに気づく。


 かといって連絡して探してもらおうにも、既に引っ越しを済ませているかもしれない。


 そうなれば探しようどころか、処分されている可能性が高かった。


「……栞凪の部屋に置き忘れてたら、穴掘って埋まろう」


 だが幸羽の部屋から持ち出すことは引っ越しの時以外なく、唯一家出をした際の三環家という可能性もあった。


 それはそれで、両親に見られるよりも恥ずかしい。


 特に好意を伝えた栞凪に読まれようものならば、想像しただけで全身の血液が沸騰しそうになる。


「それにしても、いい場所だな」


 気分を変えるように大きく伸びをして、吹き抜けた夜風に目を細めた。


 これまで朝起きてご飯を食べる、そして誰とも顔見知りじゃない学校へと登校する。学校が終われば寄り道もして楽しかったが、それは一時の感情でしかなかった。帰宅すればご飯を食べてお風呂に入って眠りに就く。


 そんな毎日、生活を過ごしてきて気づいた。


 1つの場所に留まることなく、誰ともつながりを築けずにいる。


 もしかしたらと思うこともあったが、そんな淡い期待は呆気なく打ち砕かれていく。


 だけど今、心のどこかで落ち着けたと思える余裕が芽吹きつつあった。


「……ここでなら」


 幸羽から一方的に連絡を絶ってきた、顔も名前も思いだせない同年代達に思いをはせる。

唯一鮮明なのは、栞凪達くらいの前の学校だけ。


「……帰ろ」


 土地勘のない場所を徘徊して迷子になったら迷惑をかけるかと思い、幸羽は来た道を引き返す。


 そしてまた音を立てないように玄関を潜り、用意された自分の部屋で横になる。


 次第に襲ってきた睡魔に意識を任せて眠りに就く。


 そういった、夏休みを過ごしていた。



「明日から新学期か」


 いつもであれば9月から新学期。


 今日が夏休みの最終日だと思いながら、幸羽は居間でテレビを流していた。


「……幸羽、ちょっといい」

「……お母さん」


 どこかへ出かけていた帰りなのか、久しぶりに姿を見た渚に幸羽は視線を向ける。


 食事はしっかりと摂っているようだったが、記憶にある姿とは思えないほどやつれていた。身なりにもそれほど力を入れなくなったのか、化粧をしている様子もない。


 テレビのボリュームを下げて、幸羽は渚と向かい合う。


「明日から近所の高校に通いなさい」

「わかった」

「その手続きは済ませてきたから」

「ありがとう」

「他に聞くことはある」

「ない」

「……そう」


 たったそれだけが親子にとって久しぶりの会話となった。


(となると、場所くらいは知っとかないとな)


 この場を立ち去っていく渚を見送り、幸羽はテーブルに置かれた学校のパンプレットを開いた。

 全校生徒数自体が少なく、学年の人数も精々が2クラス程度。近隣の小学校から中学へ、そのままこの高校へと上がる。


 ほぼ身内だけのような校内構成。


 そうなると、ほとんどグループのようなものが出来上がっている。


(……て、今さら考えても仕方ないか)


 だがそれは、いつもの事。


 時には学期の中途半端な時期もあり、グループに入れず浮いていたことだってある。


 そうならない為の処世術だって身に付けた。


 少なくとも残り1年半、この学校で過ごすことになる。


 そうとなれば、最初だけ繕ってもボロが出てしまう。


「よし、決めた」


 ある程度の方向性を固め、幸羽はテレビを消して立ちあがる。


「ちょっと学校まで行ってきます」

「大丈夫かい? 道、わかる?」


 台所で夕飯の用意をしている香子は、料理の手を止めて訊ねてくる。


 今日の夕飯は素麺のようだ。それ以外にも畑で育てている野菜を天ぷらに、豚のこま切れ肉はしゃぶしゃぶにでもする様子。


 夏だからといって栄養バランスや彩りを考えたメニューなのか、年の功を感じられる。


「まあその辺は、これ見ながらで」


 学校のパンフレットと、スマホを掲げて笑ってみせる。


「爺さん、良かったら送ってたらどうだい」

「……」

「あッ」


 台所への道を幸羽が塞いでしまったいたらしく、お風呂上りと思しき一矢が背後に立っていた。


 いつから話を聞いていたのかわからなかったが、道を開けて一矢の反応を窺う。


「どこか行くのか?」

「えっと、明日から学校なのでその下見に」

「……」


 幸羽を心配するような、ガサついた一矢の声音。スッと細められる目もとのシワを濃くさせ、会話の間が独特。


(……ん~やっぱりちょっと苦手かも)


 不自然にならなくくらいに口角を微かに上げる幸羽だったが、向けられていた一矢からの視線が逸れたことに肩を落とす。


「ちょっと爺さん」

「ついて来い」

「え?」


 だが不意に声だけをかけられ、先を行く一矢を追いかけた。


 外にでると、どこからか虫の声が響いてくる。


 それが夕暮れを報せる風物詩のように感じつつあった。


「婆さんには新しいのを買えって言われたんだが、自転車屋が好意で譲ってくれた」

「……私に?」

「……お前以外に誰がいる」


 物置小屋から出された、ほぼ真新しい近い1台の自転車。カラーリングも黒一色と、男女問わずに使える。


 なによりも目に留まったのが、サドル下に設置されたバッテリーパック。


「何かと勾配が多いから電動が便利らしいな」


 恐らく幸羽の顔も見知らぬ自転車屋さんからのアドバイスなのだろう。


 そうじゃなかったとしても、こうして用意してくれただけでも感謝しかなかった。


「ありがとうございます」

「……うん、大事にしろ」

(……あれ?)


 どこか照れたような、ガッカリとしたように一矢が家の中へと戻っていく。


 何か言葉を間違えたかと視線を向けると、玄関先で小さく手招きする香子が目に留まった。


 不思議に思って近寄ると、さらに耳を貸せと促してくる。


「爺さんな、孫のためだって張りきってたんじゃよ」

「ッ!?」


 それを知って、幸羽は一矢の背中を追いかける。


 夕飯ができるまで居間で夕刊を読むのが習慣らしく、一矢はテレビを付けながらリクライニング機能の付いた座椅子に座っていた。


「……どうした」


 幸羽の慌てぶりに視線を上げる一矢に、嬉しさを目いっぱい表す。


「ありがとう、お爺ちゃん」


 この家に来た時、香子もそうだった。


 自分の事を家族として認めてくれている。


 普段だったら口数の多い一矢に、最初は疑問を抱いていた。


「なに孫相手に照れてるんだい」

「照れておらんわ」

「ふふ」


 後からきた香子に図星を突かれたのか、一矢は夕刊に視線を戻してしまった。


 そんなやり取りに小さく笑い声をあげて、幸羽は二人へと感謝を伝える。


「行ってきます。お爺ちゃん、お婆ちゃん」

「夕飯までには帰っておいで」

「動物には気をつけろ」


 夕方とはいえ、夏だとまだ太陽が高くて空は明るい。


 スマホの充電も半分以上あるから心配ないが、何よりも帰ってきたら温かく迎えてくれる場所がある。


 そのことに、幸羽の足取りは軽かった。


「そうだ、ついでに授業で使うノートとか買ってこようと思うだけど、本屋とかってあるの?」

「都心部みたく大きいのはないが、高校近くに文房具屋さんがある。電話しとくか?」

「え、あ、そこまでは……大丈夫かな?」

「……そうか」


 一矢の温度感にしどろもどろになりながらも、幸羽は用意された自転車に跨って高校へと向かった。


「ん~涼しぃ」


 しっかりと電動アシストが作動することを確認しながら、幸羽はどこまでも伸びる田んぼ道を進んだ。



 それから、当たり前のように新学期が始まった。


「蓮永幸羽です。親の事情でこっちに引っ越してきました、今日からよろしくお願いします」


 舌に馴染んだ自己紹介を、幸羽は抑揚なく淡々と口にする。


 教壇から女子比率の高い20人ほどしかいないクラスメイト達に視線を向けた。


 反応はまばらだが、歓迎してもらえたのか拍手をされる。


(反応うっすぅ~)


 だからといって、大歓迎ムードというのも疲れる。


 担任の教師に指示された教室の真ん中列、その一番後ろの席に荷物を置いた。


 そして、さも当然のように朝のHRが始まる。そのまま流れるように全校朝礼があるため体育館へと移動し、より一層注目の的となった。



(……どうにか終わった)


 登校日初日。授業は翌日かららしく、ほとんどの生徒が休み明けの課題を提出するためだけに登校させられたに近い。


 そんな中、無関係な幸羽は窓辺の方へと視線を向けて過ごした。


 休憩時間を含めた四時間程度をどうにか過ごし、幸羽は帰路に就く。


「それにしても、誰からも声かけられなかった」


 いつもだったら席の近い生徒から声をかけられるものだが、興味という視線だけしか向けられなかった。


 それが不気味に感じてしまう。


「それならそれでやりやすいんだけど」


 明日からボッチの可能性が高まっただけで、幸羽にとって学校生活に支障はなかった。


 むしろ、それくらいの覚悟はしている。


「……日に焼けそう」


 燦々と夏の陽射しが照りつける中、幸羽はのんびりと自転車を走らせるのであった。



「朝早くに呼びだしてすまなかった、蓮永さん」

「気にしないで下さい、平松先生」


 その翌日、幸羽は朝から職員室に呼びだされた。


 平松(ひらまつ)修士(しゅうじ)。恰幅のいい体格を、有名なスポーツブランドの青色ジャージ。何故か上には白衣を羽織っているという不思議な格好をしていて、幸羽のクラス担任。


 初日に顔を合わせた時から情報量の多さにツッコミを入れなかったが、今も踏み込まずにいた。


「転校してきて日も浅い、学校生活での困りごとはどんなことでも聞いてください」

「ありがとうございます」


 恰幅のいい体格に似合わず、どこか堅苦しい口調。それでも何となく、恰幅のいい体格が接しやすさを醸しだしている。


 重くなった鞄を抱えながら、幸羽はふとした疑問を問いかけた。


「それにしても平松先生、こんな中途半端な時間から授業に混じってもいいんですか?」

「それに関しては――」

「「「ようこそ、蓮永さん!!」」」

「ッ!?」


 何かを言いかけた平松の声を遮るように、教室のドアを開けた瞬間にクラッカーが鳴り響く。

 あまりの出来事に目を丸くして立ち尽くしていると、平松が盛大に溜息を吐いた。


「こら、他のクラスは授業中だぞ」

「そうは言うけど、先生が歓迎会の準備するための時間作ってくれたんだし」

「朝早く来てみんなで準備したんですよ」


 教師らしい口調で注意しながらも、平松の態度は急にだらしなくなる。


「私だって後々校長先生に怒られるんだから、もうちょっと静かにだね」

「まま、とりあえず乾杯しましょうよ」


 まるで授業中とは思えない光景に、幸羽は教室内を見渡す。


 壁には折り紙で作った輪っかのリングが飾られ、正面の黒板はウェルカムボードと化していた。教室の中央には複数の机を繋ぎ合わせ、色々なお菓子が広げられている。


(……だから教科書を渡すだけなのに回りくどかったんだ)


 正直、早く終わってくれと思えるほど長かった。


 各教科の進捗に加えて、幸羽がどれくらいの学力があるかを知る口頭での質疑応答。


 せっかく朝早く登校した矢先、出端を挫かれた気持ちにもなったが帳消しにも等しかった。


「って、主役がそんなところにいちゃダメじゃん」


 クラスメイトの1人が気づき、幸羽を教壇の上に立たせる。


「それじゃ、これからよろしく蓮永さん」

「「「よろしく!」」」


 その音頭を筆頭に、クラスメイト達は紙コップを掲げた。


(こんな歓迎のされ方、初めてだ)


 未だに状況の整理ができずに、幸羽はただ呆気にとられていた。


 だけどわかることが1つだけある。


「こちらこそよろしく」


 そういって、幸羽も紙コップを掲げる。

 そこから次の授業時間まで使って歓迎会は続いた。


「はいはい、蓮永さんを中心に、ほら、もっとそっち寄って」

「ひらせ~ん、慌てて転ぶなよ」


 そんな忠告に、どっと笑いが湧きあがる。


「よぉ~し、撮るぞ」


 最後にウェルカムボードを背景に、クラスメイト達と集合写真を撮ってお開きとなった。


 その後平松先生は放送で校長室に呼びだされる中、生徒達は教室の後片付けもせずに次の授業を受ける。


 あまりの身の変わりように唖然とさせられながらも、幸羽も授業を受けた。



「蓮永さんって、前の学校で部活とかしてたの?」

「てかさ、その髪ってやっぱり染めてるよね?」

「蓮永さ~ん、帰りにどっか寄ってかない?」

「幸羽ちゃん、ここ教えて~」


 そしてサプライズパーティーを気に、幸羽はクラスメイト達との仲を深めていった。


 呼ばれ方も、距離感もそれぞれだ。


「部活には興味あったんだけど、前の学校は進学校だったからあんまり盛んじゃなかったかな」

「髪は、お察しの通りだよ」

「案内してくれるの? それはありがたい」

「あ~ここはこの文が~」


 変に明るく振舞ったり、ちょっとおバカなキャラは演じない。


 素のままで幸羽はクラスメイト達へと平等に接する。


 それも1ヵ月も経てば元からクラスメイトだったかのように馴染み、不自由なく学校生活を過ごせていた。


 だけど小さなコミュニティ、幸羽という存在はあっという間に広まっていく。


 他学年、他クラスからの訪問者。一目見ようという好奇心、まるで初めから友達だったような距離感で話しかけられる。


 それくらいなら許容範囲内だった。


「友達からでいいので、俺と付き合ってください」


 学生という青春は一瞬であり、どこに行っても逃れられない運命なのか。


 放課後に呼びだされた幸羽は、同じクラスメイトで隣の男子生徒に告白されていた。


「……えと~」


 それほど広くない学校内だが、人通りの少ないところはある。


 だけど今回は露骨すぎた。


 しっかりと隠れられている自信があるのだろう。


 非常階段に身を潜めているクラスメイトの姿が見受けられた。


 そして、勇気を振り絞って告白をしてくれた男子生徒。


(……何かの罰ゲームで告白させられてるのかな?)


 全貌はわからない。


 だからといって事情を尋ねるのも、本当に好意だったら傷つけてしまう。


 しかも席が隣ともなれば、気まずくなることは間違いない。


 それでも答えは決まっている。


「その、告白ありがとう。気持ちは嬉しいです」

「だ、だったら――」

「ごめんなさい、付き合ってる人がいるの」


 そういって微笑みを浮かべる。


「正確には付き合ってるわけじゃないんだけど、気持ちはしっかりと伝えてる。後は、返事待ち的な感じかな」


 百パーセント噓はいっていない。


 気持ちを伝えたのは本当で、返事に関しては連絡を絶っている。


 そうだったとしても、幸羽の気持ちは変わっていない。


「で、でも、もし向こうにも――」

「あと私、女の子が好きなの」


 そして食い下がってくる男子生徒に対して、とりつく島もなくとどめを刺しておく。


(あ~あ、これで明日から大変だぞ)


 何やら賑やかになる背後を無視して、幸羽は帰路に就いた。


「……栞凪、元気にしてるかな」



 季節は巡り、自然が多いからか明け方は夏の暑さが弱まっていく。


 そんな田んぼ道を、一矢から貰った電動自転車をゆっくりと漕ぎながら登校する。


「おはよう」


 そして教室に辿り着くと、クラスメイト達からの反応は様々だった。


 遠目からニヤニヤとしている男子生徒。


 ヒソヒソと噂話をしている女子生徒。


 興味がない振りをしながら、視線だけを向ける男子生徒。


 関わるまいと距離をとる女子生徒。


 Etc……。


(……くだらない)


 こうなることは予想していた。


 やたら広い地域だが、住人同士の関係は親密だ。まるで親族か親戚のような距離感で、些細な噂もすぐに広がる。


 そのことは、香子と一矢が幸羽の学校での生活を知っていることに驚かされた。


 そんな地域性が牙をむく。


 つい1ヵ月前の歓迎会を既視感させる、でかでかとチョークで書かれた『蓮永幸羽 同性愛者』という文字。


 誰が書いたかの見当はつかないが、こうなった元凶は知っている。


「……」


 教室の隅で固まって様子を、我関せずといった態度の男子生徒に視線を向ける。


 クラスメイト達からの注目を浴びながら、幸羽は自身の机に鞄を置いてから目的の男子生徒の元へと歩み寄る。


 逃げ場のない教室、周囲の男子生徒達が左右にはけた。


「……」


 俯いて黙り込む男子生徒を、幸羽は真顔で見据える。


「フラれた仕返しができて満足?」


 そういい捨てて、幸羽は黒板の文字を消すために教壇へと踵を返した。



 2ヵ月もあれば人は環境に適応するのか、幸羽の母親――渚にも動きがあった。


「夕方にはもどります」


 未だに生活リズムが合わないのか、あえて合わせていないのか。


 居間で朝食を摂っていた幸羽は、台所に立つ香子に挨拶をする渚の後ろ姿を目にする。


「……いってらっしゃい」

「……」


 玄関先に向かう渚に声をかけるも、聞こえていないのか反応がなかった。


(家にずっといるよりかはいい傾向なのかな?)


 それでも立ち直ろうとする渚の姿に、幸羽はただただ見守るのだった。

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