閑話休題:【私】というちっぽけな存在
人生で初めて両親の2人から連絡があった。
父親からは――、
《話がある》
母親からは――、
《帰って来てちょうだい》
そんな短い一文から、欲しい情報は得られなかった。
だから1度帰宅しないといけないのだが、嫌な予感が拭えない。
だったらこのままでもいいかと思えたけど、いつまでも他所の子を置き続ける状況は非常識だろう。
それくらい、頭では理解している。
(……帰ろう)
隣で眠る栞凪を横目に、幸羽は1度寝床を後にする。
リビングに行くと、遅い時間だというのに明かりがついていた。
「――」
「――」
何やら話し声が聞こえてくるが、聞き耳を立てるわけにもいかずドアノブに手をかけた。
「あら幸羽ちゃん、眠れないの?」
「……」
向かい合うように座っていた栞凪の両親。
あび子さんは驚いたように腰を軽く浮かせてたが、宏人は無言で幸羽を見据える。
(……この感じ、そうだよね)
2人の雰囲気から、幸羽は短く息を吐く。
「こんな遅くにすみません、両親から連絡があって明日の朝には帰ろうと思います」
「あら、急ね」
「……」
「もともと急だったのもありますし、明日から夏休みですから」
あび子はどこまでも優しい。
打って変わって、宏人は沈黙を貫く。
その空気に当てられながら、幸羽はどこかヘラっとした笑顔を浮かべる。
「それにいい加減話し合わないとは思ってたので、今日までありがとうございました」
「もう、何よ改まって。家族が1人増えた感じで楽しかったわよ。……ご両親とはしっかり話し合うのよ」
「はい」
どこか感極まったように喉を震わせるあび子に、幸羽は笑顔を向ける。
「……」
「えっと、おやすみなさい」
深々と頭を下げて立ち去ろうとする幸羽を、宏人は短い咳払いで足を止めさせる。
「子供があまり気を使うモノじゃない。……いつでも頼ると良い」
「ッ!?」
素っ気ない態度で立ちあがり、宏人はリビングを後にしていく。
「もぉ、素直に家にいていいって言えばいいのに」
「だって、さっきまで……」
「あら、聞かれてちゃった?」
お互いに悪戯がバレた子供のような表情を浮かべる。
幸羽は申し訳なさそうに、対してあび子ははしゃいでいた。
座るように促され、幸羽は出された冷たい麦茶で喉を潤す。
「さっき話してたのはね、やっぱり今後の生活についてよ」
開け透けた調子で本題に入り込むあび子に、幸羽は身を固くする。
「そんなに身構えないで聞いてちょうだい。幸羽ちゃんのご家庭について私達は口をだせないけど、こうして避難所? 的な場所としていてもらう分には問題ないの」
「そう言ってもらえるだけで嬉しいです」
ただ現実的な話をするのであれば、生活費の負担が圧し掛かる。もしもの時はとも考えが過ったが、行動に移すには至っていない。
「私もあの人もまだピンピンしてるから働けるけど、どうしても学費とかの手続きとかが難しいのよ」
大人になって、子供が出来れば直面する問題。
だから今の幸羽にはわからず、反応に困ってしまう。
「そんな話をしてたらあの人がね、フフ」
「……?」
ついさっきのやり取りを思いだしているのか、あび子が不意に笑うものだから不気味で身構えてしまう。
「いっそのこと家で養子縁として引き取るかなんて言うのよ」
「ッ!!」
「まったく、それこそ色々と手続きが面倒どころか調べないといけないのに」
あまりの申し出に、幸羽は言葉を失った。
だけどあび子も1度は考えたのか、突飛な発想をする宏人を笑う。
「そんな時に幸羽ちゃんが来たから話を止めたけど、本当に気にしなくていいのよ」
ただただ言葉にできない感情に包まれながら、幸羽はゆっくりと深呼吸をする。
「あび子さんと宏人さんには本当に頭が上がりません。本当にありがとうございます」
一言一句、しっかりと伝えたいことを言葉にする。
「だけど、両親とは話さないといけないとは思っていたので帰る意思は変わりません」
「……そっか」
背筋を正して向かい合う幸羽に、あび子は本当の我が子を見守るような視線を送る。
「けど、もしもの時は連絡します」
「待ってるわ」
そういって笑顔を向けるあび子に、幸羽は席を立った。
(本当にいい家族だな)
ベッドで眠る栞凪を起こさないように戻り、幸羽は床に就いた。
(……もう朝か)
そして翌日、太陽が昇り始める早朝に目を覚ます。せっかくの夏休み初日というのもあってまだ寝ていたいところだが、ダラダラとはしていられない。
寝不足の頭を必死に働かせ、栞凪を起こさないように注意を払う。
寝間着から制服に袖を通して、忘れ物がないか周囲を見渡す。
「……栞凪、行ってくるね」
規則的な寝息を立てる栞凪に微笑みかける。
「……」
もちろん返事はないのだが、その無防備な寝顔に幸羽は唇を真一文字に閉じる。
「……」
2人しかいないとわかりながらも視線を左右に動かし、もう1度栞凪を見つめる。
「唇じゃないからノーカンで」
そういって、幸羽は栞凪の頬に唇を落とした。
昨日の夜、あび子達にはいつ家を出るかを伝えていない。
にもかかわらず、あび子達はリビングでいつものように過ごしていた。
「おはよう」
「……」
「おはようございます。それと、行ってきます」
それには驚きを通り越して呆気にとられながらも、しっかりと挨拶を交わして三環家を後にした。
太陽が昇りきっていないとはいえ、今日も暑くなると伝わってくる温かい空気。よく晴れた青空を見あげながら、幸羽は改めて自宅への帰路に就く。
(……変な感じ)
朝が早いとはいえ、電車は動いている。
それは顔も知らない駅員さんが働いている証拠で、どこか感慨深い。
まだ学生という身分。アルバイトをしたことはない。働くという意味はぼんやりとだが理解しつつも、実感としては薄かった。
それでも、もしもを想像してしまう。
「ま、それはそれで楽しみではあるかな」
学業にバイトの両立。ただでさえ進学校というのもあって勉強は難しく、今でも必死にくらいついている状態だ。
もしもあの時、栞凪が引き受けてくれなかったら……。
「ただのおバカなクラスメイトどまりかな?」
どこか他人を寄せ付けないような、一線を引いているような態度。それは学年が上がるごとにクラスが変わるというのもあって、クラスメイト同士の繋がりが薄いのかもしれない。
特に寮生でない、実家から通う立場ともなれば。
それ故なのかもしれない。
だから一クラスメイトという認識で終わっていたかもしれなかった。
「……栞凪にとって、私はどんな存在になれたんだろう」
乗客がまばらな車内、幸羽はそんなことを考えながら揺られていた。
「……帰ってきちゃった」
それから10数分と電車に揺られ、駅から自宅までの距離を歩き終えた。
少し歩いただけで汗ばむ制服の内側に風を送りながら、幸羽はエントランスを抜ける。そのままエレベーターに乗り込み、まだ寝ているであろう両親を起こさないように気配を殺す。
「……ただいまぁ~」
声を潜めて玄関を潜り、幸羽は目を丸くさせた。
玄関からリビングを繋ぐ短い廊下をLEDライトが煌々と照らし、それもあって散乱する衣類が目に留まる。
それだけなら片付けに手が回っていないと想像できるが、この家では異常でしかない。
専業主婦として家事をこなし、塵すら残さないほどに掃除が行き届いている。
(……なにが起こってるの?)
そんな異変に、幸羽は眉根を寄せた。
玄関には両親の靴があるので在宅だとわかるが、この状態を放置している。
幸羽は室内に足を踏み入れる勇気を振り絞りながら、扉が開け放たれたままのリビングを見据えた。
「お母さん? お父さん?」
自宅に帰ったというのに足音を忍ばせ、幸羽はリビングへと向かう。
そこには今通ってきた廊下の比にならない惨状が広がっていた。
「……お母さん?」
まともな生活を過ごせていたのかが不思議なくらいキッチンを始め、リビングにモノが散乱していた。
目を凝らすと食器が割れていることに気づけ、足場の踏み場に困らされる。
その中、食卓に突っ伏している一人の姿。
ただ寝ているだけならいいが、嫌な予感が脳裏を過ってしまう。
「……帰ったのか」
「ッ!? お、お父さん」
リビングに足を踏み入れようとして、背後から声をかけられたことに幸羽は両肩を飛びあがらせた。
蓮永蓮司。全国をまたにかけ、各支社を転々と働くサラリーマン。
普段であればしっかりと整えられているであろう短い黒髪だが、寝起きというのもあってかボサボサのまま。顔色も悪そうに青白く、目もとには濃いクマができていた。
(……こんなの、こんなの絶対おかしいよ)
あまり家にいる事はなく、出勤する姿を時々見かけるくらい。
それでもわかるくらい、やつれていた。
「……おい、起きろ。幸羽が帰ってきたぞ」
「んッ」
苛立ちの籠った声音にドスを利かせ、蓮司は食卓で突っ伏している女性に掴みかかる。
「お父さん!」
そんなあまりにも暴力的な言動に、幸羽は自然と身体が動いていた。
「……幸羽?」
「……た、ただいま」
蓮永渚。手入れを欠かすことのない艶のある濃い茶色い髪は見る影もなくボサボサで、白髪がチラホラと目につく。元もと線が細くて、あまり自分の意見を口にしない性格。
だからいつも蓮司の言いなりに等しく、夫婦というよりも召使いに近かった。
他所の家を知らなかった幸羽にとってはそれが普通なのかと思い込んでいたが、今は違う。
三環家で過ごして、幸羽にとっての常識を一つ壊れている。
渚を庇う幸羽に、蓮司は露骨に舌打ちをした。
「幸羽。……本当に幸羽なの? どこに行ってたの」
「と、友達の家に泊まるって……」
「友達って! こんなに長い期間、ご両親方に迷惑でしょ!?」
「……」
あまりの物言いに、幸羽は両肩を掴みかかる渚を見据える。
その原因を作ったのは誰でもない、渚なのだ。
もちろんその後、しっかりと友達の家に泊まると告げている。
話しが噛み合っていない。
「チッ、うるせぇな。朝から騒ぐな、ご近所迷惑になるだろ」
「……」
露骨に嫌悪感を態度にだす蓮司にも、幸羽はただただ言葉を失う。
(壊れてる)
ただただ現況を理解させられる。
(逃げなきゃ)
本能的に動きだそうとするも、幸羽は動きを止めた。
(……どこに?)
見知らぬ土地での生活を始めて半年近く、頼れる大人は学校の教師くらい。
だけど、どう頼ればいい?
最悪、三環家に頼る手もある。
そうすれば、今の生活が保障されるかもしれない。
じゃあ、この夫婦はどうなる?
部屋の惨状、2人のやり取りに冷静な思考が働く。
「悪いが今日も仕事がある」
「貴方はいつもそればっかり! いい加減幸羽の進路も考えてよッ!」
「その話はもう済んだだろ?」
「……え?」
今日はそのことで改めて話すのかと帰ったが、本人不在で終わっている。
真っ白になる思考の中、視線だけを蓮司へと向けた。
「元はといえばこの転勤生活に付き合う必要はなかったんだ。コイツが勝手に付いてくるって――」
「それは! 家族は一緒にいるべきだからでしょ!?」
「……」
これまでで聞いたことのない、渚の荒げた声音。
それを鬱陶しそうに蓮司は表情を顰め、露骨に溜息を吐く。
「ホント、最初からそこにこだわってたよな。俺にはそれがよくわからなかった」
悠長に話し合うつもりがないのか、蓮司は食卓に寄りかかる。
「なによ、今さらおかしいって言いたいの? 貴方はそれを理解して、こうした生活を過ごしていたんでしょ?」
「責任を俺にだけ押しつけるな。こっちだって会社に事情を話して住まいを用意してもらうのも、学校や役所の手続きとかも毎回面倒なんだぞ」
「だったら離れて暮らしていた方が良かったっていうの?」
「実際そうだろ。そうすれば幸羽が毎回転校する必要も、こうして進路の話だってしなくて済んだ」
幸羽の知らない、夫婦がこの生活をするに至った大まかな経緯。
どちらにも非がある。
話を曖昧にしてきた結果が、この惨状を生んでしまった。
最初から選択肢を得ていなかった幸羽は、ただただ振り回されていただけでしかない。
(……私って、本当に必要だったのかな?)
両親の馴れ初めを聞いたことがない。
だけど、こうして夫婦として生活を過ごしている。
喧嘩をしている姿を目の当たりにするのは初めての事だが、何か特別なことがあればちょっとしたお祝いで夕飯が豪華になったりもした。
だからお互い、見えない何かで繋がっている。
それが夫婦の形なのかと、幸羽は思い込んでいた。
この悲劇を目の当たりにするまでは。
「これ以上は話が平行線だ。出て行くなら好きにしろ。荷物は……必要であれば送る」
「……そうさせてもらうわ」
「で、出て行くって? 誰が? どこに?」
1人だけ話に置いていかれる幸羽は、慌てて2人の間に割って入った。
だけど結果は変わらない。
「幸羽には今まで色々と迷惑をかけていたけど、お母さんと一緒に付いて来て。また転校することにはなるけど、そこでしっかり進路について考えよう」
「イヤ、私はここに残る」
まるで諭すように両手を握り締めてくる渚を、幸羽は力強く振りほどく。
「幸羽」
ちょっと力を銜えただけで大げさなほどに床に倒れる渚を横目に、幸羽は救いを求めるように蓮司へと視線を向けた。
「……お父さん」
「来月にはまた別の場所だ。ここには住めない」
だが救いはなく、無情にも現実を突きつけてくる。
それでも手がないわけじゃない。
「だったら、学校の寮だって――」
「誰がその費用を払うんだ?」
「……え?」
まるで幸羽を打ち捨てるかのように、蓮司は言い放つ。
「幸羽、遅かれ早かれ知る事だから今言わせてもらう」
改まった蓮司の態度に、脳内の警笛が鳴り響く。
(聞きたくないッ!)
本能的に耳を塞ぎたくなるが、そんな暇を与えてもらえることはなかった。
「父さんたちな、離婚することにしたから」
どこまでも一方的な振る舞いの両親に対して、幸羽は歯を食いしばる。
「あとの事は弁護士に任せてる、高校は卒業できるから安心しろ」
「そんな」
「じゃあ、俺は仕事があるから。送ってほしい荷物はまとめておけよ」
「そんなの」
もうこの場には用がないと立ち去ろうとする蓮司を、幸羽は引き留めようと手を伸ばす。
「幸羽、元気でな」
「ッ!?」
いつか見た、蓮司が父親として向けた柔らかな表情。
それが今では申し訳なさげで、現実を受け止めようとしていた。
「……」
伸ばした手は空を切り、リビングから出て行く蓮司を見送る。それからすぐ、玄関のドアが開く音が聞こえてきた。
(……ああ、もうダメなんだ)
両親がどんな思いでこの決断をしたのかはわからない。
だけどあんまりだ。
「……幸羽、ごめんね」
「……」
恐らくこの事実を隠したまま、渚は幸羽と一緒に家を出ようとしたのだろう。
その思惑は叶わず、ただ涙を流している。
(……泣きたいのは私の方だよ)
行き場のない感情を、長く吐いた溜息に込める。
(もうここにはいられない……)
何度目となる転校には慣れている。
それもあってか、幸羽の思考は冷静に切り替わっていた。
「荷物、まとめてくるから」
それだけ言って、幸羽は自室へと踵を返した。
「……」
リビングですすり泣く渚を無視して、幸羽は自室の扉に背中を預ける。
元もと生活に必要最低限の物しか荷解きをしていない。だから着替えをダンボールに詰めるくらいで、1時間とかからなかった。
「……」
そして鞄から取りだしたスマホの画面を見つめる。
後は登録している友達を消すだけ。
正確には関係値のリセット。
転校した先でも連絡を取り合うわけでもなく、ただただ登録したままというのも意味が分からない。
それもあってトーク画面は公式アプリばかり。
クラスメイトに招待されたクラス内グループを退会し、他の小さな集まりもブロックして履歴を削除する。
(……今回は多いな)
始めから交流を深めるつもりはなかったが、気づけばクラスメイト以上と連絡先を交換していたようだ。
会話の内容も他愛もなく、一言二言で終わっていたりもする。
「次から直接呼びだしてもらおうかな……」
トーク履歴をスクロールしていくと、幸羽の方から一言で終わっている。
それもそのはずで、ほとんどが告白の呼びだしだからだ。クラスメイト経由で他クラスメイトに流れ、特に接点の薄い相手から呼びだされる。
その度に交際を申し込まれてきた。
一種の恋人がいるというアドバンテージに憧れてなのか、転校してきてからのしばらくは呼びだしが絶えなかったの覚えている。
中にはクラスメイトも数人いたが、断ってからは会話すらしていない。
それを知るのは主に行動が一緒だった3人組――遊佐に逢田、立花達だけ。
もしかしなくとも、全ての元凶に等しかった。
だから感慨に浸る間もなく、ブロックしてからトーク履歴から削除していく。
「……」
手慣れた動作を繰り返していき、あっという間に公式アプリが多くなっていく。
だけど一件、消すのを躊躇うアイコンに手が止まる。
(……最後くらい、栞凪にはお別れ言っておこうかな)
三環家を出てから一時間ほど経っている。もしかしたら起きているかもしれないが、今日から夏休みというのもあってまだ寝ているかもしれない。
そうだったら申し訳ないし、あまりにも事情が複雑だ。
「……落ち着いたら連絡しよう」
スマホの画面をホームに戻し、幸羽は荷造りを始めた。
気づけば時刻はちょうどお昼時。
「忘れ物はない?」
「……うん」
元もと生活に必要最低限しかモノがない。
転校するたびに教材や制服が変わってしまう。教材は仕方ないとして、毎回のように真新しい制服を買うのはお金がかかり過ぎる。
だから、何回目かの転校先に学校の制服を着続けていた。
それがどこだったかは思いだせないが、そのかいもあって新しい場所での会話の糸口として使いやすくなっている。
玄関先にダンボールを3つほど積み重ね、幸羽は改めて室内を見据えた。
帰ってきた時とは見違えるほどに掃除が行き届き、今では見る影もない。それは長年の専業主婦としての腕をみせたのか、渚が全て一人でこなしてみせた。
幸羽も手伝おうとはしたが、何か思うところがあったのだろう。
そんなことをしていて、今に至る。
「……お母さんはそれだけでいいの?」
「ええ」
着替え類を大き目なキャリーバッグに詰めた幸羽だが、渚はそれ以上に少ない。肩からかけられる小さめのポーチに、それより少し大きめのトートバック。
まるでそれ以外は不要とでもいうのか、全てをゴミ袋に入れているのを目にしている。
「どこかでお昼でも食べようか」
「……うん」
夏の暑さを感じさせない、どこか爽やかな口調の渚。
渚のさっきまでの取り乱しっぷりからの豹変に、幸羽は首を縦に振るしかなかった。
(……もう手遅れなんだろうな)
促されるように玄関をでて、よく晴れた夏の青空に目を細める。
カチャ。
背後で鍵を閉める音を耳に、幸羽のここでの生活が終わった。
それからの事は、ただ茫然としか覚えていない。
最寄り駅に隣接するファストフード店でお昼を済ませ、学校とは反対方向に向かう電車に乗る。そこからさらに乗り継ぎ、移動だけで陽は暮れていた。
「ここからもう少し歩くからね」
「うん」
ボタンを押すことで扉が開く電車を降りる。
空調の利いた電車内と比べると蒸し暑いが、吹き抜けた風の清涼感が頬を撫でた。
(……同じ日本なのに、違うところに来たみたい)
これまでも自然の木々や緑が多く、見渡す限りの田園風景が印象的な場所には訪れたことはあった。
だけど今は日が暮れて全容を把握できないが、そうなのだと感覚で理解する。
(切符とかどうすればいいんだろう)
駅のような小屋はあるが、人の気配はなかった。
せっかく切符を買ったのに、これでは出れない。
「幸羽、行くわよ」
「あ、うん」
先を行く渚は、地面から伸びる四角柱のそれに切符を入れた。
(……それでいいんだ)
もしかしたら駅員さんの就業時間が過ぎて不在なだけで、昼間はいるのかもしれない。
そう思いながら、幸羽も切符を入れて駅をでた。
ガラガラと引き摺るキャリーバッグの音だけが良く響く。車通りが少なく、頭上を照らす街灯は等間隔ながらも数が少なくて心もとない。
それでも渚の足取りには迷いがなく、幸羽はただただついて歩いた。
(……住人はいるみたいだけど、変な感じ)
キョロキョロと辺りを見渡すと、点々とする家屋から明かりが漏れている。
それでしか住人の存在を知ることができないが、どこか温かみのある雰囲気が漂っていた。
「……ふぅ」
「着いたの?」
不意に立ち止まった渚の視線を、幸羽は目で追った。
一軒家と呼ばれる平屋。その建物を囲うように生け垣があり、幸羽の背丈ほどある。
「……」
(……どうしたんだろう?)
敷地内に踏み入るのを躊躇っているのか、渚はその場から動こうとしない。
それを不思議そうに見守ることしかできず、至る所から聞こえてくる虫の声に耳を澄ました。
「ちょっと待っててね」
「あ、うん」
渚の中で覚悟が決まったのか、迷いない足取りで玄関の方へと歩いていく。
それからしばらくして家の中から人がでてきて、何やら話し込み始めた。
(かゆ)
ここまでの道中で蚊にでも刺されたのか、右太腿をかく。
「幸羽、おいで」
そう呼ばれて、幸羽はキャリーバッグをひいた。
「……」
「お母さん、私の娘です」
「……初めまして」
隣に並ぶと、目の前にいる初老の女性に紹介される。
脳が状況を理解するよりも早く、幸羽はぺこりとお辞儀をした。
(お母さんのお母さんってことは、私にとってはおばあちゃん?)
顔をあげて、改めて正面にいる初老の女性と向かい合う。
年齢を重ねてきたシワは濃く深く、腰が少し曲がっているが歩行には問題なさそうだ。線の細い印象を与えるが、どこか芯のある雰囲気。就寝の準備をしていたのか、長い白髪の髪をおろしている。
「……」
「……」
初対面の相手にジッと見つめられるのは、ただ気まずい。
(あれ~違うのかな~)
とりあえず口角をあげて笑顔を作る幸羽に、初老の女性は溜息を吐いた。
「急に出て行って、帰ってきたと思ったら何だい」
「ッ!?」
「お母さんッ」
知られざる渚の一部に触れ、幸羽は視線だけを向ける。
実の母親に対して憤りながらも、どこか焦りを滲ませていた。
その短いやり取りに、幸羽はスッと目線を落とす。
(……あの生活にもいろいろ事情があったのかな)
だがそのいろいろを知る術はなく、探る必要があるのかと考えさせられる。
「あたしは守屋香子。……お前さんは」
「あ、蓮永幸羽です」
「……こはね」
「えっと、幸せって書いて鳥の羽です」
「……そうかい」
それだけ言って、香子は家の奥へと戻っていく。
「ちょっと、お母さん」
「うるさいね、アンタは。いつまでもそんなところにいないで上がりな」
どこかバツが悪そうに表情を歪める渚に、幸羽は視線を彷徨わせる。
「アンタ、幸羽もだよ。……お腹空いてないかい」
「えっと」
そう指摘され、幸羽のお腹は小さくなった。
お腹の音に満足したのか、香子はただ笑ってみせる。
「食べれないモノはあるのかい?」
「……アレルギーとかはないと思います」
確認のため渚に視線を向けると、無言で首を縦に振って敷居を跨ぐ。
「ただいま」
「ああ、お帰り」
気まずそうに靴を脱ぐと、渚は家の奥へと消えていく。
そんな態度に嘆息する香子だったが呼び止める事はなく、幸羽へと視線を戻した。
「ここまで来るの疲れただろう。ご飯食べてる間にお風呂も用意しとくから、今日はゆっくりしな」
「ありがとうございます」
「……」
ポツンと玄関先に残された幸羽に、香子は鋭い視線を向ける。
(……あれ、怒らせるようなこと言ったかな?)
年の功というのもあるのか、香子から注がれる視線に背筋を正す。
「孫が畏まるんじゃないよ」
「ッ!?」
これまで親戚という存在を知らなかった。気にならなかったというのもあったが、改めて実感させられる。
「とは言え、急には無理だろうからおいおい慣れていけばいいよ」
「は、はい」
どうしても返事が固くなってしまう。
そんな幸羽を面白がるように笑うと、香子は奥へと消えていった。
(……不思議な感じ)
遅れて誰かを呼ぶ香子の声を聞きながら、幸羽は敷居を跨いだ。
年季の入った木造家屋。長年ここで生活する住人の一部として存在し、共に四季を巡ってきたのだろう。
嗅ぎ慣れない他所の家に足を踏み入れ、キャリーバッグを担いだ。
奥から快活とし、年齢を感じさせない鍛えられた巨体の男性に身構えてしまう。香子に紹介され、幸羽にとってお爺ちゃんにあたる人だと知る。
守屋一矢。白のタンクトップ姿は少年のような格好で、こんがりと焼けは肌がそれをさらに印象を強くさせる。
もしかしたら現役の高校男子よりもパワフルかもしれない。
(何だろう、急に賑やかになったな)
三環家での時は賑やかだったが、蓮永家では静かな時が多かった。
そしてついさっき顔を合わせたばかりで、会話のとっかかりが見つからない。
「アイツ、急に帰ってきて挨拶はあったんだが、たく……」
「そんなこと幸羽にグチってもしょうがないでしょ」
「それもそうだが……」
「……」
気まずい空気が流れるかと思いきや、よくしゃべる一矢。
お陰で多少は気楽に夕飯をいただく。
(……こういうのもアリだな)
心残りはありつつも、新しい環境での生活に適応するのは手慣れたもの。どこか振り切ったような、達観した余裕が幸羽の中に生まれつつあった。




