最終局面、前奏
何が起こった。
刹那、トーラルの輪郭が揺れた。それは視界のぼやけとも思えるほど微細で、気にする必要もないくらいの、誤差のような揺れ方だった。
しかし、レンはその誤差を見逃した。――否、正確には見切れなかった。だからこそ、今レンは
「……ッ……ゴホッ……」
――無抵抗で壁に沈み込んでいるのだ。
痛みと衝撃が脳を焼く。水に投げられる石のように、レンはなんの反応もできずに壁にぶち当たり、その衝撃の強さ故に壁に沈み込んでいた。
自分が小さく丸まれば身を隠すことができるだろう程の破壊痕から這いずり出て、頭を振って意識を回帰させる。
血に濡れて赤く染まった視界の先、直前までレンが立っていた場所にトーラルが立っている。
状況から察するに、文字通り目にも留まらぬ速さでレンが投げ飛ばされたのだろう。
事実を飲み込み、咀嚼し、吐き出されるのは困惑と疑問だ。
先まで拮抗していた身体能力に、何故ここまで急激な差が発生したのか。
それがレンには皆目見当も付かないのだ。
それは、ギリギリの戦いにおいて致命的な欠点であり、故に――、
「キミの負けだよ」
瞬き。耳元で聞こえる声は接近されたことを示す。視線を動かす間さえ無く――レンの腹部に拳が沈み込む。
視界が霞み、衝撃が嘔吐感を強制する。
だが胃液が口から漏れ出るよりも早く、レンの頭部がトーラルに掴まれる。
――やはり、掴むために動かされた腕の動きすらわからなかった。
そのまま、トーラルがレンの頭を石壁へ叩きつけ、叩きつけ、叩きつけ――、
破壊痕が、広がっていく。
「が……あっ、あああぁぁ!」
――まずい。まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。
今この状況は戦闘ではなく蹂躙だ。勝ちの目など一切なく、強者が弱者をいたぶるだけの、無意味で無意義な苦痛の時間。
頭が割れるような――実際割れかけているだろう痛みが絶え間なく響き、その痛みにレンが絶叫する。
「何も! 知らねー! ただのガキが! 僕に! 勝てると! 思い上がってんじゃ! ねーぞ!!」
――この一瞬で、洒落にならないレベルのダメージを食らっている。
一節ごとに壁に頭を叩きつけてくるトーラル。その言葉すら聞き取れない。
こめかみから。耳から。額から。ありとあらゆる部位から血を流し、幾度となく打ち付けられる衝撃に意識が遠のく。
抵抗もできず叩きつけられるレンはトーラルに投げ飛ばされ、もんどり打って地面を転がり、息も絶え絶えに意識を繋ぐ。
「ハァ……ここまでやれば……いくら頑丈だろーと立てねーだろ……」
肩を上下させて荒い呼吸を見せるトーラル。
その姿を捉える視界がチカチカと瞬くのは目の不備か、脳の不備か、それともその両方だろうか。
――わからない。何も、わからない。
この視界の瞬きも、急激にトーラルが強くなった訳も、何も。
だが一つだけ、わからないまでも予測できることもある。
「……いくらなんでも……強く、なりすぎじゃねえか……なあ、オイ……」
「――ッ! まだ倒れ……!?」
驚愕に目を見開くトーラルの姿を、レンは視認できていない。
俯き、膝をがくがくと震わせて、血を吐きながら、言葉を続ける。
「そんなんがあるなら……最初っから使えば良いのに、そう……しなかった」
レンを大幅に突き放すような技がありながら、最初からそれを使用しない。今この状況からわかるように、使えば即座に圧倒ができるというのに、渋っていた。
たとえここに立つのがレンでなくとも、その不可解な行動には眉を曲げざるを得ないだろう。
何か制約があるのだろうか。準備に時間がかかるものなのだろうか。
そうでなければ――、
「――負担のでけえ、短時間の大技なのか……とかな」
息と血を吐きながら、断定せんと鋭い眼光でトーラルを睨みつけて、言い切った。
■■■
――身体強化魔法。
魔力を体に巡らせることで、文字通り自身の身体能力を大幅に向上させる魔法だ。
訓練、鍛錬、修練。血の滲むような研鑽を重ね、絶え間ない努力の末に習得できる、高度な魔法だ。
故に身体強化魔法を習得した者は、鍛えた体に重ねられる魔法により本来の実力を何倍にも跳ね上げて戦うことが可能となる。
――だが、得てして世界は表裏一体だ。
何事にも、メリットとデメリットが存在している。それは身体強化魔法も例外ではない。
身体強化魔法のデメリット。
それは身体全体に魔力を流す方法上、魔力の消費が莫大というものだ。まるで栓を抜いた風呂の水のように、使用者の魔力は抜けていく。例外は、無い。
■■■
――さあ、正念場だ。
フラフラだろうと立て。生きろ。諦めず、意志を燃やして立ち続けろ。
負けるのなんて我慢ならない。勝って、歩いて、先に進みたい。
それになにより――、
「……未知をわからずに死ぬなんて、勿体ねえよなあ」
「――ッ!」
蚊の鳴くようなレンの小声は届いていない。
視線の先のトーラルが声にもならない焦った音を漏らす。
鋭い眼光に怯んだのでなければ、答えは一つだ。
即ち、
「さっきと違って、本気で図星だな……!?」
「――ッ! だから何だって言うんだよ! 君はこれを見切れない! 対処できねーのは変わらねー事実だ!!」
とうとうと解説を叩きつけるレンに痺れを切らしたとでもいうように、トーラルが怒髪天を衝く勢いで言い放つ。
確かにトーラルの言う通り、レンは急速に身体能力が向上した彼の動きを見切れない。
だが、対処できるかどうかとそれは別だ。
「――」
賭けだが、目はある――否、正確には、見つけ出した。
失敗すれば無様に、無防備に、先と同じ様な威力の攻撃を受けてしまうだろう。そうなれば敗北は必須。命すら落としかねない。
「……けど、賭けなきゃどっちみち、だ」
動き出しすら見えない以上、最早勘だ。
風が吹く予兆を感じ取るのが困難なように、今のレンにはトーラルの動き始める予兆など掴みようもない。
――刹那、トーラルの輪郭が再び揺れる。
「ここぉ――!」
同時。レンが横っ跳びをする。最早倒れ込むように動くレンの真横を、矢のような速度でトーラルが過ぎていった。
矢と異なるのは、力強く地を蹴った印が石畳に残っていることだろうか。
なにはともあれ――
「……こいつ……ッ!」
「やっぱりだ! お前、扱いきれてねえよな!」
――賭けには勝った。
逼迫した顔でレンは笑う。
――一度目の突進、そして壁に叩きつけをする際の二度目の接近、そのどちらも、これまでのトーラルからは考えられないほど直線的だった。
圧倒できるが、それに慢心せずにブラフを張っていた可能性はあった。
「制限時間があって、尚且つ扱いきれねえ! 焦るのも無理ないよなァ!」
痛みを忘れて血を吐きながら、半ば叫ぶように言葉を叩きつける。
そのレンの目の前、狙いを外したトーラルが止まりきれずに石壁へ激突。
弱点を看破されて焦燥感を隠しきれないトーラルは、激突のダメージなど無いかのように砂煙の中から歩き出てくる。
――まるでこの辺りだけ荒廃した都市だ。
そんなふうに見えるほどに、レンとトーラルの戦闘は辺りに破壊を撒き散らしている。
だが、お互いに譲歩する気はない。――どちらかが死ぬまで、だ。
「――」
片や扱いきれない、体を壊しかねない大技を使い、短期決戦で敵を殺さんと歩みを進める。
片や満身創痍で、しかしその態度から時間をかけるほどに指数的な成長を見せると思わせる力強さで構えを取る。
お互いが肌で感じて、理解している。
――最終局面である、と。




