11月 烈火 ⑩
「警部、大丈夫ですか」
神戸が心配そうな声で尋ねる。
車で張り込んでいる最中に幸輔は居眠りをし、窓ガラスにしたたか頭を打ちつけてしまったのだ。
「あ、ああ。最近どうも、夜眠れなくて」
幸輔は頭を押さえた。
「一度病院で診てもらったほうがいいんじゃないですか?」
「ああ、そうだな」
直行の殺人が発覚して以来、幸輔はまともに眠れない日が続いていた。食欲も落ち、見るからに頬がこけてしまった。
仕事にも身が入らず、ミスが続いている。このまま、定年まで持ちこたえる自信はなかった。
「神戸は長男だったっけ」
「ハイ、長男です」
「そうか。親御さんから期待されてるんだろうなあ」
「そうでもないですよ。お袋は、銀行に勤めることを望んでたんです。警官は危険な仕事だから、やめておけって。
うちの父親は銀行員だったんですよ。だから、お袋は僕がわざわざ大変な仕事を選ぶのが理解できないみたいで。同じ公務員になるなら、役所勤めでいいじゃないかって散々言われました。
でも、僕はデスクワークには向きませんから。お袋の猛反対を蹴ってこの道を選んだから、勝手にしなさい、責任持てないって言われてます。弟が今年、銀行に入ったから、ますますうちでの立場は弱いですよ」
「そうなのか。普通は、警官なら給料が安定しているからいいって言うのになあ」
「メガバンクなら、不景気でも何だかんだいって政府がつぶさないから、将来安泰ですからね。でも、お金を扱う仕事はどうも面白いとは思えないし」
「この仕事は面白いのか」
「ハイ! もちろん、大変ですけど。でも、お巡りさん何とかしてよって頼られると嬉しいですよね」
「そう思ってられるうちが華だよ」
――神戸が俺の息子だったら。
幸輔はふと思った。
神戸は学生時代に父親を亡くし、奨学金で大学を出たという苦労人である。幸輔は、普段から息子のように神戸に目をかけていた。
――直行も、こんな風に素直に育ってくれたと思ってた。どこで間違ってしまったのか。
大きなため息をついたとき、神戸が「あっ」と小さく叫んだ。
「あのワゴン車がそうじゃないですか」
白いワゴン車が、団地の近くにある公園の前に止まった。中から野球帽を深くかぶり、サングラスをかけ、革のジャンパーを羽織った男が出てくる。
「あいつ、いかにも怪しそうなカッコして、バカだな」
幸輔はつぶやく。
男は煙草を取り出し、ライターで火をつけて吸い始める。ちらりと腕時計を眺めた。
やがて、団地から一人の女が現れた。30代前半ぐらいの人妻だろう。帽子をかぶり、コートを羽織り、どこかに出かける風情である。
女は辺りを見回して、ワゴン車に近寄った。男がドアを開けると、すばやく乗り込む。
「今の女が売春しているんですかね」
神戸はやや興奮した口調でつぶやいた。
「そうだろうな。見かけは普通の主婦でも、平気で売春しているんだから、信じられんよ」
2人が話している間に、二人目の女がワゴン車に来て乗り込んだ。10分間で5人の女がワゴン車に乗り込み、男が外側からドアを閉めた。
幸輔と神戸は車から飛び出し、運転席に乗り込もうとしている男に「ちょっと」と声をかける。
ふいに声をかけられ、固まっている男に警察手帳を見せると、男は弾かれたように駆けだした。
「おいっ」
2人は追いかけ、すぐに神戸が男に追いつき正面に回り込んだ。背後に幸輔が張りつくと、男は観念したようにがっくりと膝をついた。
「数ヶ月前から、ここで不審なワゴン車を見かけるって通報があったんだよ」
神戸が言いながら、男に手錠をかける。幸輔はその間にワゴン車の後ろのドアを開けた。
「悪いな、あんたらにも警察に来てもらわんと」
女は、みな強張った表情で身を硬くしている。
――まったく、旦那が働いている間に、自分たちは体を売ってんのかよ。どうせ、クスリか、パチンコにでも金を使うんだろ。
ふと、女が一人多いことに気づいた。先ほど車に乗り込んだのは、5人である。
別の場所から乗っていたのか、最後部の奥に体を小さくして震えている女がいる。
その女と幸輔の視線があった。女はすぐに顔を伏せたが、それが誰かは一目瞭然だった。
「ま・正子!?」
幸輔は素っ頓狂な声を上げた。
男を引っ張ってきた神戸が、幸輔の様子を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
「どうしたんですか?」
幸輔は何も言えなかった。
どうしたもこうしたも、なぜそこに正子がいるのか、幸輔もわからないのである。
****************
――針の筵とは、このことか。
幸輔は自分のデスクで、ぬるくなったお茶をすすった。
署内の人間が、チラチラと自分を見ているのがわかる。神戸は気を使っているのか、幸輔とは視線を合わさないように、書類づくりに没頭しているフリをしている。
おそらく、あっという間に署内に知れ渡ってしまったのだろう。正子が売春組織に関わっていたということが。
「森山君、ちょっと」
渋い顔をした署長が部屋に入ってきて、幸輔に声をかけた。
――ほうら、おいでなすった。
幸輔はノロノロと立ち上がった。署長室に向かう幸輔の姿を、好奇心に満ちた目で見る人もいる。
――そんなに面白いか。破滅に向かう人間を見ているのが。
幸輔はこぶしを握り締めた。
署長室に入ると、副署長もソファに座っていた。沈痛な面持ちをしているが、心の中ではおそらく好奇心満々だろう。
「困ったことになったねえ」
署長は幸輔にソファに座るよう促しながら、自分も腰をかけた。
「奥さんの事情聴取は済んで、こちらとしては、奥さんには厳重注意で済ませて、このまま帰したいと思っている」
「はあ」
「聞きづらいんだか、君はもちろん、この件は知らなかったんだね」
「もちろんです」
「そうだよね。神戸君も、君がかなりショックを受けていたと話していたし。同情するよ」
「はあ」
「これから話すことを聞けば、さらにショックを受けるとは思うんだが、話しておいたほうがいいと思ってね。事情聴取によると、奥さんは5年前からちょくちょくやっていたと言うんだ」
「5年前!?」
「ああ、こちらも驚いてね。何のためにそんなことをしてたんだって聞いたら、理由などない、ただ寂しかったんだって言ってね。薬をやっていたわけでもなければ、借金で困っていたわけでもない。
熟女向けの出会い系サイトがあるらしいんだ。そこで知り合った男と関係を持ち、それが重なるうちに、売春を勧められたらしいんだな。それで5年前から、組織の人間に斡旋してもらって、売春していたらしい」
幸輔は後頭部を殴られたような衝撃を受けていた。
借金や薬のせいで売春をしていたというのなら、まだわかる。
だが、寂しいという理由は、一体何なのか。自分との結婚生活にずっと不満を抱いていたということなのか――。
署長は気の毒そうに幸輔を見た。
「まあ、こちらもあまりあれこれ聞くのも悪くて、あんまり詳しくは聞いてないんだ。後は2人の問題だと思うし。
ただ、もしマスコミがこの件をかぎ付けたら、週刊誌の格好のネタにされるのは間違いない。それは困るんだよ、こちらとしても。警察の不祥事と聞くと、やたらとバッシングするからね、今の世論は。だから、どうだろう、しばらく有休でもとったら。夫婦二人でじっくり話し合う時間も必要だろうし」
「しばらくとは」
――どれぐらいですか。
幸輔は最後までは聞けなかった。
聞かなくてもわかっている。もう、自分のキャリアは終わったのだ。
休暇から戻って来たとき、自分は捜査の第一線には戻れない。事務の仕事を淡々とこなすような、窓際に追いやられてしまうのだろう。
「まあ、数週間骨休みをしてさ。戻って来てからのことは、また改めて話し合おうよ」
署長は優しい声音で幸輔に言い聞かせた。幸輔は膝で握りしめている手が震えているのに気づいた。
――あっけない。今まで必死で築きあげてきたすべてが、一瞬で崩れ去ってしまうなんて。
「今日はもう、帰っていいよ。奥さんを一人にするのは危ないから、一緒に帰ったほうがいいんじゃないか」
署長の言葉に幸輔は立ち上がり、無言で頭を下げ、部屋から出た。頭はのぼせたようにボウッとなり、自分がきちんと歩いているのかどうかもわからなかった。
部屋に戻ると、視線が一斉に突き刺さった。ただ一人、神戸だけが心配そうに幸輔を見ている。
幸輔は必要な荷物をカバンに詰めこみ、背広をはおり、部屋を出ようとした。
神戸の前を通り過ぎる時、目が合った。神戸の目が潤んでいる。
幸輔は「頑張れよ」と小さく声をかけた。神戸は無言で俯く。
そのとき、鼻で笑ったような短い笑い声が聞こえた。
「誰だ、今笑ったのは!?」
幸輔は地の底から響くような声で振り向き、部屋の中を見回した。その形相に、その場にいる人はみな凍りついている。
一人の中年男が、幸輔から目をそらせた。
「お前か、中田!?」
幸輔はカバンを投げ捨て、中田に走り寄った。中田は逃げようとしたが、素早くその首根っこを捕まえた。
「お前、今笑ったのか? 何がおかしいんだ?」
幸輔が怒鳴りつけると、「いや、俺は、別に」と、中田はモゴモゴ口ごもり、逃れようと懸命になっている。
幸輔は中田を突き飛ばした。中田はよろめいて床に倒れる。
「おかしいのかよ、妻が売春していて、キャリアを全部失った俺が、みじめでおかしいのか? 普段偉そうな顔をしている俺が転落していくのが、面白いとでもいうのかよ」
幸輔は中田の背中を踏みつけ、全体重をかける。中田が叫び声をあげる。
「なんだ、その蛙が潰れたような声は? 大体、お前は仕事できねえくせに、要領ばかりはいいから、気に食わなかったんだよ。署長らとしょっちゅう飲みに行って、署長らの悪口を言ったやつをチクってんだろ? 卑怯者が」
中田の横腹に何発も蹴りを入れると、さすがに周りにいた部下が止めに入った。中田は腹を押さえて呻いている。
――これでもう、何もかも終わりだ。
幸輔は羽交い絞めにされていた手を振りほどき、カバンを拾うと振り返らずに部屋を出た。




