11月 烈火 ⑪
幸輔と正子は警察署の近くでタクシーを拾い、無言で家に向かった。
タクシーの運転手は2人にただならない空気を感じたのか、何も話さずに黙々と運転している。
家に着いてからも、2人は何も話さずにリビングに佇んでいた。
幸輔は放心状態でソファに座り、正子はダイニングテーブルの椅子に力なく座っている。
カーテンの隙間から西日が差し込み、壁や床に温かな光の筋をつくっている。一方で、日が当たらない箇所は暗く沈み、正子の表情は幸輔のいる場所からはよく見えなかった。
「何なんだ、その理由は」
ようやく幸輔は口を開いた。
「寂しいから売春したっていう、その理由は何なんだよ。女子高生じゃあるまいし、50を過ぎていい歳こいたおばさんが、寂しいも何もないだろうよ。恥ずかしくねえのか。ったく汚らわしい」
幸輔は、最後は吐き捨てるように呟いた。
「あなただって、人のこと言える? 浮気してたくせに。それも、何年もずっと」
正子は震える声で反論した。幸輔はハッと正子の顔を見た。
「私が気付いてないとでも思ったの? 香水の匂いをプンプンさせながら帰って来て。休みの日に愛人と会ってたこともあるんでしょ? 2人で歩いてる姿を知り合いが見かけたって教えてくれたとき、どれだけ恥ずかしい思いをしたか」
「浮気と売春は違うだろうが」
「浮気は犯罪じゃないからやってもいいって言いたいわけ? 犯罪じゃないなら何をしてもいいの? あなたはいつもそうやって、自分のやっていることだけは正当化するんだから」
「じゃあ、なんで何も言わないんだよ。浮気してるとわかったんなら、俺を責めればいいじゃねえか」
「私がうるさく言ったら、離婚してその人と一緒になるって言い出すかもしれないじゃない」
「お前、俺と離婚はしたくないのか?」
幸輔は驚いた。一瞬、正子はそこまで自分に深い愛情を抱いてくれているのかと思った。
だが、正子は口をゆがめてフンと笑った。
「当たり前じゃない。あなたと夫婦でいる限り、お金に困ることはないんだから。定年後に退職金をもらったら、慰謝料をもらって別れようと思ってたの。そのために今まで我慢してただけだから」
幸輔は、鯉のように口をパクパクさせてしまった。
「おま、お前、俺といるのは、カネが目当てだっていうのか?」
「それ以外に、あなたに何か取り柄があるとでもいうの?」
幸輔は思わずテーブルにあった灰皿をつかんで、正子に投げつけた。灰皿は大きくそれ、壁にぶつかって粉々に砕け散った。正子は眉一つ動かさない。
「定年退職したとき私がいなくなれば、あなたは老後の生活に困るでしょ? あなたは家事は何もできないし、近所のつきあいなんてできるわけない。
今、あなたにすり寄ってきている人の多くは、あなたが警察の人間だから利用しているだけ。警察の人間ではなくなったあなたに、誰も近づこうとはしないでしょ。
直行も恵美もあなたの老後の面倒なんて見るわけない。二人はあなたに似て薄情だからね。
私はいつもこう想像していたの。あなたが一人きりで死んで、何カ月も経ってから誰かに発見されて、新聞で報道されるの。また孤独死かってね。
私はそれを読んで、ざまあみろって笑い転げるのよ。それで、この何十年もの苦労が報われる。そう思ってたのに、残念よね、それが実現できなくて」
正子がこんなに話すのを、幸輔は久しぶりに聞いた。
いつも一方的に幸輔が話し、正子は相槌を打つぐらいだった。幸輔はくだらない話には耳を傾けないので、正子は次第に話さなくなっていったのかもしれない。
――これは、本当に正子か? あの、従順でおとなしい正子なのか?
幸輔は愕然とした思いで正子を見つめた。正子は立ち上がり、不敵な笑みを浮かべている。
「出て行け」
幸輔は怒鳴りそうになるのを必死で堪えて言った。怒鳴ったら感情のタガが外れて、自分でも何をするか分からない。
「今すぐ、この家」
「言われなくても、出て行きます」
正子はきっぱりとした口調で幸輔の言葉を遮り、リビングを出ようとした。
「おい、体を売って稼いだ金、何に使ったんだ?」
幸輔の問いに、正子は幸輔の方に向き直り、「あなたのお酒の肴代よ」と今まで見たこともない皮肉な笑みを浮かべた。
顔色を変えた幸輔を見て、正子は満足そうな表情になった。
正子がタンタンとリズムよく階段を上る足音が響く。幸輔は荒い息をしながらソファに座りこんだ。
――いつからなんだ。いつから、うちは壊れてたんだ。結婚したばかりのころは、確かに幸せだった。結婚して5年目で直行が生まれた時は、俺も正子もどれだけ嬉しかったことか。勤務時間の合間を縫って、何度も病院に行って、直行の顔を見ては喜びを噛みしめてたんだ。
恵美が生まれたときだって、どこにも嫁にやらんと言ったら正子は笑っていた。休みの日は、みんなでいろんなところに遊びに行った。
幸せだった、あのころは。いつから、こんな風になっちまったんだ。
幸輔は暮れていく部屋の中で、明かりもつけずに、ただただ頭を垂れていた。
やがて、二階でガタンと何かが倒れる音がした。
その音が何なのか、幸輔にはわかっていた。だが、動けなかった。
――俺が壊したのか、すべてを。俺は今まで、自分のしていることは正しいと思っていたんだ。家族を、家庭を、俺は守っているんだと思っていた。それが間違っていたというのなら、俺が今までしてきたことは何だったんだ。
そのまま身じろぎもせずに座っていた。
やがて腰を上げ、のろのろと二階に上がった。
寝室に入ると、ベランダに通じる窓が開け放たれている。
物干し竿に幸輔のベルトをかけ、正子は首を吊っていた。その足元には椅子が倒れている。正子は、幸輔を睨みつけるように両眼をむき、事切れていた。
寒風が吹きこみ、部屋はすっかり冷え切っていた。
幸輔はしばらく正子の姿を眺めてから、直行の部屋に向かった。
パソコンを立ち上げ、USBメモリに画像のデータをコピーする。寝室に戻るとクローゼットからボストンバッグを取り出し、着替えを詰め込み、部屋を出た。
家を出て、通りからベランダを見てみると、正子が風に揺られている姿が見えた。
幸輔は空を見上げた。もう夜空が広がっている。
――直行が帰ってきて気づくか。直行が気付かなくても、明日の朝になれば誰かが気づくだろう。
それきり、幸輔は振り返らずにその場を立ち去った。




