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曇天。  作者: 凪


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10月 火風 ⑨

「どうしたんですかねえ、本部長」


 原は応接室から出てきた藤木に小声で尋ねた。


「何か連絡はあったのか」

「いえ、まだ何も」

「まいったな。今日が取引先との契約の日だってこと、忘れてるわけないよな」


 藤木は禿げあがった頭をなでた。


「携帯に連絡してみたのか」

「ハイ、でも何回鳴らしても出なくて」

「しょうがないな。自宅のほうにかけてみるか」


 藤木はカバンの中からアドレス帳を取り出し、隆太郎の自宅の電話番号を探して電話をかけた。

 15回ほど呼び出し音が鳴り、「誰もいないか」とつぶやいた時、誰かが受話器をとった。


「――もしもし」


 低い、ねぼけたような声である。


「あーもしもし、武山さんのお宅ですか」

「ハイ」

「あのー、私、リーフ食品の藤木と申します。あのー、息子さんでしょうか」

「ハイ」


「あのー、お父様はいらっしゃいますか。今日、まだ出社されていなくて、連絡もないんですよね」

「あー、パパ……は、会社に行けないんで、す」

「はい?」

「あー、えっと、おじいちゃんが、亡くなったので」


「えっ、おじい様が。それで、葬式のために実家に戻ってるってことですか?」

「あー、はい、まあ」

「実家はどちらですか?」

「えー、あー、九州」

「九州のどちら?」

「えっと……」


 藤木は段々苛立ってきた。


 ――本部長の息子さんは、確か社会人だったよな。何なんだ、この対応は。まるで小学生じゃないか。


「とにかく、それならそれで、本人から会社に連絡があるはずでしょう」

「さあ」

「携帯は持って出ているんですか?」

「たぶん」


「それじゃ、実家の電話番号を教えていただけませんか。連絡が取れないと、困るんですよ」

「あー、えー、分かりません」


 電話はそこで一方的に切れてしまった。

 藤木はしばらく受話器を握ったまま、呆然としていた。

 やりとりを聞いていた原は心配そうに「どうしたんですか?」と尋ねた。


「いやあ、息子さんが出て、本部長の父親が亡くなって、九州に帰ったって言うんだよ」

「えっ」


 原は思わず大声を上げた。


「そんなはずないですよ。だって本部長、俺は両親がいないって言ってましたよ。老人ホームの放火事件があったとき、俺は両親を早くに亡くしたけど、今となってはよかったって。介護しなくていいし、事件に巻き込まれる恐れもないからって言ってましたよ」


「じゃあ、奥さんのほうの実家かもしれないな」

「奥さんの実家は、確か埼玉だった気が……僕の住んでるところと近いって、埼玉は結構詳しいんだって、前言ってましたよ」

「じゃあ、どういうことだろう」


 二人は黙り込んだ。

 そのとき、

「部長、電話です」

 と、離れた席から女性社員が声をかけた。


「誰から?」

「それが、本部長の息子さんだって言ってるんですけど」


 藤木と原は顔を見合わせた。

 藤木はすぐに電話を切り替えて、「もしもし」と出た。


「あー、すみません、あー、えっと、電話があって」

 低い声でモゴモゴと話すので、聞き取りづらい。


「本部長から連絡があったんですか?」


 藤木は大きな声で確認した。


「ハイ、あー、急いでいて、携帯を、忘れてしまったって」

「それで?」

「は?」

「今日の取引のこと、何か言ってませんでした?」

「は?」


「今日、大事な取引があるのに、何も言ってなかったんですか?」

「さあ……しばらく連絡とれないって」

「え? 連絡がとれない?」

「はい。そう言ってました。じゃ」


 そこで電話は再び切れた。

 藤木は受話器を握りしめ、

「一体、なんなんだ……」

 とつぶやいた。



 電話の呼び出し音で起こされた時、透はリビングのソファで寝ていたことに気づいた。テレビがつけっぱなしになっている。


 半分寝ぼけたまま電話に出た後、どっと疲れた。

 家族以外の人とまともに話すのは久しぶりである。

 声が思うように出ないし、相手の言葉にどう返せばいいのかも分からない。頭の中が真っ白になり、思うように言葉が浮かんでこないのである。


 ――いつもパソコンやテレビに向かって喋ってるんだけど。それだけじゃ、ダメみたいだな。


 空腹に気付き、キッチンで冷蔵庫を開ける。自分の部屋に買い置きしていた菓子やパンはすでになくなっていた。


 中はきれいに整頓され、野菜や卵、ハム、ソーセージなどの食料が買い置きしてある。だが、料理をした経験がないので、食材だけあってもどうしようもない。


 仕方なく、食パンを焼き、お湯を沸かしてインスタントスープを作った。

 スープはお湯の分量が分からず、多く入れすぎて味が薄まってしまった。そのうえ、バターを探しているうちにパンは冷めてしまった。


「マジかよ」

 透は小さく舌打ちした。


 まずい朝食をすませると、そっとカーテンを開けて窓から庭の様子を伺った。

 そこには隆太郎が横たわったままである。


 金曜の夜から、土曜、日曜と隆太郎と久美子の死体はそのまま放置していた。近寄ってみる気にもなれない。

 週末に台風が来ていたこともあり、隣人も庭の死体に気付いていないようだ。

 だが、それも時間の問題だろう。


「どうしよう」

 ポツリと透はつぶやいた。

 

 死体を隠したほうがいいのかもしれないが、それも面倒臭い。カーテンを閉めると、透は二階に上がった。

 部屋に入り、ベッドに寝転がる。


 大嫌いだった親が二人ともいなくなったというのに、気分は少しも晴れない。むしろ鬱々と重い気持ちがのしかかっていた。


 ――自由になったはずなのに。自由になったのに。


 家の中には誰もいない。

 いや、正確に言うと死体はあるが生きている人がいない。

 いつも部屋にこもりきりで親とは顔を合わせなかったのに、この先もずっと一人でこの家にいるのかと思うと、急に寂しさと恐怖感がこみあげてくる。


 ――俺は、一人になるのが怖いのか? そんな、まさか。


 透は気持ちを切り替えようと、パソコンに向かった。自分のブログを開け、久しぶりに何か書きこもうと思ったが、なかなか文章が思い浮かばない。


 諸悪の根源と無邪気な悪がいなくなった。


 ようやく、そんな一文を打ち込み、手は止まった。

 いなくなった。そう、二人ともこの世からいなくなった。もううるさく言われることも、煙たがられることもない。ずっとそれを望んでいたではないか。


 それなのに、なぜ喜べないのだろう。

 なぜこんなにもスッキリしないのだろう。


「後悔?」

 透は思い浮かんだ言葉を打ち込んだ。


 俺は後悔してる?


 高校を辞めなければよかった。大学に行けばよかった。働けばよかった。面接を受けに行けばよかった。バイトでも何でもすればよかった。いじめられたとき相手が降参するまで立ち向かえばよかった。パパとママに嫌なことは嫌だってハッキリ言えばよかった。もっと話せばよかった。パパとママと話せばよかった。


 それはずっと封じ込めてきた思いの数々だった。それ以上思いが溢れそうになるのを、透はかろうじて堪えた。


「そうだ」


 ――ネンキンがあるじゃないか。ロージンじゃないけど、報告してみよう。


 透は胸焼け相手にメッセージを送った。


 おひさです。害虫駆除の報告です。

 50代を二人始末しました。

 すぐにロージンになるんだからちょっと早くてもいいですか。

 2ネンキンもらえますか。


 それから10分も経たないうちに返信が届いた。


 胸焼けです。

 残念ながら、ネンキン制度は終了しました。

 今後私は一切ノータッチです。

 連絡するなら、代表さんにしてください。


「なんだよ」


 透は茫然とそのメッセージを何度も読んだ。


 ――じゃあ、いくら殺しても誉めてもらえないのかよ。


 ブログは誰も読んでくれない。ネンキン制度も終われば、誰との接点もなくなる。もう、誰も。誰ともつながっていないことになる。


 放心していたとき、電話のベルが鳴り、飛び上がりそうになるほど驚いた。


 ――またパパの会社の人かな。


 今度は出る気になれなかった。


「まずいな。ここに来るかも」


 透はひとまず家を出ようと、荷物をまとめることにした。

 クローゼットを開け、閉まっておいたリュックを探した。乱雑に放り込まれている荷物の下のほうに、リュックの肩ベルトが見えた。引っ張り出すと、それは小さなリュックだった。


「これ」


 ――子供の頃に使ってたリュックじゃん。捨ててなかったんだっけ。


 青色のビニール製のリュックは、透が幼稚園時代に買ってもらったものである。

 透の脳裏に、ある光景が蘇った。


「ねえ、透がもう歩けないって」


 あれは、尾瀬にハイキングに行ったときだっただろうか。

 透は途中で歩き疲れて「もう歩けない」と駄々をこね、座り込んだのである。


「えー? まだ大分あるぞ」


 隆太郎は困った顔をして、半べそをかいている透の顔を覗き込んだ。


「やっぱり、まだ透には尾瀬なんて早すぎたんじゃない?」

 久美子がタオルで汗を拭いながら言う。


「しょうがないな。ホラ」


 隆太郎は久美子に自分のリュックを渡し、透の前に後ろ向きにしゃがみこんだ。背中に乗るよう手で促す。透は喜んで背中に飛びついた。


 隆太郎は「よっこらせ」と掛け声をかけながら、立ち上がる。たちまち久美子の顔を見下ろす位置になった。


「透ちゃん、よかったね」

 久美子が微笑みかける。


「でも、ずっとおんぶしてたら、パパが疲れちゃうから、後で歩かないとダメだよ?」

「うん」

 透は大きく頷いた。


「重くなったなあ、透。大きくなったんだな」

 隆太郎が朗らかに笑う。透は隆太郎の首筋に抱きついた。

 

「なんで」


 ――なんで、今、思い出すんだ。

 透はリュックを抱きしめた。

 ――なんで、今、思い出すんだよ。


 その記憶が引き金となり、次から次へと思い出が記憶の奥底から湧き出てくる。


 幼稚園のとき、熱が出て寝ている透を心配そうに看病する久美子。

 休みの日にキャッチボールを教えてくれた隆太郎。

 運動会で、かけっこで走る透を精一杯応援してくれる二人、歩きながら二人の手にぶらさがった夏の日……。


 頬を涙が伝う。零れ落ちた涙は、リュックに点々と小さなしみをつくる。


 話せばよかった。パパとママと、もっと話せばよかった。ケンカすればよかった。本気でぶつかればよかった。二人の話を聞けばよかった。もっと、パパとママと一緒にいたかった。

 殺さなければよかった。殺さなければよかった。殺さなければ――。


 透は子供のように大声を上げて泣いた。

 他に誰もいない家に、その声は隅々まで響き渡った。


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