10月 火風 ⑧
隆太郎はその日、夜11時過ぎに帰ってきた。
最近、夜遅くなると久美子は泣いて抗議をする。透を怖がっているのだとは分かっているが、隆太郎も家にまっすぐ帰る気にはなれず、早く仕事が終わっても飲んで帰る日が多い。
そんな隆太郎を久美子は、「自分だけ逃げてずるい」となじる。
隣のベッドですすり泣いている久美子が煩わしく、耳栓を買ってきて眠るようになった。
隆太郎は酒の力を借りないと眠れなくなっていた。酒を飲んでいると、透の部屋で見てしまったものを、「たいしたことではない」と思えるようになる。
だが、翌朝は吐き気と共に、消せない事実が重くのしかかる。
休日も家にいるのが辛いので、接待ゴルフや会合と称して出かけていたが、久美子に「休日まで私一人にするのなら、もう耐えられないから、警察に行く」と詰め寄られた。
それ以来、仕方なく家で過ごすか、久美子と二人でどこかに出かけるようにしている。だが、既に愛情のなくなった夫婦には会話もなく、家にいるのと同じぐらい苦痛だった。
――俺、なんでこいつと結婚したんだろう。
ふと考えることもある。
結婚しようと思った時の気持ちを思い出そうとしても、ぼんやりとしか思い出せない。ほかに選ぶ道はいくつでもあったのではないか、と今さらながら後悔している。
その日は初めて入った居酒屋の居心地がよく、かなり酒を飲み、足がふらついていた。
「ただいむあっと」
玄関から呼びかけても、誰も出てこない。いつもなら久美子が「お帰りなさい」と出迎えてくれる。
「なんだ、寝ちまったか」
隆太郎はつぶやいて靴をノロノロと脱いだ。
――喉が渇いたな。水でも飲むか。
廊下を千鳥足で歩き、リビングのドアを開けると、そこには透がいた。
ソファに座り、テレビをつけて見ている。隆太郎は息を呑んだ。
「お帰り」
透は振り向かないまま挨拶をした。
「ぬわんだ、め・珍すい」
ようやく出した声は、呂律が回らず、もごもごと口ごもっただけだった。
「ママから聞いた」
「え?」
「ママから、聞いた。あれ、見たって」
「あれって」
透はテレビを消し、振り向いた。その顔は、相変わらず無表情だった。
「袋の中、見たでしょ。血のついた服」
「なんななななんのことだか」
「ママが、全部、話した」
透はゆっくりと立ち上がった。その眼はぎらつき、尋常ではない。隆太郎は壁に背中をつけたまま、金縛りにあったように動けない。
「パパは、誰にも言うなって、言ったって。自分の昇進に、ひび、響くって」
――久美子のやつ、なんてことを。
「ママ、泣いてた。パパの言うとおりに、したから、こんなことになったって」
「俺は、知らない。何の話か、さっぱり」
透はフンと鼻先で笑った。
「ママも、はじめ、知らないふりしてた」
「久美子はどこだっ、久美子は」
「寝てる」
「こんなときにっ」
――寝てる場合じゃないだろ。
隆太郎は逃げるようにリビングを出て、階段を駆け上がろうとした。足がもつれたので、両手をつきながら階段を上る。
廊下の突き当たり、寝室のドアを開けると、久美子がベッドの上に仰向けに寝ている。
「オイッ、こんなときに」
電気をつけ、隆太郎は「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。
久美子は驚いたように両目を見開いている。天井を見上げるその瞳には何も映っていない。胸には包丁が突き立ち、絶命しているのは明らかだった。
逃げようとしたようで、ベッドの周辺には電気スタンドや時計、エアコンのリモコンなどが散乱している。
隆太郎は足が動かなかった。久美子に駆け寄り、体を抱き起こすことすらできなかった。
階段をゆっくりと透が上って来る。その手には、中華包丁が握り締められている。
二人は廊下の端と端で向かい合った。透の眼は異様にぎらついている。本気なのだ。本気で自分を殺そうとしているのだと、隆太郎は全身に鳥肌が立った。
「ままま待て、話し合おう、話し合おう」
「何を」
透の声はいたって冷静である。
「何って、落ち着け、落ち着きなさい、そんなもの置いてっ」
「落ち着くのは、そっちじゃん」
「俺は何も知らない、見てないんだっ。本当だっ、黙ってるから、そんなもの置いてっ」
透は呆れた表情になり、ため息をついた。
「なんか、カッコ悪いな、もう」
隆太郎は酔いで回らない頭で、中華包丁に対抗できるものはないかと必死に考えた。
――そうだ、ゴルフクラブ。
ゴルフクラブは玄関に置いてある。透を倒さない限り、取りに行けないだろう。
透は一歩前に踏み出した。
「お前っ。お前なっ」
隆太郎は下半身が冷たくなるのを感じた。どうやら失禁したようである。
「俺を殺す気なのか? 俺をっ」
「うん」
透は素直に頷く。
「お前、なんでっ、親だぞ、俺はっ」
「お前らが諸悪の根源で、無邪気な悪だから」
「は?」
――ダメだ、こいつ、狂ってる。
隆太郎は寝室に飛び込んだ。何か武器になるものを――血走った眼ですばやく室内を見回すと、部屋の隅に殺虫剤のスプレーが置いてあるのに気づいた。
飛びつくように殺虫剤を取り、透の姿が見えると同時に、わめき散らしながらスプレーをかけた。透は慌てて体を引っ込める。
その隙に隆太郎はベランダに出た。途端に、大きな雨粒が顔を打つ。
ベランダから近所に響き渡るような声で、助けを呼ぼうとした。
「誰かっ」
手すりから大きく身を乗り出した、そのとき。
雨で手すりが濡れていたので、手が滑った。バランスを崩し、あっと思う間もなく、隆太郎は庭に向かって頭から落下した。
運悪く、荒れ放題になった庭は植木鉢がゴロゴロ転がっていた。
鈍い衝撃音、続いてバキッと何かが折れる音がした。
透は隆太郎とは距離があったので、まともに殺虫剤をかぶらずにすんだ。階段のところまで退散すると、ややあって隆太郎の声がした。
――まずい。助けでも呼んだのかな。
包丁を握り締め、様子を伺っていると、寝室からは物音一つ聞こえてこない。
壁に体をつけるようにして慎重に廊下を進み、寝室をのぞくと、隆太郎の姿は見えない。ベランダに出る窓が開き、カーテンが風ではためいている。
透は中華包丁をかまえて、一歩ずつ窓に近寄った。いつ隆太郎が飛び出してくるか分からない。カーテンの陰に隠れているかもしれない――手に汗がにじむ。
窓のそばに来ても、隆太郎が飛び出してくる気配はない。雨が部屋の中にも吹き込んでいる。
ベランダに出るところを狙っているのだろうか?
窓に顔を貼りつけるようにしてベランダを確認したが、隆太郎の姿は見えなかった。
意を決して、ベランダに出てみる。隆太郎はいない。
――まさか、飛び降りたとか?
庭をのぞき込んで、そこに横たわる隆太郎を見つけた。
首があらぬ方向に曲がり、ピクリとも動かない。そこに雨が容赦なく降り注ぐ。
「うわっ」
透は思わずしゃがみこんだ。
隣の家から、笑い声が聞こえた。どうやら、テレビのお笑い番組を見ているらしい。
透はしばらくしゃがみこみ、膝に顔を埋めて震えていた。自分もあっという間にずぶ濡れになったが、立ち上がる気になれなかった。




