10月 火風 ⑦
「分かってるくせに」
「ううん、分からない。分からないの」
――知らないふりを通そう。それしかない。
「血だよ」
「血? どうして血がついてるの?」
「刺したから」
「え?」
「ババアを刺したから」
「ババアって誰?」
「前、警察が来てたじゃん。公園で殺されたって」
「ああ、あのおばあさんのこと? でも、透ちゃんは、関係ないんでしょ? 知らないおばあさんでしょ?」
「知らないけど、殺した」
透はあっさりと人を殺したことを認めた。その表情には何の感情も見られない。
「どうして? どうしてそんなことを?」
「害虫だったから。ネンキンもらえるし」
久美子はどういう意味なのか分からず、困惑した。
「ねえ、透ちゃん、一緒に警察に行こう。いけないことをしたって、わかってるんでしょ? ママも一緒に行くから。一緒に謝るから。今なら、まだ間に合うから、ね?」
透はしばらく考えこみ、「いいよ」とポツリとつぶやいた。
「いいの? 警察に行ってくれるの?」
「うん、いいよ。つかまっても、死刑になってもいい」
「そんなこと言わないの。パパが助けてくれるから。パパなら、いい弁護士さんを知ってるだろうから」
「助けてくれなくていい」
透はきっぱりと言い放った。
「早く死にたい」
その言葉の強さに、久美子は息を呑んだ。
「早く死にたい、早く死にたい、早く死にたい」
透は何かにとりつかれたかのように、同じ言葉を繰り返す。
「早く死にたい、早く死にたい……あーっ」
突然絶叫し、透は頭をかきむしった。
「お前らのせいだっ、お前らのせいでこんなになった。お前らのせいだよっ」
久美子はとうとう透が狂ってしまったのかと思った。
透は訳の分からない叫び声を上げながら、ドアを拳で叩き始めた。
――誰、この子。
久美子は立ち上がろうとしてもやはり足腰に力が入らないので、座ったまま後ずさりした。
――私、こんな風に育てた覚えはない。
丹精を込めて育てれば、どんな植物でも立派に育つ。
なぜ、人は。
自分の息子は育ってくれなかったのか。こんなにも懸命に育ててきたのに。
24年前、透を出産する時、切迫流産の可能性があった。無事に産まれたときは涙を流して喜んだのだ。
――この子は、私が一生守っていくんだ。
そう思い、自分ではずっと守ってきたつもりだった。
事実、息子の将来をいつでも案じて、早いうちに塾にも通わせたし、私立校にも入れた。
夫のコネでいい会社に就職もできただろうし、一生何不自由なく暮らせる生活を保障されたも同然だったのである。
それを壊したのは、透自身ではないか――。
久美子は無力感に打ちのめされていた。
目の前で息子が死にたがっている。しかも自分の人生がダメになったのは、自分と隆太郎のせいだと言うのである。
気がつくと、久美子の頬には涙が伝っていた。
「一緒に、警察に、行こう」
久美子はそう言うのが精一杯だった。
透は糸が切れた操り人形のように、床にしゃがみこんだ。ドアを見ると、透が殴った箇所は大きくへこんでいる。
「もう、疲れた、私も疲れた」
久美子は泣き出した。
「喉、渇いた」
ポツリと言うと、透はゆらりと立ち上がり、鍵を開けて部屋を出て行った。階段を下りる足音が聞こえる。
しばらく久美子はその場で泣きじゃくっていた。
ふと、
――あんな子のせいで、人生が台無しになるなんて。
という思いが頭をよぎった。
――私が悪いんじゃない。私の言うことを聞かなかった、あの子が悪いんじゃないの。
久美子は泣いている場合ではないと気づき、震える足で何とか立ち上がり、よろめきながら部屋を出た。
――警察に。息子に殺されそうだって言えば、助けてもらえる。あの子をつかまえてもらわなくちゃ。
寝室にたどりつき、タンスの上に置いてある電話の子機をとる。
――どこに電話すればいいんだっけ。警察は何番だっけ。
動揺して、番号を思い出せない。
――117番? 119番? もう、どこでもいいから、とにかく電話しないと。
手の力が抜けて、なかなか番号のボタンを押せない。
何とか番号を押すと、受話器を耳に当て、
「もしもし? 警察ですか? 殺されそうなんです、息子に殺されるっ。助けてくださいっ」
叫ぶように、一息に言った。
だが、送話口から聞こえてきたのは、
「気象庁予報部発表の10月20日午後7時現在の気象情報をお知らせします。関東地方では激しい雨により、注意報が出ております」
というアナウンスだった。
「嘘つき」
冷たい声が背後から投げかけられた。
「一緒に警察に行こうって言ったのに」
恐る恐る振り返ると、寝室の入り口に透が立っている。部屋の電気がついていないので、表情までは分からない。
「いつも、そうだ。平気で嘘をつく」
透は右手に何かを握り締めている。
「一緒に行くって言うから、持ってきたのに」
「な・何を?」
透は無言でそれを振り上げる。廊下の明かりを受け、鈍く光る――それは包丁だった。
久美子の手から受話器が転がり落ちる。
「これで、ババアを、刺した」
久美子は膝から崩れ落ちた。
久美子は料理が好きなので、使う道具の管理を怠らなかった。包丁は一週間に一度は研ぎ、切れ味は抜群である。
「ダメでしょ、こんなことしちゃ」
口をついて出たのは、またその言葉だった。
じゅうたんに転がった受話器からは、天気予報のアナウンスが流れている。
「明日は北の風、後、やや強く、激しい雨が降るでしょう。波の高さは2メートル……」




