7月 火柱 ①
【第二部】
上田律子は、洗濯室の水道でパジャマの汚れを落としながら、頭の中では次のスケジュールを何度も確認していた。
――えーと、金山さんと阿部さんと福田さんのおむつを取り替えて、お昼の介助をして、それから……。
律子がやまと苑に勤務して、20年が過ぎていた。
今ではチーフマネージャーとして、若い職員の指導をする立場である。
若い子は仕事を覚える前に辞めてしまうので、仕事量はなかなか減らない。それでも、介護の仕事にやりがいを感じていた。
今は入居者の一人が部屋で嘔吐したので、洗濯機に入れる前にパジャマやシーツの汚れを簡単に落としているところだった。
「上田さん、大変、ケンカ」
声をかけられ、律子は顔を上げた。
老婆が一人、洗濯室の入り口に立って律子を手招きしている。
「またあの人たちとですか?」
律子がうんざりした表情をすると、老婆は
「早く早く。正木さんが、あの人たちと殴りあってるのよ」
と早口で訴える。
「ええ?」
律子はすばやく手を洗い、ロビーに向かった。ロビーには老人の人だかりができ、怒号が飛び交っている。
「もう、やめなさいって」
「ケガするよ、そんなに引っ張ったら」
「警察を呼べ、警察をっ」
人だかりを割って入ると、中央で老爺が二人、真っ赤な顔をして取っ組み合っている。
「もう、何してるんですか」
律子は二人を離そうとしたが、逆に肘鉄を胸に食らってしまった。律子は胸を押さえてうずくまる。
そこへ、男性職員が三人駆けつけ、何とか二人を引き離した。
「いったい、何があったんですか」
痛みが治まり、律子を呼びに来た老婆に尋ねると、
「この人たち、ロビーで寝転がってるから、ジャマなのよ。正木さんが足で軽くつついたら、あの人が怒って正木さんを叩いたの」
と、嫌悪感を顕わにした表情で、正木と取っ組みあっていた老人を指差した。
指差された老人は歯をむき、
「だって、仕方ないだろ? 他に寝る場所はないんだから。蹴ることないじゃないかっ」
と吼えた。
「蹴ってないよ。つついただけだっ」
「いーや、あれは蹴ってたよ」
「ここに寝転がっていたらジャマだって、昨日、職員さんから言われたばっかりじゃないかっ」
正木は職員に羽交い絞めにされながら叫ぶ。
「じゃあ、外にいろって言うのか? こんな大雨が降ってる中、外に行けって言うのか?」
「ロビーでなくても、ほかのところに行けばいいじゃないか」
「行き場所がないから、困ってるんだよっ。俺たちだって、好き好んでここにいるわけじゃないんだから」
「だったら、もっと遠慮しろよっ。トイレにも風呂にも勝手に入ってきて、迷惑なんだよっ。あんたら、お金を払ってここに入ったわけじゃないんだからっ」
正木は律子に向かって、
「早く、こいつらを何とかしてくれっ。お金を払ってないのに飯まで食って、ずるいじゃないかっ」
と唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。
「今、市役所に相談しているところなんです。でも、受け入れ先が見つからなくて、当分ここで預かってくれって言われて、こっちも困ってるんですよ」
律子はなだめるように言い聞かせた。
「そんなん、こっちで世話する必要ないだろ? さっさと追い出せばいいじゃないか」
「何をっ」
正木の言葉を聞き、取っ組み合いをしていた老人がまた正木に殴りかかろうとするのを、そばにいた職員が必死で抑えた。
「ねえ、ひどいじゃない。少しは思いやりってものを持たないの? 私たち、放火で焼け出されたんだから、普通は同情してくれるんじゃないの? 私たちが悪いわけじゃないのに、どうしてこんなに責められなきゃならないのよ」
そばで見ていた老婆の一人が涙声で訴える。
「お金を払ってここにいるならいいよ。ここの人たちはみんな、お金を払ってここに住んでるんだから。でも、あんたらはお金も何も払わずに、勝手にその辺で寝て、食事をして、洗濯までしてるじゃないか。図々しいんだよ」
正木は容赦なく切り捨てる。
「だから、そんなお金があるなら、アパートを借りるって。元いたホームにお金をつぎ込んでるから、ほとんど残ってないんだって、何度説明すれば分かるんだよ」
老人の一人が反論する。
「分かりました。とにかく、ケンカはやめましょう。お互い、こんなことでケガしたくないでしょ? 今、園長たちも対応を考えているところなので、ずっとこの状態が続くわけじゃないと思います。もう少しの辛抱ですから」
律子が手を叩き、声を張り上げると、ようやく老人たちは口をつぐんだ。
「つつじ園の皆さん、昨日もお願いしたように、玄関付近で寝るのはやめてもらえませんか? 出入りする人がいるので、危ないんですよ」
律子の言葉に、正木と取っ組み合いをしていた老人が、
「そうは言っても、どこにも休む場所がないから、こっちも困ってるんだよ」
と反論する。
「それじゃあ、集会室に」
言いかけたとたん正木が目をむき、律子の発言を遮った。
「ダメだ、ダメだ! 集会室にそいつらがウロウロしてたら、ジャマだろうがっ。あんたらの事務室でいいじゃないか」
「いえ、あそこは狭いので、これだけの人数は入らないんですよ」
「それじゃ、食堂とか」
男の職員が意見すると、
「ダメダメ、食事のときにジャマだっ」
と、たちまち正木が反対する。
やりとりを見ていた老婆二人が、ひそひそと何かを話し合い、靴箱から靴を取り出した。
「あれ、山野井さんたち、どこ行くの?」
そばにいた老婆が声をかける。
「外に行くわ。ここにいたら、邪魔者扱いされるだけだから」
「そんな、こんなに雨が降ってるのに、外に出たら肺炎になって死んじゃうじゃない」
「いいの。この人たちは、そうして欲しいんでしょ?」
「なんだよ、その嫌味ったらしい言い方はっ。俺はかまわないよ、さっさと外に行けば?」
正木が嫌味を言うと、「ひどい言い方」「人殺しっ」と批難が降り注ぐ。
また言い合いが始まり、律子はため息をついた。
やまと苑と同じ市内にあるつつじ園が何者かに放火されて3か月が経つ。
幸い、死者は出なかったのだが、建物の半分が焼け、経営を続けられる状況ではなくなってしまった。
入居者のうち、半分は家族に引き取られたり、別の施設に移ったが、他の施設に移る金もなく、引き取る家族も、戻る家もない入居者は、閉園後も焼け残った建物で暮らしていた。
だが、水道は出なくなり、食料も底をつき、そこにいると飢え死にするのは時間の問題だった。1カ月ほど前から、やまと苑に一人、また一人とつつじ園の入居者が現れ、助けを求めたのだ。
「私たちはお金がないから、部屋に入れてくれなくてもいい。駐車場か、庭で寝泊りするから。水だけでもくれないか」
最初は、みな遠慮がちにそう訴えていた。
園長をはじめ、律子たち職員は気の毒に思い、集会室に簡易ベッドを運び込んで休ませた。食事や水も与え、介助が必要な老人はなるべく手助けしていた。
どこから情報が伝わっているのか、やまと苑に来る入居者は10人、20人と日を追うごとに増えていき、30人を超えてさすがに律子たちも対処できなくなってしまった。
ベッドも寝具も足りず、食事も用意できない。
最初は遠慮がちだった老人たちは、今では平気で館内をぶらつき、食堂にあるお茶を勝手に飲んだり、集会室のテレビを観たり、断りもなく洗濯をする人や入浴する人まで現れた。
律子たち職員が自宅で作ってきたおにぎりを配ると、「またおにぎり?」と不平を言う人もいる。
最初は好意的だったやまと苑の入居者も疎ましく思うようになり、しょっちゅう小競り合いが起きるようになった。
今は、つつじ園の入居者は玄関ホールや廊下に座り込んだり、毛布をかぶって寝転がっている始末である。廊下を行き来するたびに、律子はテレビのドキュメンタリーで見た野戦病院の光景を思い出す。
老人たちをなだめているとき、園長が「上田さん、ちょっと」と律子を呼びに来た。
園長について園長室に入ると、
「今日、民衆党の市議会議員がここに様子を見に来てくれるって。やっと動いてくれたよ」
と、ソファに座りながら安堵のため息をついた。
「なんでも、ほかの老人ホームでも同じような苦情があるみたいで、まとめて都内の廃校に移そうっていう話になってるらしい。国は何もしてくれないと思ってたけど、都知事が動いてくれたらしいよ」
「どんな事情でもいいですよ。ここからいなくなるのなら、助かります」
「でも、その間にかかった経費はこっち持ちになりそうなんだよ。食事代とか、水道代とか、バカにならなかったろ? それを肩代わりするのはキツすぎるって言ったんだけど、元の老人ホームの経営者に請求したらどうかって、他人事なんだよね」
「あの人たちに話して、お金を払ってもらいますか?」
「そうだねえ。年金もらってる人もいるから、手持ちの金がゼロってわけでもないだろうし。それ、上田さんがやってくれる?」
「えっ、私がですか?」
律子は露骨に顔をしかめた。
「私がそんなことを言ったら、あの人たち怒りますよ。私、もう何度も何度もあの人たちに注意して、うるさがられてるんですから。勘弁してください」
「分かった、分かった。じゃあ、それは俺から話すから」
「そうしてください」
「おとなしくお金を出してくれるといいんだけどねえ」
「出してくれなければどうするんですか?」
「学校に移すったって、どうせすぐにやってくれっこないんだから。それまでの間は、お金を出さない人には食事を出さなくていいよ。お茶を飲むのもダメ。洗濯も風呂も禁止。こっちもカツカツなんだから、そうするしかないな、もう。下手に同情したら、図に乗るしさ。もう手に負えないよ」
「そうですよねえ……」
園長と律子は深いため息をつくしかなかった。つつじ園の入居者がいなくなっても、追い出したようなものなのだから素直には喜べないだろう。
「俺たちは何も悪いことしてないのに、なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだろな」
園長のつぶやきに、律子は深くうなずいた。




