3月 埋み火⑦
「ババア、どけよ」
老婆は、自分が言われたのだと気付かず、本から顔を上げなかった。
「どけってば、バ・バ・ア」
頭の上から声がして、見上げると、茶髪の若い男と、小さい子供を抱えた金髪の女が、老婆を睨んでいる。
老婆は戸惑いながら、振り向いて窓に貼ってあるマークを確認した。ここは間違いなく優先席である。
「あの、これ」
男たちが気づいていないのかと思い、マークを指すと、
「だから、こっちは子供を連れてるんだからさ、譲るべきだろ?」
と、男は言った。
「子供をつれてるって……私は高齢者だけど」
「だから何? あんたは数年後にはお亡くなりになるけど、子供はこれから社会を背負っていくんだから。こっちが優先されるべきだと思わん?」
老婆は驚き呆れ、返す言葉がなかった。
優先席に座っている他の乗客は、関わり合いたくないように寝たフリをしたり、新聞を読むフリをしている。
老婆は迷ったが、無視することにした。
本に視線を戻すと、
「無視すんじゃねえよ、害虫がっ」
と男は激昂した。
「害虫?」
「お前ら、害虫じゃん。世の中の役に立たないのに、年金で養ってもらって。俺らがその金を払ってんだぞ? せめて邪魔にならないように生きろよっ」
老婆はワナワナと震えだした。今まで生きてきて、ここまで侮辱されたのは初めてだった。それも、見ず知らずの男に。
「もう、手がしびれたよお」
二人のやりとりをニヤニヤ見ていた女は、あろうことか老婆の膝に子供を立たせた。
「ちょっと、何するのっ?」
老婆が声を荒げると、
「あっ、ごめーん。手がすべっちゃってえ」
と、女はヘラヘラ笑い、子供を抱えあげた。
老婆のスラックスには、子供の靴の跡がくっきりとついた。
老婆はたまらずに立ち上がり、二人を押しのけるようにして車外に出た。目には涙がにじんでいる。
同時にドアが閉まり、電車はガタンと大きな音を立てて動き出した。
すかさず、女は子供を抱えて席に座った。
「ホント、面白いね。ババアをいじめるのって」
「まあね。優先席撲滅運動のためにも、ジジイやババアはこまめに追い出さないと」
男はニヤニヤ笑いながら、スマホを取り出した。
クジョピンク
優先席撲滅運動のため、ババアを一人優先席から追い出しました。
ネンキンもらうほどの悪党じゃなかったのが、ちょっと残念。
***************
「ここに来るまでに、気づいたことはありませんでしたか」
邦雄にふいに尋ねられて、京子は首を傾げた。
「そうですね、桜がそろそろ咲く頃かな、って思いましたけど」
邦雄は苦笑して、
「そうじゃなく、街を歩くお年寄りの数が少ないと思いませんか」
とコーヒーを飲みながら言った。
「そういえば」
京子は電車の中もすいていたことに気づいた。
「今、お年寄りが外出を控えてるんですよ」
「そうなんですか? やっぱり、老人ホームの放火が怖くて」
「それもあるんでしょうけど、最近、優先席に座っているお年寄りが狙われるらしいんですよ」
「優先席に座ってる人が?」
京子は眉をひそめた。
「ついこの間、ツイッターで優先席撲滅運動をしよう、というコメントを書いたやつがいたらしいんですね。すぐにそのツイッターは削除されちゃったらしいけど。1月に代々木上原でお爺さんが殺された事件がありましたよね。あれもどうやら、優先席でトラブルがあったらしいんです。そのお爺さんは、電車で優先席に座っている若者を見つけると、嫌がらせをするので有名だったらしいんですね。殺された日も、妊婦さんを怒鳴って立たせたそうなんです」
「へえ、それは知りませんでした」
「まだ犯人はつかまってないみたいだけど。もしかして、優先席撲滅運動にも関係してるかもしれないな」
「何なんですか、その運動は」
「わがままな年寄りをなくすために、優先席をなくそうっていう運動らしいですよ。優先席に座っているお年寄りに嫌がらせをするらしいです」
「ホントですか? 何をしたいのか、意味がわかんないですね」
「今、地方でも老人を狙った事件が相次いでいるでしょう。だから、買い物に出かけるときも近所で連絡しあって、みんなでスーパーに行ってるって、この間テレビでやってましたよ。それで、新潟のどこかの町で、85歳のおじいさんが運転する車に5人で乗り込んでスーパーに向かう途中、雪でスリップして田んぼに車ごと落ちちゃって、乗っている人全員が大怪我をしたって」
「そんな……ひどいですね」
京子は思わず胸に手を当てた。
「なんでそんなに、老人ばっかり狙われるんですか」
「警察も専門家も首をひねってるんですよ。お金目当てではないし、怨恨でもないし。これだけあちこちで起きているんだから、単独犯ではないだろうし。おかしいやつが多いって言っても、こんなに同時に多発するわけないですからね」
「怖いですよね、本当に」
「まあ、人が少ないほうが電車も座れるし、それはそれでいいんですけどね」
邦雄は話しながら取材の道具を片づけ始めた。
「今日の取材はこれで終わりということで。お疲れ様でした」
「ハイ、お疲れ様です」
京子は背筋を正して頭を下げた。
「ところで、桂木さん、テレビに興味はありませんか?」
「え? テレビは、最近は時間があるから、結構見てますけど」
「そういう意味じゃなくて、出演してみないかって話です」
「出演!?」
京子は驚いて声が裏返ってしまった。
「僕の知り合いに、テレビの制作会社に勤めている人がいるんです。その知人が、福祉や介護をテーマにした番組を作ることになって、介護の現場で働いてる若い人を探してるらしいんです。桂木さんがピッタリなんじゃないかって話したら、ぜひ話を聞きたいって乗り気になって」
「そんな、私、今は失業中ですよ」
「2か月前までは働いてたでしょう。今も仕事を探してるわけだし、まだまだこの仕事をやる気はあるんですよね」
「でも、何を話せばいいのかわかんないです」
「それは大丈夫ですよ。実際に自分が体験したことを話せばいいだけですから。事前に、どんな話をしてもらいたいのか、プロデューサーから話があると思うし」
「でも、うまく話す自信はないです。今の取材でさえ、メタメタなのに」
「それも大丈夫。スタジオで大勢の前で話すわけではないから。たぶん、会社の会議室でも使って撮るんじゃないかな。言い間違えても撮り直しができるし、編集もあるし、何とかなりますよ。僕もそばでフォローしてもいいし」
「本当ですか?」
「もちろん。本を出すなら、少しは顔を売っておいたほうがいいと思うんですよね。それも戦略の一つです」
「その……安藤さんにフォローしていただけるのなら、出てもいいです」
「そうですか? よかった」
邦雄は顔をほころばせた。
「それじゃあ、さっそくプロデューサーに話をしてみます。彼も喜ぶな、きっと」
京子は体が汗ばみ、鼻の下に軽く汗をかいているのを感じた。
ハンカチを取り出し、そっと汗を拭う。降ってわいた話にすっかり興奮していた。
本の出版、テレビの出演。予想もしなかった話が次々と舞い込んでくる。
――次の仕事が見つからなくて落ち込んでたけど。こういうの何ていうんだっけ。捨てる神あれば、拾う神あり、だっけ。だとしたら、幸運の神様に拾ってもらったのかもしれない。大吾に話したら、ビックリするだろうな。
面接のことで言い争いをして以来、大吾とは会っていない。
面接がどうだったのかを聞いても来ないし、京子も話せずにいた。話したら、「ほら、やっぱり」と言われそうで、気が進まないのだ。
――テレビの話をしたら、喜んでくれるかも。確か、前に大吾の店がテレビで紹介されたとき、大騒ぎしてたもんね。




