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君はここにいる

 高校三年生の受験期に入った俺は、予備校の帰りにカフェの前で足を止め、聞こえてくる曲に耳を傾ける変な癖がついた。

 心臓に負担をかけないようにゆっくりと歩く癖をつけてから、街に聞こえる音楽が気になって仕方無かったんだ。

 特にピアノの音がしたら、思わずそっちを振り向いてしまう。

 何かを探している訳じゃないのだけれど、何かがあると思うんだ。

 とても大切な自分の欠片みたいなものがある気がしてならないんだ。

 それを探すために俺もピアノを習い始めたけど、まだまだそれが何か分からない。



 私が病院から退院すると、私の部屋の机には山積みになったラヴレターの前に一枚だけ私の置き手紙が置かれていることに気がついた。

 こんなもの書いたっけ? そう思いながらその紙をつまみ上げる。

 そこには、《私には好きな人がいるから断りました。私は博人さんが大好きです》と書いてある。

 その名前に覚えはない。クラスメイトにも先輩にもいない。

 ふと、その名前が気になって電話帳も調べてみるけど、該当する名前は無かった。

 けれど、不思議とその紙は捨てられなかった。

「そいえば、骨髄バンクの申請出さないと」

 病院に入院していたとき、不思議と目についたポスターのことを、家に帰っても覚えている。

 まるで、そうするのが自分の義務みたいで、頭から離れたかったんだ。

「博人さんか。どんな人なんだろうな?」

 誰か分からないけど、私はその人に何故かありがとうと呟いて、手紙を大事に机の中にしまい込んだ。



 大学受験を終えて、大学に入った後でも俺はあの変な癖が抜けなかった。

 今日もバイトバカの泰平に振り回され、色々なバイトに顔を出している。

 でも、不思議と嫌な気がしなかった。

 というか、このバイトバカについていけば、何か大事な物に出会える気がして、すごく不思議だったんだ。

 特に一番お気に入りだったのが、ジャジーダイニングというジャズ喫茶だった。

 聞こえてくるジャズの生演奏が楽しかったというのもあるし、クラスで一目置かれる古手川さんがここの常連さんで、不思議と会話が弾んで楽しかった。

 自分の心を埋めそうなピースかと思ったけど、何故か心にはすっぽりはまらない。

 良く似て違う。もっと別の何かを俺は探し続けている。

 そう思って外を見ると、お下げの髪を左右に振りながら、俺の好きな曲を口ずさむ女子大生が通り過ぎていった。

 その子を目で追いかけようとしたけど、彼女は幻のように消えて人混みだけが映っている。



 私はあのコンクールで入賞できず、結局プロになることが出来なかった。

 あんまりハッキリ覚えていないけれど、ありえない奇行に走ったみたいで、舞台から落ちそうになったり、礼をせずに逃げ出したり、大ポカをやらかしたあげく交通事故。

 ピアノの技術云々の勝負以前の問題で、ダメだった。

 けれど、私はピアノを辞めることが出来ず、東京の音楽大学に進学することになった。

 不思議なことにお父さんもお母さんも私のお願いをすぐ受け入れてくれた。

 特にお父さんが応援してくれた。

 おかげで、あんなに嫌だった家がたまに恋しくなる。

 けれど、別の寂しさが私の心には常にあった。

 何かが足りないような、逆に何かが余っているような変な感覚がある。

 こんなにも私は満たされているはずなのに、何かがはまるのを待っている。

 音楽でも郷愁でもない何か。それが何か分からなくて、私は今日も鼻歌を歌いながら見慣れ始めた東京の街並を見に出かける。

 甘くて美味しいケーキを食べればかなりの幸せを感じるけれど、もっと心が求めている物がある気がして、ぼんやりと店の中をのぞきながら道を歩く。

 その視線に何とも冴えない顔だけど、優しそうな男の子の給仕をしている姿が映った気がしたけど、すぐに人混みに消えた。

 慌ててお店の中に入ったけど、そこに君はいなかった。



 初夏のある日、俺がジャジーダイニングでバイトをしていると店長が何かに驚いてワイン瓶を落として割った。

 既に店は開店状態でお客さんも入り始めたのに、どうやら演奏する人が急病で来られなくなったらしい。

 そんな緊急事態に、店長は今更応援を呼んでも間に合わないと頭を抱えて絶望してる。


「誰かピアノを弾ける人はいないのか!?」


 店長が悲痛な叫びをあげる。

 その声に俺はそっと手をあげて――。


「少しなら弾けますけど、さすがに店で弾けるレベルじゃ――」

「頼んだ!」

「……マジですか? そんなに上手くないですよ?」

「マジです。無いよりマシだ」


 店長の懇願に俺は苦笑いしながらピアノの前に座る。

 そして、ずっと練習してきたあの曲のジャズアレンジを弾き始める。

 不思議と弾いたら楽しくなる曲で、俺は踊るようにノリノリでピアノを弾いた。

 俺の弱い心臓が力一杯血を送り出し、手足を動かそうと全身が熱くなる。

 そして、その音に誘われたのか。お客さんがまた一人扉を開いて――。

 髪を後ろで結んで、目がぱっちりとした可愛らしい女の子だった。

 その姿に俺はガタッと椅子を立ち上がった。

 そして、君も目を見開いて固まっていた。

 ありえない。でも、俺の全身と心が震えている。君を知っていると。


「香織……?」


 無意識にその名前が出た。


「……博人さん?」


 君も俺の名前なんて聞いていないのに、俺の名前を口にした。

 信じられないように、夢でも見ているかのようなフラフラした足取りでピアノに近づいてくる。

 俺の手は俺の意志じゃないなにかで突き動かされ――、


 私の手は私の意志じゃない誰かに押されて――、


 ――君と手を重ねた。


 すると、まるでずっと欠けていた何かがスッポリと重なった気がした。


「そっか。そうだったんだ」

「えへへ、そっか。そうなんだ」


 朝起きる度に消えていた長い夢がぼんやりと蘇る。


 溢れ出てくる気持ちを止められず、私と君の目から涙がこぼれ落ちる。

 

 ずっと忘れていた何かが思い出せた俺たちは、残った手を自分の胸にあて、息を揃えて、無言でタイミングを合わせてこういった。


「俺はここにいる」

「私はここにいる」


 その言葉で私たちは同じピアノの椅子に座り、揃ってその曲名を告げた。


「君はここにいる」と。


 そして、二人は楽譜に書かれた最初の音を一緒に叩いた。

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