二日
一 勘定
魔王軍は北へ逃げていた。
負け戦が一年続いていた。人間の軍には転生者がいる。山を割り、軍勢を壁で包み、兵に飯を食わせ、傷の膿まない手当てを教え、穀物の穫れ高まで増やした男である。降伏した者は殺さない。捕虜を打たない。村を焼かない。この男が勝つたびに、勝たれた土地の暮らしは良くなった。
魔王軍の軍師は、それを全部認めていた。認めたうえで、峠の古い砦で地図を見ていた。
細い指で、道のりを三つ測った。敵の足。味方の足。北の山脈までの残り。本隊は四万、荷車と怪我人を引きずっている。山を越えれば、冬が来て道が閉じる。越える前に追いつかれれば、そこで終わる。
軍師は炭を置いた。
「二日だな」
副官が後ろから覗いた。軍師より頭二つ大きい、十五年来の副官だった。
「二日、ここで持たせればよろしいので」
軍師は窓から砦を見た。壁は古く、東の角は崩れかけていた。兵は八百。矢は一人三十本。兵糧は六日ぶん。向こうの新しい投石機なら、昼飯までに門がなくなる。
「無理だね」
「では」
「降伏しよう」
副官は、聞き違えた顔をした。
二 副官
「まだ戦えます!」
「戦えるよ」
「なら!」
「勝てないけどね」
「勝てるかどうかの話じゃないでしょう!」
軍師は少し笑った。
「そういうところ、好きだよ」
命令は変えなかった。明朝、白旗を上げる。武器は蔵に納める。怪我人の名簿を作る。
副官は長いこと軍師の顔を見ていた。十五年、この顔が何か企んでいるのを見てきた。今度も何かあるはずだと探した。何も見つからなかった。軍師はただ、疲れた顔で名簿の紙を数えていた。
副官は部屋を出た。
その夜のうちに、三百人が武器庫に入って、内側から閂を下ろした。
「軍師は腑抜けた! 俺たちは最後までやる!」
副官の声は砦じゅうに聞こえた。
軍師は自分の部屋でそれを聞いていた。止めに行かなかった。茶を一口飲んで、冷めているのに気づいて、置いた。
三 白旗
夜明けに白旗が上がった。
門が開いて、軍師が一人で出てきた。供も連れなかった。人間の陣の前まで歩き、剣を鞘ごと外して地面に置き、膝をついた。
「降伏いたします」
アレンは馬を降りて、相手を見た。魔王軍の軍師の名は知っていた。三度、この男の引いた陣に手を焼いた。
参謀が耳打ちした。罠です。あれが素直に降伏するはずがない。
アレンもそう思った。だから条件を訊いた。
軍師は五つ挙げた。怪我人の手当て。降伏した兵の助命。砦に逃げ込んでいる百姓の安全。捕虜をまっとうに扱うこと。略奪をしないこと。
五つとも、アレンが自分の軍に課している決まりだった。
「すべて認めます」
軍師は顔を上げた。感心した顔だった。
「噂どおりですね」
「何がです」
「お優しい」
皮肉には聞こえなかった。
四 手続き
砦の受け取りが始まった。
軍師はよく働いた。兵の名簿を出した。八百十二人、種族と所属と傷の有無まで書いてあった。蔵の鍵を渡した。捕らえていた人間の兵を四十一人、縄を解いて返した。怪我人を中庭に集め、逃げ込んでいた百姓を広間に集めた。
そして、全部をきちんとやりたがった。
「名簿と頭数を突き合わせていただけますか。あとで一人足りないとなると、その者の家族が困りますので」
もっともだった。アレンの軍でもそうしている。突き合わせに半日かかった。
「怪我人は、動かす前に診てやってください。腹をやられているのが十九人います」
もっともだった。軍医が一人ずつ診た。
「油の蔵は、火の気を遠ざけてから開けたほうがよろしい。古いので」
もっともだった。
「百姓は村ごとに帰してやっていただけると。道中の護衛もお願いできますか。うちの敗残兵が、まだ山におりますので」
もっともだった。
アレンは一つも断れなかった。断る理由がなかった。戦をまともに終わらせるというのはこういうことだと、兵に教えてきたのは彼自身だった。
日が暮れた。
参謀が言った。
「少々、時を使いすぎでは」
「分かっています。ただ、どれも要ることです」
「北の本隊は」
「斥候がまだ戻りません。散ったのでしょう。それに、武器庫が残っています」
武器庫には、三百人が籠もったままだった。アレンの軍は、後ろに火種を残して先へ進まない。兵糧の道が一本しかないときは、なおさらである。そう決めたのもアレンだった。
五 首
二日目の朝になっても、武器庫は開かなかった。呼びかけには矢が返ってきた。
「首謀者は誰です」
「私の副官です」
「説得できますか」
軍師は少し黙った。
「……難しいでしょう。そういう男です」
「このままにはしておけません」
「はい」
軍師は立った。
「私の兵にやらせてください」
アレンは眉を上げた。
「僕がやれば、すぐ済みます」
「あなたがなされば、三百人とも死にます。蔵ごと」
その通りだった。
「人間の兵が斬り込めば、残りは二度と降伏しません。身内の始末は、身内でつけさせてください。降伏する者も出ます」
これも、もっともだった。アレンは、降伏した兵のうち二百人に武器を返させた。
*
鎮圧隊は武器庫の前に並んだ。昨日まで同じ鍋の飯を食っていた連中が、戸の向こうにいた。
戸は樫で、鉄の帯が巻いてあった。丸太で突いた。上の矢狭間から矢が降って、丸太を抱えていた兵が二人倒れた。
「やめろ! 俺だ、三番隊の――」
中から怒鳴った声を、外の何人かが知っていた。丸太が止まった。
兵たちは軍師を見た。
軍師は腕を組んで立っていた。アレンのいる場所からも、その目は見えた。帳面の数字を見るときの目だった。
「やれ」
丸太がまた動いた。
戸は四度目で割れた。中は狭かった。槍の柄がつかえ、盾がぶつかり、顔の見える距離で突き合った。名を呼び合いながら斬っている者がいた。泣きながら斬っている者がいた。鎮圧隊の若い兵が一人、槍を下ろして後ずさった。
「できません」
軍師はその兵の横まで歩き、落ちた槍を拾って、手に戻した。
「やれ」
声は少しも大きくなかった。
アレンは門の脇でそれを見ていた。手を振れば終わる。そう三度思い、三度やめた。任せると言ったのは自分だった。
昼を過ぎ、日が傾いた。武器庫の中の声は、だんだん減った。武器を捨てて出てくる者が、十人、二十人と続いた。出てこない者もいた。
最後に、奥の小部屋が残った。
軍師は剣を抜いたまま、一人でそこへ入った。戸は後ろで閉まった。
*
副官は樽に腰かけていた。脇腹を押さえた手の下から、血が床に垂れていた。足もとに、折れた斧があった。
「……本当にやりやがった」
「うん」
「あいつら、どっちもあんたの兵ですよ」
「そうだね」
「で、俺を殺しに来たんですか」
「うん」
「最低だな、あんた」
「そうだね」
副官は軍師の顔を見た。十五年見てきた顔だった。何かを探して、今度も見つからなかったらしい。
「俺は、あんたを信じてた」
「知ってる」
副官は苦笑した。大きな手で顔をこすった。血の跡が頬についた。
「地獄で会ったら、ぶん殴りますよ」
軍師も少し笑った。
「席、取っといて」
*
日暮れに戸が開いた。
軍師が箱を抱えて出てきた。兵糧の空き箱だった。アレンの前まで歩いて、地面に置き、蓋を取った。
アレンは息を呑んだ。
軍師は何も言わなかった。箱の前に立っていた。両手が震えていた。袖口まで血がついていた。唇を噛んで、白くなっていた。目の縁が赤かった。
十五年そばにいた男だと、名簿の備考にあった。
アレンの顔が曇った。
「……お辛かったでしょう」
軍師は俯いたまま、首を振った。
「いえ」
両の手を握りしめた。それでも震えは止まらなかった。
「これも……平和のため」
声が掠れた。
「天下万民のためです……!」
アレンは言葉が出なかった。
隣で参謀が目を伏せていた。罠だと言った男だった。
この人は選んだのだ、とアレンは思った。主への忠義より、戦の終わるほうを。そのために、いちばん近くにいた者を自分の手で斬った。
「あなたの決断を、無駄にはしません」
軍師は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
顔は見えなかった。
六 二日目
武器庫の片づけは夜半までかかった。死人が双方で七十一、怪我人が百を超えた。降伏した者の武器を数え、名を控え、傷を診た。鎮圧に出た二百人からも、もう一度武器を預かった。副官の体は、軍師が自分で布に包んだ。
その夜遅く、アレンは軍師を天幕に呼んだ。茶を出した。
軍師はよく訊いた。アレンはよく答えた。試験で役人を選ぶ話。畑を三つに分けて休ませる話。兵の飯を帳面で勘定する話。
「良い仕組みですね」
「それなら、飢える者が減る」
「なるほど。我々が負けるわけだ」
世辞ではなかった。訊き方で分かった。この男は、仕組みの継ぎ目まで見て感心していた。
アレンは不思議になった。
「本当に、良いと思っておられるんですか。僕のやっていることを」
「もちろん」
「なら、なぜ魔王軍に」
軍師はきょとんとした。
「私、魔王軍の軍師ですから」
それだけだった。アレンはその答えの意味を、その晩は考えなかった。
七 北
三日目の明け方、斥候が戻った。馬を二頭潰していた。
魔王軍の本隊は散っていなかった。四万がひとかたまりで、北の山脈の登り口にいた。先頭はもう峠に掛かっている。
アレンの顔色が変わった。
地図を見た。日を数えた。白旗。名簿。怪我人。百姓。油の蔵。武器庫。
軍師を呼んだ。
「最初から、これが目的だったんですか」
「何のお話でしょう」
「時間稼ぎだ!」
「……ああ」
軍師は否定しなかった。
「お前は降伏したんだぞ!」
「しました」
「なら本隊の道筋を言え! 峠はいくつある、どこを越える!」
「嫌です」
「は?」
「あなたに勝てないので、降伏したんです。昔の仲間を売るとは、申し上げておりません」
「そんな理屈が通るか!」
「通りませんか」
「当たり前だ!」
「あらら」
アレンは軍師を縛らせ、全軍を北へ出した。
半日行くと、谷の橋が落ちていた。四日前に落としてあった。アレンは手を振って、岩で谷を埋めた。
街道が倒木で塞がっていた。吹き飛ばした。
辻の道しるべが、三つとも違う方を向いていた。斥候を出して確かめた。
浅瀬の杭が抜かれていた。山に残っていた敗残兵が、夜に二度、荷駄を襲った。
全部破った。一つ残らず破った。アレンは本当に強かった。軍師の仕掛けは、どれも半刻と持たなかった。襲ってきた兵は皆捕らえられた。
盤の上では、何もかもアレンの勝ちだった。
八 残念でした
四日目の夕方、先鋒が山脈の登り口に着いた。
捨てられた荷車と、まだ温かい焚き火の跡があった。峠には雪が降りはじめていた。道は白く消えかけていた。
一人で先へ飛ぶことは、アレンにはできた。四万を山ごと潰すこともできた。降伏させて、連れ帰って、飯を食わせることは、一人ではできなかった。そしてこの冬、軍に峠を越えさせれば、凍えて死ぬのは彼の兵だった。
アレンは引き返して、縛られた軍師の前に立った。
白旗から数え直した。膝をついた男。五つの条件。名簿。怪我人。百姓の護衛。
箱。
「やれ」と言った目。震えていた手。噛んでいた唇。天下万民のためです、と言った声。
顔が歪んだ。
「そこまで……そこまでやるのか……!!」
軍師は答えなかった。
縛られた手を、ゆっくり持ち上げた。爪のあいだに、まだ黒く血が残っていた。
指を二本立てた。
「二日」
「……何?」
「二日、稼いだ」
顎で北を示した。
「もう追いつけない」
アレンは黙っていた。
軍師の肩が震えはじめた。小刻みに、だんだん大きく。
アレンは眉を寄せた。泣いているのかと思った。
違った。
「全部……」
喉の奥で、くくっと鳴った。
「全部、うまく行くと思った?」
顔を上げた。
満面の笑みだった。
それから、舌を出した。世界でいちばん強い男に向かって、子供のように。
「残念でしたーー!!」
呆然とするアレン、軍師は地べたを打ち、這って笑い続けていた。
目と鼻と口と、顔中から分泌物を振り撒きながら、あたり構わず笑っていた。




