古い城壁
一 参謀
母の自慢は、息子が参謀だということだった。それが何をする仕事なのかは、よく知らなかった。
息子は二十八だった。十四で幼年学校に入り、士官学校を二番で出て、王国軍の参謀本部に席をもらった。築城、籠城、兵糧の勘定、陣の組み方、騎馬と弓の使いどころ、伝令の走らせ方、門の守り方、予備の兵をいつまで握っておくか。十年かけて、そういうものを覚えた。上官は彼を、十年後の参謀総長だと言った。
そこへ転生者が来た。
アレンという黒髪の若い男だった。魔王の軍を三度続けて破り、王に請われて軍の立て直しを任された。
息子が四日かけて書いた作戦案を、アレンは立ったまま読んだ。
「この配置だと、ここに死角があります」
「兵糧の道は、こちら一本にまとめたほうが無駄がないですね」
「伝令だと半日遅れます。丘ごとに鏡を置いて、光で送りましょう」
丁寧な口調だった。馬鹿にした様子はどこにもなかった。そして全部正しかった。息子は地図を見て、言われた死角を見つけ、なぜ四日のあいだ自分に見えなかったのか分からなかった。
次の戦はアレンの案で戦って、死人が三分の一で済んだ。その次もそうだった。
参謀本部は半分に減らされ、残りは作り直された。息子は書庫の係に回された。古い戦史を棚に並べる仕事だった。
誰も息子を悪く扱わなかった。廊下で会えば、みな肩を叩いた。
「これから学び直せばいい。まだ若いんだ」
息子は礼を言った。その晩、書庫の鍵を机に置いて帰り、二度と出仕しなかった。
二 酒
息子は実家に戻った。父はとうに亡く、城壁の内側の、東門に近い小さな家に、母が一人で住んでいた。
昼から飲んだ。軍学の本は行李から出して床に積んだきり、足で脇へ寄せた。昔の同輩が二度訪ねてきたが、二度とも寝たふりをした。
母は軍のことを何も知らなかった。だから何も言わなかった。飯を炊いた。枕もとに水を置いた。息子が吐けば、桶を持ってきて、あとを拭いた。
ある夜更け、息子は土間の上がり口に座って泣いていた。酔っていた。
「母さん」
「なに」
「俺、無能だったんだよ」
「そう」
「十年だぞ」
「うん」
「十年、勉強したんだ」
「知ってるよ」
「あいつは、全部知ってた。最初から。俺が十年かけたものの、その先まで」
母は黙っていた。
「俺の十年、何だったんだよ……」
母には分からなかった。分からないことを、分かったようには言えなかった。
隣に座った。息子の背中をさすった。子供の頃、腹を下した晩にそうしたのと同じやり方だった。
三 本
雨の続いたあとの晴れた日、母は床の本を一冊ずつ取って、埃を払っていた。
「それ、捨てていいよ」
「どうして」
「役に立たないから」
母は手の中の本を見た。字ばかりで、ところどころに城の絵があった。余白に、息子の字がびっしり書き込んであった。十五、六の頃の、角ばった字だった。頁の角が何か所も折れていた。
「でもあなた、ずいぶん一生懸命読んでたでしょう」
「だから何だよ」
「別に」
母は本を棚に戻した。残りも順に戻した。それだけだった。
翌日、息子は何の気なしに一冊抜いた。
古かった。読み返すと、本当に古かった。アレンの弩と信号の前では、半分の頁が意味をなさなかった。息子は本を閉じた。
次の日、また開いた。
十日ほどして、本は机に戻っていた。息子は筆を持って、余白の昔の書き込みの横に、新しい字を足していた。
「現在は無効」
そう書いた頁が続いた。たまに違うのがあった。
「条件次第で可」
母は後ろを通るときにそれを見た。読めはしたが、意味は分からなかった。昼飯を机の端に置いた。
四 試験
息子は新しい軍の登用試験を受けた。
落ちた。問いの半分は、言葉の意味から分からなかった。アレンの軍学はまだ本になっていなかった。知っているのは本人と、そばにいる二十人ばかりだけだった。
「どうやって勉強しろってんだよ」
息子は笑った。その晩は飲んだ。
次の朝は机にいた。飲む日はまだあった。飲むだけの日は、なくなっていた。
「また軍人になるの」と母が訊いた。
「知らない」
「そう」
「でも……ほかにできることもないし」
「そう」
母は洗濯物を抱えて出ていった。
五 鐘
秋、アレンは主力を連れて北へ出た。魔王軍との戦場へ向かう遠征だった。王都から三日の道のりである。
五日目の夜、半鐘が鳴った。
東の野が、端から端まで動いていた。魔族だった。数は誰にも数えられなかった。
城壁の上は怒鳴り声ばかりだった。
「アレン殿は!」
「三日先です!」
「呼び戻せ!」
「鏡は夜は使えません! 早馬を出しました!」
「いつ戻る!」
「分かりません!」
新しい弩はほとんど遠征に出ていた。アレンがいれば王都を丸ごと覆う魔法の壁も、アレンがいなければなかった。守備を預かる若い隊長は、教わったとおりの手順を三つまで進めて、四つ目で止まった。四つ目は「アレン殿の指示を仰ぐ」だった。
息子は寝巻きの上に古い外套を引っかけて、東門の下に来ていた。
しばらく見ていた。兵は門の前に固まり、弓兵は弓を持ったまま地面にいて、通りは逃げる荷車で詰まっていた。
「鐘を鳴らせ」
誰も振り向かなかった。
「西の鐘楼を三つ! 南を二つだ!」
白髪まじりの軍曹が振り向いた。息子の顔を見て、それから鐘楼を見て、走った。
西で三つ、南で二つ鳴った。
去年まで、王都の者なら子供でも知っていた合図だった。籠城である。
街のあちこちで、戸が開いた。靴屋が、粉屋が、門番上がりの爺さんが、錆びた兜を抱えて出てきた。誰に言われなくても、自分の持ち場だった場所へ歩いていった。
若い隊長が息子の前に来た。
「あなたは」
「元参謀だ。書庫の」
軍曹が横から言った。
「籠城の手順なら、この人が全部覚えてます」
隊長は少し迷い、それから一歩下がった。
六 古い戦
息子のやったことに、新しいものは一つもなかった。
鐘で知らせ、旗で合図し、馬で伝令を走らせた。荷車を倒して通りを塞いだ。弓兵を屋根に上げた。家並みを三筋壊させて火除けの空き地を作り、辻ごとに水桶を並べさせた。門の内側に杭を打たせた。守りの線を三本引いて、一本目に兵の半分を置き、二本目に三割を置き、残りを予備にして、広場に座らせた。怪我人を運ぶ道を一本、何があっても空けておけと言った。
若い兵が言った。
「アレン殿なら、もっと――」
息子は怒鳴った。
「いねえ奴の話すんな!!」
兵は黙った。
「古臭いですよ、こんなの!」と別の兵が言った。
「知ってる!」
「これで持つんですか!」
「持たせるんだよ!」
古い軍学は、アレンの軍学に及ばなかった。息子はそれを誰より知っていた。余白に「無効」と書き続けたのは自分だった。
ただ古い軍学は、山を割る男がいなくても回るように書かれていた。書いた者たちは、そんな男が来るとは知らなかったからだ。
*
母は聖堂にいた。東の町の者が逃げ込む場所だった。
水を運んだ。運ばれてくる者の血を拭いた。敷布を裂いて包帯にした。親とはぐれた子を膝に乗せた。
風向きによって、遠くの声が届いた。何を言っているのかは分からなかった。誰の声かは分かった。
隣で布を裂いていた女が訊いた。
「あれ、あんたの息子さん? 軍人なの」
「昔ね」
「今は?」
母は開いた扉の向こうを見た。城壁の上に火が並んでいた。
「……今もみたい」
母はまた布を裂いた。
七 母を守れ
魔族は強かった。
夜半に一本目の線が破れた。息子は兵を二本目まで下げさせた。
「東門は捨てろ!」
「二の柵まで下がれ! 走るな、歩け!」
「予備を!」
「まだ出すな!」
「このままじゃ抜かれます!」
「だからまだだ!」
城壁の一部が、内側へ崩れた。二本目も破れた。
息子は剣を持っていた。参謀は剣を抜かないものだと教わったが、抜かずに済む場所がもうなかった。手が震えた。一度、倒れた荷車の陰で吐いた。酒のせいではなかった。口を拭いて、戻った。
三本目は聖堂の前の広場だった。その後ろには、もう線がなかった。
予備を出した。それも削られた。兵が崩れはじめた。
「もう無理だ!」
「逃げろ!」
「どこへだよ!」
息子は叫んだ。
「国王陛下を守れ!!」
誰も止まらなかった。
「王都を守れ!!」
止まらなかった。息子自身、その言葉では足が前へ出なかった。
背中に聖堂があった。
毎朝、黙って置かれた飯があった。枕もとの水があった。拭かれた床と、棚に戻された本があった。何も分からないまま、隣に座っていた人がいた。
「自分のガキを守れ!!」
何人かが足を止めた。
「女房を守れ!!」
振り向いた者がいた。
「俺の母を守れええええ!!」
間があった。
「俺の母ちゃんもいるぞ!」と誰かが怒鳴った。
「うちのガキもあん中だ!」
「逃げたら女房に殺される!」
崩れかけた列が、そこで止まった。
息子は剣を抜いたまま、列の中へ入っていった。
「右を塞げ!」
「次の隊、前へ!」
「まだだ! まだ持つ!」
石の崩れる音と、矢の音と、人の声が、その声を呑んだ。
八 春には
王都は落ちなかった。
どうやって落ちなかったのかを、順を追って話せる者はいなかった。夜が明けたとき、広場の線はまだそこにあった。それだけは皆が覚えていた。
四日後、アレンが戻った。
馬を乗り潰して戻ったのだった。焼けた東の町を歩き、崩れた城壁を見上げ、聖堂に寝かされた怪我人を一人ずつ見て回った。
「よく守れましたね」
本心だった。
「危なかった。……ただ、このやり方では人が死にすぎます」
アレンは瓦礫の上に図面を広げた。まわりに新しい参謀たちが集まった。
「壁はもっと外へ出しましょう。この形なら死角がなくなります。鐘では細かいことが伝わらないので、夜でも使える信号を作ります。次は、半分の兵で守れる」
全部正しかった。誰も異を唱えなかった。アレンは、次の夜襲で死ぬ者を減らそうとしていた。
その横を、母が通っていった。
図面を囲む者たちは誰も気づかなかった。母も彼らを見なかった。
母は古い城壁の下まで歩いた。石は焼けて黒く、矢の跡が無数にあった。一か所、大きく内へ崩れていた。息子があの夜どこに立っていたのか、母は知らなかった。
手を伸ばして、石に触れた。ざらざらしていた。
後ろで声がした。
「この古い壁は取り壊します。石は新しい壁の基礎に使えますから――」
母は振り向かなかった。
石から手を離した。
それから両手を合わせ、深く頭を下げた。
長いこと、そうしていた。
古い城壁は、春には取り壊されることになっていた。




