我々の義務
一 借家
帝国が倒れ、貴族がいなくなって、四年になる。
爵位は紙一枚で消えた。領主の裁きも、年貢の免除も、生まれた家で決まる役目も、まとめて消えた。土地は耕している者に分けられ、役人は試験で選ばれるようになった。農奴の倅が書記になり、荷車屋の娘が士官学校に入った。
戦でそれをやった男は転生者で、いまは都にいる。街で悪く言う者はまずいない。
「いい時代になった」
「あの人のおかげだ」
「生まれじゃねえ、何ができるかだ」
市場でも井戸端でも、たいていそういう話になる。間違ってはいなかった。飢える者は減り、橋は増え、裁きは早くなった。
その街の川べりの、染物屋の裏の借家に、四人の家族が住んでいた。父と母と、十六の息子と、十一の娘である。
四年前まで、この街と周りの村を二十ばかり治めていた家だった。
いまの父は、河岸の倉庫で荷を担いでいる。その前は粉屋で帳面をつけていた。その前は石切り場にいた。どこも長くは続かなかった。
怠けるのではなかった。朝は誰より早く出て、誰より遅くまで残った。ただ、人にものを訊くことができなかった。
「分からねえなら訊けよ」と親方は言う。
「……分かっている」
そして間違えた。樽を逆さに積み、麻袋を濡れた側に置いた。
若い人足が見かねて声をかける。
「旦那、そっちじゃねえですよ」
「旦那ではない」
「へ?」
「もう旦那ではない。そう呼ぶな」
訂正するのはそこだけだった。樽は逆さのままだった。
その晩、母は鍋をかき回しながら言った。
「あなた、また辞めたの」
「辞めてはいない。明日から来なくていいと言われただけだ」
「それを世間では、辞めさせられたと言うんですよ」
娘が吹き出した。父は真面目な顔で匙を取った。母も少し笑った。
息子だけが笑わなかった。
二 酒場
息子がそれを見たのは、たまたまだった。
学校の帰り、友達に引っぱられて河岸の酒場の前を通った。戸が開いていた。奥の隅の卓に、父が一人で座っていた。前に、いちばん安い酒の杯があった。
隣の卓の声は、通りまで聞こえた。
「あいつ、元貴族だぞ」
「へえ。今じゃ俺と同じ、銅貨三枚の酒か」
「隅に置いとけ。酒がまずくなる」
笑い声がした。
「まったく、あの人のおかげだよ。あんな連中が偉そうにしてたんだからな」
「生まれただけの無能が上に立つ時代は、終わったんだよ」
父は何も言わなかった。杯を持ち上げ、飲み、置いた。背筋だけが妙にまっすぐだった。
息子の友達が袖を引いた。
「あれ、お前んちの」
「違う」
息子は歩き出した。
昔、父が馬で通ると、この通りの者はみな脇に寄って帽子を取った。息子はその鞍の前に乗せられていた。六つか七つだった。
笑われていることより、黙っていることのほうが、息子には堪えた。
三 息子
息子は学校で三番だった。
読み書きと算術ができれば、二年後には登用試験が受けられる。受かれば役所に入れる。教師はそう言い、息子もそのつもりだった。友達は船頭の子と、桶屋の子と、元は農奴だった家の子だった。誰も息子の家のことを言わなかった。息子も言わなかった。
父が四つ目の仕事を失くした晩、息子は匙を置いた。
「いい加減にしろよ!」
父が顔を上げた。
「もう貴族じゃねえんだよ!」
「およしなさい」と母が言った。
息子はやめなかった。
「くだらねえ意地なんか捨てちまえよ! 頭を下げれば済む話だろ! 訊けば教えてくれるんだよ、みんな! これからは能力なんだ。何者だったかじゃない。何ができるかなんだ!」
言い終わると、部屋が静かになった。鍋の煮える音がした。
父は息子を見ていた。怒ってはいなかった。
「……そうだな」
それだけだった。
息子は椅子を蹴って出ていった。戸が鳴った。
娘が父の顔を覗いた。
「お父さん、怒らないの」
「あいつの言っていることは、間違っていない」
父は冷めた粥を、最後まで食べた。
四 頼む
五つ目の仕事は桶屋だった。
親方は父より二十も若く、祖父の代まで父の家の農奴だった。父はそれを知っていた。親方も知っていた。どちらも口にしなかった。
三日目、箍を締める段になった。締め具の向きが分からなかった。父は手を伸ばしかけて、止めた。
口を一度閉じた。開いた。また閉じた。
「……教えてもらえるか」
「え?」
「分からん」
歯の奥から絞るような声だった。耳が赤かった。
親方は笑わなかった。
「もちろん。こう持って、こっちへ回すんで」
「……頼む」
その日、父は桶を二つ仕上げた。一つは水が漏れた。もう一つは漏れなかった。
漏れなかったほうを持って帰って、何も言わずに台所の隅に置いた。母はそれを見て、やはり何も言わずに、翌朝から水汲みに使った。
息子は気づいたが、黙っていた。
五 雨
秋の雨は三日降った。
三日目の夕方から、降り方が変わった。屋根を叩く音で話ができなくなった。夜には川が鳴りはじめた。
半鐘が鳴った。
通りは荷を抱えた人で埋まった。橋の上を泥水が越えていた。下町の路地に、水が足首まで来ていた。役所の者が松明を振って怒鳴っていた。
「堰だ! 上の堰を開けろ!」
「誰が行くんだ! 道がもう沈みかけてる!」
「開けなきゃ下町が丸ごと沈むぞ!」
「開け方を知ってる奴はいるのか!」
答える者がいなかった。
上流に古い堰がある。開けば水は昔の放水路へ逃げ、街を外れて沼へ落ちる。二百年前に父の家が築き、代々、父の家が番をしてきた。四年前に家がなくなって、番もなくなった。役所の台帳では、堰の係の欄は四年前から空いたままだった。誰も困らなかった。四年、大雨がなかったからだ。
父が人垣の後ろから出てきた。
川を見た。上流の闇を見た。それから、隣にいた息子を見た。
「行くぞ」
「……どこへ」
「堰だ」
「無理だよ!」
父は軒下に掛かっていた荷縄を外した。
「行くぞ」
「待てよ! 役所の者にやらせればいいだろ!」
「あれは巻き方を知らん」
「魔法使いは! 都から呼べば――」
「来るまでに下が沈む」
「じゃあ誰かほかの――」
「行くぞ」
父はもう歩いていた。
母が戸口に立っていた。娘の肩を抱いていた。顔が白かった。止める言葉を探している顔だった。探して、見つからなかった。
母は縄のもう一巻きを取って、息子の胸に押しつけた。
「お父さんを、一人にしないで」
「母さんまで何言って――」
母は手を離さなかった。
息子は縄をひったくり、悪態をついて、雨の中へ走った。
六 堰
水は膝まで来た。それから腰まで来た。
雨で三歩先が見えなかった。流木が腿を打った。腹を上にした山羊が流れていった。誰かの家の屋根板が流れていった。
息子が足を取られて沈んだ。父が襟首を掴んで引き上げた。十歩行って、今度は父が沈んだ。息子が腕を引いた。
「大丈夫か!」
「お前こそ立て!」
二人とも泥を吐いた。
堰は石と樫でできていた。上に小屋があり、小屋の中に巻き上げ機があった。鎖も歯車も、赤く錆びていた。四年、油を差した者がいなかった。
父は壁から鉄の梃子を外し、軸に差した。どこに何があるか、暗闇の中で全部知っていた。
「押せ!」
「やってる!」
「もっとだ!」
「無茶言うな!」
指一本ぶん動いて、止まった。
小屋の床板の隙間から、水が噴きはじめた。堰全体が低く唸っていた。
息子は怖かった。ここで死ぬのだと思った。十六だった。試験まであと二年あった。
「なんでだよ……」
「押せ!」
「なんで俺たちがやらなきゃならないんだよ!」
「押せ!」
「俺たちはもう領主じゃないだろ!」
父の手が、一瞬止まった。
息子は泣いていた。雨と区別がつかなかった。
「土地もない! 爵位もない! みんな父さんのこと笑ってるじゃないか! なのに何で、俺たちが死ななきゃならないんだよ!」
父が怒鳴った。息子が生まれてから、初めて聞く声だった。
「俺たちは、貴族だからだ!!」
息子は固まった。
「……は?」
「押せ!!」
父は梃子に肩を入れた。
息子も入れた。わけが分からなかった。分からないまま押した。二人で、言葉にならない声を上げて押した。
錆が剥がれる音がした。歯車が一つ、噛んだ。もう一つ噛んだ。
水門が上がった。
地面が震えた。堰の向こうで、川が向きを変える音がした。黒い水が放水路へ落ちていった。
父が息を吐いた。笑ったように見えた。
そのとき、足もとの石が抜けた。
父の手が息子の胸を突いた。強い手だった。息子は小屋の外へ、土手の側へ飛ばされた。それから土手も崩れた。
七 朝
息子は河原で目を開けた。
知らない百姓の女が、顔を覗き込んでいた。右の腕が、肘の先でおかしな向きに曲がっていた。空は晴れていた。
父はいなかった。
街は残った。下町は床の上まで水が来て、そこで止まった。家が三十ばかり流れ、十一人が死んだ。堰が開かなければ桁が二つ違っただろうと、役所の者は言った。
役所は人を出して、川下を沼まで探した。三日探した。父の片方の靴が、葦に引っかかっていた。それだけだった。
息子が戸板で運ばれて帰ると、母が戸口にいた。
母は息子の顔を見て、腕を見て、その後ろを見た。
「お父さんは」
息子は答えられなかった。
娘が泣いた。母も、娘を抱いたまま泣いた。
息子は泣けなかった。台所の隅の桶を見ていた。
八 英雄
七日後、転生者が街に来た。
都から自分で来たのだった。穀物と毛布を積んだ荷車を百台連れていた。崩れた土手を歩き、堰を見て、台帳の空欄を見て、役人を叱るかわりに自分の帳面に何か書きつけた。そういう男だった。
堰を開けた者がいると聞いて、会いたいと言った。
息子は役所の広間に呼ばれた。腕を布で吊っていた。
転生者は思ったより若かった。椅子から立って、息子を迎えた。
「君と、お父上が堰を開いたそうだね」
「……はい」
「大勢が助かった。下町の者は皆、君たちに礼を言っている」
「はい」
酒場で笑っていた者たちも、その中にいた。息子はそれを知っていた。
転生者は言った。心からの声だった。
「君のお父上は、英雄だ」
息子は少し黙った。
半月前なら、嬉しかっただろうと思った。父が、新しい時代に認められた。そう思って、胸を張っただろう。
息子は首を振った。
「違います」
「……?」
「父は英雄ではありません。貴族でした」
広間の役人たちが顔を見合わせた。その言葉は四年前から、褒め言葉ではなかった。
「貴族としての義務を、果たしただけです」
息子は右足を引いた。吊った腕では形にならなかったので、左手を胸に当てた。六つのときに父に教わって、それきり一度もしたことのない礼だった。下手だった。
顔を上げて、息を吸った。
「我々の、義務を」




