首切り女
一 受領
戦が終わって二月が過ぎた頃、司法庁に女が一人来た。
司法庁は、帝国の頃の陸軍省をそのまま使っていた。廊下の壁に、肖像画を外した跡が四角く白く残っていた。
女は喪服だった。黒い手袋をはめ、黒いヴェールを下ろしていた。供は年取った従者が一人きりだった。
受付の法務官は若かった。去年まで学生で、新しい登用試験の一期だった。名簿を確かめ、顔を上げ、ヴェールの奥を見て、次の言葉を忘れた。
目の縁が赤く腫れていた。泣く分はもう泣き終えた目だった。肌は紙のように白く、頬がこけていた。それでいて、息を呑むほど美しかった。喪服が、それを隠すどころか際立たせていた。
法務官は唾を飲んだ。喉が鳴ったのが自分で分かって、耳が熱くなった。
それだけだった。
悔やみの言葉は規則になかった。詫びる筋合いもなかった。女の夫は帝国軍の将官で、退却の途中に村を三つ焼かせ、徴発という名の略奪を許し、逆らった百姓を吊るさせた。証人は四十人いた。裁判は十九日かかり、弁護人もついた。本人は何も争わなかった。先月、ほかの二人と並んで銃殺された。
法務官は木箱の蓋を開け、目録を読み上げた。
「懐中時計、一。煙草入れ、一。手帳、一。勲章、四。眼鏡、一。指輪、一」
女は手袋のまま、一つずつ手に取って確かめ、箱に戻した。指輪のところで、少しだけ手が止まった。
「相違ございません」
受領書に名を書いた。字は震えていなかった。
女は箱を抱えて立ち、会釈をして出ていった。恨み言は一つもなかった。法務官のほうも、言うべきことを何も持っていなかった。
誰も悪くなかった。だから誰も、何も言えなかった。
二 馬車
帰りの馬車の窓から、女は町を見ていた。
町は明るくなっていた。
辻ごとに立っていた徴発の兵がいなくなり、かわりに巡邏が二人組で歩いていた。市場には荷車が詰まっていた。聖堂の前で、親を亡くした子供たちが列を作って、湯気の立つ椀を受け取っていた。新しく白く塗られた建物へ、石板を抱えた子供が走っていった。学校だった。去年までは将校の集会所だった。
馬車が市場の角で詰まって止まった。声が窓から入ってきた。
「今年は兵隊に麦を持っていかれずに済む」
「街道だってそうさ。うちの荷が一度も襲われてない」
「あの方のおかげだよ。まったく」
女は聞いていた。眉一つ動かさなかった。
嘘は一つも混じっていなかった。この国は良くなっていた。これからもっと良くなる。女にはそれが分かった。夫も、最後のほうは分かっていたと思う。
馬車が動いた。
三 手紙
屋敷に戻ると、女は人を払い、夫の書斎で箱を開けた。
時計は止まっていた。手帳は半分が白かった。勲章は一つずつ布に包んだ。
箱の底に、目録にない小さな封筒があった。法務官が書き落としたのか、誰かがそっと入れてくれたのか、分からなかった。表に女の名があった。夫の字だった。
開けた。
弁明はなかった。恨みもなかった。あの男を討ってくれとも、忘れて生きてくれとも書いていなかった。
一行だった。
「ありがとう。愛している」
女は長いこと、その字を見ていた。泣かなかった。もう出なかった。指の先で、字を一つずつなぞった。それから元の折り目どおりに畳んで、胸にしまった。
呼び鈴を鳴らした。
年取った従者が入ってきた。
「奥様、何か」
「領地を売るわ」
「はあ」
「船を買いましょう」
「……は?」
「できるだけ速い船がいいわ。商いの船に追いつけるくらい」
「奥様?」
「帆の色は、そうね。赤にしましょう。あの人の好きだった色だもの」
「奥様」
「私、よく分からないのだけれど、船って何人で動かすものかしら。百人も雇えば足りるわよね」
従者の顔から血が引いた。三十年この家に仕えた男だった。
「……何を、なさるおつもりで」
女は答えなかった。
窓辺へ歩いた。下の通りを、学校帰りの子供が走っていた。花売りが笑っていた。誰かがまた、あの方のおかげだと言っていた。
女はそれを見下ろした。
口の端が、ゆっくり吊り上がった。
青白かった頬に、うっすらと紅が差していた。濁っていた目が、濡れたように光っていた。夫が連れていかれた日から初めて、女は生きている者の顔をしていた。
四 赤い帆
春の北海で、麦を積んだ商船が一隻、追われていた。
追う船は黒かった。帆は赤かった。血を水で薄めたような赤で、遠目にも見間違えようがなかった。
半刻で追いつかれた。鉤が掛かり、板が渡り、黒い船から人が溢れた。帝国軍の敗残兵と、食いつめた水夫と、どこの港にもいるならず者だった。逆らった者は斬られた。逆らわなかった者も、あらかた斬られた。積荷は移され、船には火がつけられた。
船長は甲板に膝をついていた。
その前に、女が立った。黒い胸甲をつけていた。首から銀の鎖を下げ、鎖には男物の指輪が一つ通してあった。
船長は命乞いをした。妻がいる、子が三人いる、荷は全部やる、と言った。
女は最後まで聞いた。途中で遮らなかった。
それから喉を掻き切った。
副長は二十二だった。帆柱に縛られて、歯の根が合わなかった。女はその前にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「転生者様にお伝えください」
丁寧な声だった。茶会で人にものを頼むときの声だった。
「次はあなたです、と」
配下の一人が訊いた。
「奥方、残りは」
「殺してください」
男は頷いて行きかけた。
「ああ」
女が呼び止めた。
「二十歳にならない子は、残してあげて」
「へい」
それが女の決まりだった。慈悲ではなかった。法でもなかった。女がそう決めたというだけのことだった。
五 黒獅子
女は領地を売った。屋敷を売った。宝石を売り、絵を売り、馬を売り、夫の家が三百年かけて溜めたものを一つ残らず売った。年取った従者は泣いて止め、止まらないと分かると、いちばん高く買う相手を探してきた。
金は全部、船と人に替わった。
一隻が三隻になり、五隻になり、夏には十四隻になった。奪ったものは一枚も身につけなかった。船と、大砲と、火薬と、港の噂と、人間に替えた。そして次を襲った。
北海の交易は、転生者が整えたものだった。灯台を建て、海図を刷り、関所を廃した。女はそれを端から壊していった。
麦の船が来なくなった。北の港でパンの値が倍になった。薬の船が沈んで、熱病の町に薬が届かなかった。荷揚げの人足が職を失い、船乗りの後家が増えた。ようやく腹いっぱい食えるようになった者たちが、また腹を減らしはじめた。
沈められた船の水夫たちは、誰の夫も殺していなかった。
女はそれを知っていた。
港の者は女を、北海の黒獅子と呼んだ。首切り女とも呼んだ。子供を寝かしつけるのに、赤い帆が来るよと言う母親が出てきた。女を褒める歌は、どこの酒場でも作られなかった。
秋、北海を渡る商船は一隻もなくなった。
六 白い煙
転生者が来たのは、初雪の前だった。
朝の水平線に、白い煙が一筋立った。
煙の下に船がいた。帆がなかった。帆柱もなかった。鉄を張った灰色の船体が、向かい風の中を、風より速く来た。
「何だ、ありゃあ!」
「風は向こうから吹いてんだぞ!」
「帆もねえのに、なんでこっちより速えんだ!」
煙の船の舳先が光った。音が届く前に、いちばん外にいた一隻が、真ん中から二つに折れた。
二発目で、もう一隻が消えた。
船団は崩れた。めいめい帆を回して逃げにかかった。
女は旗艦の先に立って、白い煙を見ていた。
「……来た」
「奥方?」
「来ました」
声が弾んでいた。待ち人が角を曲がってくるのを見た娘の声だった。
「ようやく」
船長が怒鳴った。
「取舵! 逃げるぞ!」
女は白い煙を指した。
「進みなさい」
「は?」
「あの、白い煙を出している船です。まっすぐ」
「正気か! あんなもんと戦えるか!」
「いちばん近い道で」
「俺は降りる! 付き合いきれ――」
女は船長の喉を掻き切った。
船長は舵輪にすがって、ずるずると崩れた。甲板が静まった。
「ほかに、降りたい方は」
誰も答えなかった。
「では。赤い帆を、残らず上げなさい」
十隻が北へ逃げ、一隻だけが南へ舳先を向けた。
*
鉄の船の艦橋で、転生者は遠眼鏡を覗いていた。
二十七になっていた。戦は終わったはずだった。
赤い帆の船は、もう形をなしていなかった。前の帆柱が折れ、舷側に大穴が開き、火が出ていた。それでも来た。
「装填よし! 次で沈められます!」
転生者は遠眼鏡を下ろさなかった。
甲板が見えた。黒い胸甲の女がいた。そのまわりに、綱を引いている者がいた。火に水をかけている者がいた。腹を押さえて転がっている者がいた。髭もない顔が、いくつもあった。
「撃つな」
「しかし、このままでは横づけされます!」
「分かってる」
「では!」
「撃てば、あの船に乗る人達が全員死ぬ」
砲は黙った。
赤い帆の船の上で、女がそれに気づいた。砲口がこちらを向いたまま、火を噴かない。
口の端が吊り上がった。
「……やっぱり。お優しい方」
七 接舷
黒い船は、鉄の横腹に舳先から突っ込んだ。
鉤縄が飛んだ。板が渡された。後ろでは甲板が燃えていた。
「奥方! 渡ったって皆殺しですぜ!」
「そうね」
女は剣を抜いた。
「死ぬ前に、いっぱい、いっぱい殺しなさい」
最初に板を渡ったのは女だった。
鉄の船には、新式の銃を持った兵が二百いた。海賊は剣と、込めるのに手間のかかる古い銃だった。勝負にならなかった。板を渡りきれたのは半分で、渡った者も十歩と進まないうちに倒れた。
女は進んだ。腿を撃たれ、肩を撃たれ、それでも進んだ。ほかの誰にも目をくれなかった。初めから、一人しか見ていなかった。
艦橋の下に、その男はいた。
黒い髪だった。思っていたより疲れた顔をしていた。
「もうやめてくれ!」
女は止まらなかった。
「そっちの船は沈む! あんたも怪我をしてる!」
止まらなかった。
「あんたの夫が死んだのは、あの人自身の罪だ!」
女は足を止めた。
「存じております」
「……え?」
「存じておりますとも」
息は荒かったが、声は客間にいるときと変わらなかった。
「村を焼かせたことも。奪わせたことも。吊るさせたことも。裁判が正しかったことも。あなた様のおかげで、この国が本当に良くなったことも」
血が顎から滴っていた。
「兵隊が麦を奪わなくなりました。子供が学校へ行くようになりました。戦も、きっともう起きないのでしょう」
「なら、やめてくれ!」
女は首を傾げた。
「あなたは、何のために戦っていらっしゃるの」
転生者は答えられなかった。
「世界? 平和? 民?」
女は微笑んだ。
「結構ですわね。素晴らしいこと。お美しいわ」
皮肉ではなかった。
「私、本当に、あなた様を凄い方だと思っておりますのよ」
一つ、息をした。
「でも」
笑みが消えた。
「私は、あなたを殺します」
「な……なぜ」
女の顔から、表情が全部落ちた。
「……それを、言わせるのですか。あなたは」
転生者の顔が強張った。
世界でも、国でも、帝国でもなかった。男が一人だった。村を焼いた男だった。それだけのことが、ようやく分かった顔だった。
女は剣を上げた。
「もしあなたが、ほんの少しでも、私に許されたいとお思いなら」
口の端が吊り上がった。
「素直にその細首を掻っ切らせろ、転生者」
八 指輪
女が踏み出した。
命じた者はいなかった。兵たちが勝手に撃った。
女の体が跳ねた。それでも一歩出た。
また撃った。胸甲に穴が開いた。
もう一歩。
また撃った。
剣が手から落ちて、鉄の甲板で鳴った。
女の目は、初めて転生者から外れた。下を向いた。両手が胸もとを探って、銀の鎖を掴んだ。指輪を、両方の掌で包んだ。
「ああ……」
小さな声だった。
「ごめんなさい、あなた……」
体が傾いた。舷の手すりを越えた。
水音は一度きりだった。胸甲は重かった。黒い影がまっすぐ沈んでいき、泡がいくつか上がって、それもやんだ。
*
鉄の船は、燃える船から離れた。機関が唸り、白い煙が太くなった。
黒い船は沈みはじめていた。火は綱を伝って、残った帆柱を昇った。
赤い帆に火が移った。
帆は少しのあいだ、もとの色より鮮やかに燃えた。それから崩れて、舳先が高く持ち上がり、船ごと海に入っていった。
転生者は舷側に立って、それを見ていた。
何も言わなかった。弔えとも、名を記せとも、言わなかった。女は三百人を殺したのだ。
北海の航路は、春には元に戻る。パンの値も下がる。国はもっと良くなる。それは、もう決まっていた。
転生者の手が、いつのまにか自分の首に当たっていた。女が剣を向けていたところだった。
傷はなかった。
赤い帆の最後の切れ端が沈むまで、彼はそうして立っていた。




