魔国のいちばん長い日
一 正午
先王が死んで六日になる。
魔王城は落ちた。先王は城と一緒に死んだ。王冠は首都に送り返され、十九の娘の頭に載った。少し大きくて、内側に布を詰めてあった。
国の名は、正しくは魔導王国という。角のある異形の民が、魔導の技で千年治めてきた国である。人間は縮めて魔国と呼び、その王を魔王と呼んだ。呼ばれるほうも、いつのまにか自分でそう名乗るようになっていた。
御前会議は朝から続いていた。
「魔族の誇りをお忘れか!」
「王都で決戦を! 千年、人間に踏ませたことのない都ですぞ!」
「先王陛下なら、最後の一兵まで戦われた!」
怒鳴っているのは、角の白くなった将軍たちだった。卓の反対側で、外務の役人たちは黙って書類を揃えていた。勝てないことは全員が知っていた。和平と口に出した者が明日から売国奴と呼ばれることも、全員が知っていた。隅の席では外務の次官が、朝から水差しの中身を飲んでいた。水ではなく強い酒であるが。
女王も黙っていた。
父なら迷わなかった。父なら、何と言っただろう。そればかり考えていた。
正午、窓の硝子が全部鳴った。
音は東から来た。腹に響く、長い音だった。会議室の者は皆、東の窓に寄った。地平の上に、土色の雲が立っていた。
半刻して、伝令が転がり込んだ。
「ダキアが、消えました」
首都から東へ四里の、人口三万の町である。
「消えた、とは」
「ありません。町のあった所が、擂鉢になっております」
老将が卓を叩いた。
「三万を殺したか! あの人間め――」
「いえ」
伝令は息を継いだ。
「死者はおりません。昨夜のうちに転生者の軍が入って、住民を一人残らず西の丘へ移しておりました。病人は担架で。家畜まで」
会議室が静かになった。
誰も、どういう顔をすればいいのか分からなかった。虐殺ではなかった。だから余計にはっきりしていた。殺したくはない。だが、いつでもこの都ごと消せる。そう言われたのだった。
女王はしばらく東の雲を見ていた。それから、後ろに控えていた侍従を呼んだ。声が少し裏返った。
「転生者について、調べなさい。噂ではなく、事実を。全部です」
二 午後
女王は小さな執務室に移って、来る者に一人ずつ訊いた。
降伏した町はどうなったか。略奪はあったか。捕虜はどう扱われたか。怪我人は。蔵は。神殿は。約束を破ったことはあるか。
答えは、腹が立つほど良いものばかりだった。
略奪はない。した兵は、人間の軍の中で罰せられている。魔族の怪我人も、人間の軍医が診ている。降伏した兵は殺されていない。役所は役人ごと残され、帳簿もそのまま使われている。占領された西の三州では、この春、穀物の穫れ高が上がった。
「誰の証言です」
「帰された我が軍の捕虜です。四百人ほどに訊きました」
「人間に言わされているのでは」
「そう疑って、別々に訊きました。飯の献立まで合っております」
女王は黙った。
もう一つ訊いた。
「あの男が、約束を破ったことは」
答えた書記は、帳面を三度めくった。
「……一度も、見当たりません」
女王は椅子の背にもたれた。窓の外では、まだ東の雲が消えていなかった。
山を割る。町を消す。そのくせ病人を担架で運び、家畜まで逃がす。自分で決めた決まりを、誰も見ていないところでも守っている。
「……変な人」
それが、女王が敵について初めて口にした感想だった。
三 夜
大人たちは夜まで議論した。
戦える。しかし勝てない。籠もれる。しかし都には民が四十万いる。
若い参謀が言った。
「転生者は民を殺しません。ならば、民のいる街区に陣を敷けば――」
外務の次官が、初めて水差しを置いた。
「てめえ、今なんつった」
掴み合いになった。引き離すのに将軍が三人要った。
それでも誰も、降伏するとは言わなかった。言えば、その者の名で国が終わる。日が落ち、燭台が二度替えられ、声が枯れ、やがて誰も喋らなくなった。
軍務と、内務と、外務の長が、三人揃って執務室の戸を叩いた。皆、女王の父より年上だった。
「……陛下」
「はい」
「どう、いたしましょう」
女王は三人の顔を見た。三十年、四十年、国を回してきた大人たちだった。その大人たちが、最後の一つだけを、十九の娘の前に置いた。
怖かった。膝の上の手が冷たかった。
「人間は、信用できますか」
外務卿が答えた。
「できませんな」
「私もそう思います」
女王は、卓の上の紙の束に手を置いた。午後いっぱいかけて集めた証言だった。
「ですが、転生者は信用できそうです」
三人が顔を上げた。
「利用できます」
*
会議室に戻って、女王は立ったまま話した。座ると声が出ない気がした。
「捕虜を殺さない。降伏した町を焼かない。約束を守る。民を守ることを、自分の正義だと思っている。ならば」
息を吸った。
「その正義に、魔国を守らせます」
老将が立ち上がった。先王の右腕だった男である。
「転生者の慈悲に縋るおつもりか!」
女王の肩がびくりと跳ねた。子供の頃から、この声で叱られてきた。
「……はい。縋ります」
「陛下!」
「使えるものは、何でも使います」
「先王陛下なら決して――」
「父上ならどうなさったかは、知りません」
声が震えた。それでも言った。
「今の魔王は、私です」
誰も何も言わなかった。
降伏が決まった。
四 夜半
外務の次官は、水差しを窓から捨てた。
それから別人になった。
書記を八人叩き起こし、机を四つ並べ、紙を山ほど運ばせた。停戦の刻限。武装解除の手順。王家の処遇。魔族の法の上の身分。捕虜の交換。蔵と土地。神殿。駐留する軍の数と場所。役所を誰が回すか。一条ずつ書き、人間の陣へ使者を走らせ、返事が来ると書き直し、また走らせた。
軍務の将官が、肩越しに草案を覗いた。
「これでは無条件降伏も同然ではないか!」
次官は筆も止めなかった。
「黙れ、素人が!!」
「な――」
「お前らの戦は終わったんだよ! 負けたんだ! ここからは外務の戦だ、邪魔すんな!」
将官は口を開けたまま下がった。
返事は、驚くほど早く来た。魔導王国は廃する。王権も、軍も、国境もなくなる。そこは一字も動かなかった。女王は、それを呑んだ。ほかは、驚くほど素直に通った。民の命と財産。都。神殿。魔族は魔族の法で裁くこと。役所は役人ごと残すこと。王家の者に手を出さないこと。
次官は返書を灯りにかざして、長いこと睨んでいた。裏を探していた。なかった。
「……本当に、滅ぼす気がねえんだな」
舌打ちをして、次の条文に取りかかった。
五 未明
夜明け前、老将が一人で女王の部屋に来た。
鎧を着て大剣を携えていた。
「まだ戦えます」
女王は答えなかった。
「王都なら三日は持たせます。この老骨が」
「三日持たせて、それで?」
「先王陛下なら――」
「父上は死にました」
言ってから、女王は自分で息を詰めた。言った本人が、いちばん深く切られた顔をしていた。
「……私だって、怖いです」
老将は黙っていた。
「明日、皆に何と言われるか、分かっています。父上を裏切ったと言われます。きっと、ずっと言われます」
目の縁が赤かった。泣いてはいなかった。
「でも私は、この国を見捨てたくありません」
老将の顔が崩れた。鎧の肩が落ちた。
「……国の話を、しておるのではありません」
声が掠れていた。
「降伏した王がどう扱われるか、古今、ろくな例がございません。あなた様の御身がどうなるのか、分かりません。首を刎ねられるやも知れぬ。見世物にされるやも知れぬ」
「書類には、王家の者に手は出さないとあります」
「人間の紙です!」
皺の深い頬を、涙が伝っていた。この男が泣くのを、女王は初めて見た。先王の訃報が届いた日にも、泣かなかった男だった。
「ですから、せめてお逃げください。三日あれば、北の山を越えられます。その三日は、この爺が持たせます」
三日というのは、そのための三日だった。
女王は長いこと、老将の顔を見ていた。
「……逃げません」
「陛下」
「私が逃げたら、次官が夜通し書いた書類が、ただの紙になります。あれは、魔王が膝をつくという約束で呑ませたものです」
少しだけ、笑おうとした。うまくいかなかった。
「それに、あの人は約束を破りません。私には、分かるのです」
老将は長いこと立っていた。納得した顔ではなかった。最後まで、納得しなかった。
それから、鎧を鳴らして膝をついた。
得心がいったからではなかった。目の前の娘が、今の魔王だったからである。
六 朝
魔国の都の大通りは、幅が四十間ある。凱旋の軍が通り、祭りの山車が通り、千年のあいだ、人間が靴で踏んだことはなかった。
その朝、両側に人間の兵が並んでいた。槍を立て、誰も口をきかなかった。
通りの真ん中を、女王が歩いた。
馬車には乗らなかった。馬にも乗らなかった。供は三人だった。老将と、侍従と、目の下を真っ黒にした外務の次官である。
兵の列の後ろに、都の者が詰めかけていた。
「なぜ降伏した!」
「先王は最後まで戦われたぞ!」
「親不孝者!」
「恥さらし!」
「人間なんぞ信用できるか!」
「転生者に腰でも振ってろ!」
泥が飛んだ。腐った果物が飛んだ。石が飛んで、女王の頬が切れた。
老将が前へ出ようとした。
「よい」
女王は歩いた。
言い返さなかった。あの者たちの父や兄や息子が、この二年でどれだけ死んだかを知っていた。憎まれる筋はあった。
血が顎まで垂れた。拭かなかった。王冠がずれた。直した。
大通りは長かった。
七 膝
通りの突き当たり、王宮の階の前に、アレンが立っていた。
鎧は着けていない。女王の頬の傷を見て、眉を曇らせた。
「この決断で、多くの命が救われます」
本心だった。
「平和のため、御立派です」
女王は返事をしなかった。褒められに来たのではなかった。
一度だけ、後ろを振り返った。
通りを埋めた顔が見えた。憎んでいる顔があった。怒っている顔があった。泣いている顔があった。その中にいくらか、ほっとしている顔があった。
女王は目を閉じた。
膝をついた。
「魔導王国女王は、転生者とその軍に降伏する」
千年で初めて、魔王が人間の前に膝をついた。
通りが静まった。罵る声もやんだ。
女王が顔を上げた。
涙が流れていた。けれど、辛そうではなかった。妙に、晴れ晴れしていた。
「……そうとも!」
えっ、とアレンが瞬きをした。
「我々高貴なる魔族が、貴様ら愚劣極まりない人間どもの戦に、これ以上付き合ってやる必要などない!」
人間の兵の列がざわついた。後ろで外務次官が、顔を手で覆った。
「よって、これより千年の平和を貴様らに約束してやる! 感謝するがよい、人間ども!」
膝をついたまま、女王は世界でいちばん強い男を、まっすぐ見上げていた。
「我々は、これから先も、我々であり続ける。忘れるなよ、転生者」
口の端が上がった。
言ってやった、と思った。ちゃんと魔王らしく、言ってやった。
怖かった。悔しかった。国は負けた。父のようには、とうとうなれなかった。
魔国は滅んだ。魔族は、残った。
だから、もう一つだけ言った。
「これで勝ったと思うなよ!」
「…………え?」
女王は立ち上がった。片手を口もとに当て、胸を張った。頬に血と涙をつけたまま、心の底から気持ちよさそうに笑った。
「あはははははははははは!!」
負けた国の大通りに、若い魔王の笑い声が、端から端まで響いていた。




