財産
一 旦那様
綿は、今年は小さかった。
農園主は畝のあいだを歩いていた。四十八になる。この土地は祖父が拓き、父が広げ、彼が継いだ。土地と一緒に、人間も継いだ。二十三人いる。帳簿では、家畜の次の頁に載っている。
彼はそのことを疑ったことがなかった。持っている者は、面倒を見る。面倒を見られる者は、働く。そういうものだと思っていた。
「旦那様、今年は綿が小さいですよ」
「俺に言うな。雨に言え」
「旦那様なら雨くらい何とかしてくださいよ」
「俺を何だと思ってやがる」
畝の向こうで何人かが笑った。
腰を曲げて摘んでいる老婆がいた。農園主は足を止めた。
「お前はもう畑に出るな。選別だけやれ」
「まだ摘めますよ」
「摘めるかどうかは聞いてねえ」
老婆は籠を置いた。
子供が二人、荷車の陰で石を並べて遊んでいた。農園主が怒鳴ると、二人は籠を抱えて走っていった。
日が傾いた。
「明日は東の畑だ」
「へい、旦那様」
誰も何も聞き返さなかった。聞き返すという習いが、この畑にはなかった。
屋敷の前に、馬が一頭つながれていた。灰色の上着の役人が、玄関の段に立っていた。
二 解放
役人は若かった。書類を卓に置き、読み上げた。
人間の売買と所有を、全面的に禁じる。奴隷とされている者はすべて、本日をもって自由民とする。
「……全員か」
「全員です」
「子供も」
「当然です」
「そうか」
農園主は書類に署名した。役人は少し意外そうな顔をした。怒鳴られるつもりで来たらしかった。
「転生者ってのは、どんな男だ」
「正しい方です」
「だろうな」
夕方、農園主は全員を納屋の前に集めた。
「転生者の命令で、お前らを解放することになった」
「……解放?」
「今日から俺の奴隷じゃない。好きに生きろ」
歓声は起きなかった。二十三人は顔を見合わせた。風が綿の枯れ枝を鳴らした。
しばらくして、いちばん年かさの男が口を開いた。
「……それで、明日からどうすればいいんですか」
「好きにすればいい」
「ですから、何を」
「……何がしたい」
「何が、と言われても」
男は困った顔をした。そんなことを聞かれたのは、生まれて初めてだった。農園主のほうも、聞いたのは初めてだった。
後ろのほうで、誰かが言った。
「明日も東の畑じゃ駄目ですか」
「お前、もう俺の奴隷じゃねえぞ」
「はい」
「俺の命令を聞く必要もない」
「はい」
「……じゃあ何で俺に聞くんだよ」
答えはなかった。
農園主は頭を掻いた。
「働きたい奴は働け。今度から給金を払う。いくら払えばいいのかは、俺も知らん。調べておく」
翌朝、東の畑に、二十三人が全員いた。
三 自由民
暮らしはほとんど変わらなかった。同じ畑で、同じ小屋で、同じ鍋だった。月の終わりに銅貨が配られるようになった。それと、出ていこうと思えば出ていけるようになった。誰も出ていかなかった。
農園主のほうが落ち着かなかった。
「町ならもっと稼げるぞ」
「へえ」
「職業学校ってのもできるらしい。読み書きと、算盤と、機械の扱いを教えるそうだ」
「へえ」
「行かねえのか」
「旦那様んとこでいいです」
「……そうかよ」
冬の前に、門のところに知らない顔が五人立っていた。
「仕事をください」
「誰だお前ら」
「奴隷でした。川向こうの農園の」
「元、だろ」
「ここなら飯も家もあると聞いて」
「給金は安いぞ」
「構いません」
「仕事はきついぞ」
「綿ならできます」
「もっといいところを探せ」
「ここがいいです」
農園主は門柱に手をついて、しばらく黙っていた。それから納屋の二階を空けさせた。
あそこの旦那様はいい人だ、という噂が、川沿いに広がっていた。二十三人が四十人になり、春には六十人を超えた。
四 帳簿
夜、農園主は帳簿を睨んでいた。食費、小屋の修繕、給金、農具、医者。どの行も去年の倍を超えている。今月はまた七人増えた。
「……また増えてるじゃねえか」
「はい」
答えたのは執事だった。七十に近い。父の代からこの屋敷にいる。去年までは、帳簿の同じ頁に名前があった。
「奴隷をなくしたはずなのに、なんで俺んとこの人数は増えてんだよ」
「旦那様。あまりお悩みにならなくても」
「悩むだろ。俺だって、これは絶対どっかおかしいと思ってんだぞ」
執事はランプの芯を少し上げた。
「皆、自分の意思でここにいるのです」
「……」
「転生者様は、自由を大切になさるのでしょう」
「そうだな」
「一人ひとりの意思と選択を尊ぶ、と」
「ああ」
「ならば、何の問題もないはずです」
農園主はしばらく考えた。
「……そうか?」
「はい」
「……そうだよな」
ほんの少し、肩が下がった。
扉が開いた。執事の孫娘だった。腹が大きい。
「お前、歩き回るな。もうすぐだろ」
「大丈夫ですよ、旦那様」
娘は卓の前まで来た。
「お願いがあるんです。この子の名前を、旦那様につけていただきたくて」
農園主の手が止まった。
この家では代々、奴隷の子の名は主人がつけてきた。
「……俺が?」
「はい。ずっとそうだったでしょう」
執事が穏やかに言い添えた。
「私の名も、父の名も、大旦那様から頂きました」
農園主は娘の腹を見た。この子は、一度も誰の持ち物にもならずに生まれてくる。
「いや、それは……」
「お嫌ですか」
娘の顔が曇った。農園主は負けた。
「……考えておく」
娘は腹を撫でた。
「みんなで暮らしましょうね。良い旦那様の下で、ずっと、みんな幸せに」
農園主は笑えなかった。
「……そうか」
二人が出ていったあと、彼は帳簿を閉じた。寝台に入っても眠れなかった。
五 召喚状
三日後、役人が来た。前とは別の男で、警察官を二人連れていた。
召喚状だった。罪名に、奴隷という字はなかった。
解放のあとに作られた法律があった。元の主人が元の奴隷を雇うときは、契約書を交わして役所に届けること。給金を食事と寝床で払って、定められた額を割ってはならないこと。住まいを理由に、辞める者を引き留めてはならないこと。よその土地から来た元奴隷を、届けなしに大勢雇ってはならないこと。そして、かつての身分の上下を、形を変えて続けてはならないこと。
農園主は一つずつ聞いた。ほとんど全部、破っていた。
破ろうとしたわけではなかった。昔の暮らしを、そのまま続けただけである。
役人は屋敷のまわりを見て歩いた。六十人が主人の土地に住み、主人の指図で働き、主人を旦那様と呼んでいた。生まれてくる子の名まで、主人がつけることになっていた。役人は手帳に書いた。どこから見ても、それは奴隷制の続きだった。
農園主は召喚状を畳んだ。
「……やっぱり問題だったじゃねえか」
執事は少し困った顔をしたが、何も言わなかった。
六 法廷
州都の法廷は新しい建物だった。壁が白く、窓が大きかった。
検事は若い女だった。声を荒らげない。
「彼らには、ほかの仕事を選ぶ権利があります」
「知ってる」
「職業学校があります」
「知ってる」
「あなたの倍の給金を出す農園もあります」
「知ってる」
「では、なぜあなたの土地に留めているのですか」
「留めてねえよ」
農園主の声が大きくなった。
「仕事が欲しいと言うから仕事をやった。腹が減ったと言うから飯を出した。寝るところがねえと言うから、今までの小屋を使わせた。あいつらがここがいいと言うから、ここにいるだけだ」
検事は書類を一枚めくった。
「長く奴隷であった者は、ほかの生き方を選べなくなっていることがあります。選ぶということを、一度もしたことがないからです」
農園主は詰まった。納屋の前で顔を見合わせていた二十三人を思い出した。
「……だったら」
しばらくして、彼は言った。
「いつになったら、あいつらの選んだことは、あいつらの意思だと認められるんだ」
「……」
「あんたらの気に入る答えを選んだ時か」
検事は答えなかった。
証人が呼ばれた。年かさの男が証言台に立った。
「俺がここを選びました」
「被告に、残れと言われましたか」
「言われてません。町へ行けと、何べんも言われました」
「では、なぜ」
「ここがいいんです」
傍聴席で誰かが言った。
「それが奴隷根性というんだ」
男は振り向いた。
「俺たちの自由を認めろと言ったのは、あんたらだろう」
裁判長が木槌を叩いた。
七 財産
審理は四日続いた。検事は同じことを、言い方を変えて繰り返した。
「彼らはあなたのものではない」
検事の言ったことは正論だった。
しかし四日目の午後、農園主は立ち上がった。
「俺の財産だ!」
法廷が静まった。
検事は、初めてはっきりと彼を見た。
「人間は、財産ではありません」
そのとおりだった。農園主にも、それは分かった。言い返す言葉は一つもなかった。
彼は自分の手を見た。土地も、屋敷も、庭の樫も、馬も、父から受け継いだ。失ってはならないものだと教えられた。あの執事も、その孫娘も、まだ名前のない子供も、同じところに入っていた。そこに入れておく言葉を、彼はほかに一つも持っていなかった。
家族ではない。友人でもない。雇い人と呼ぶには、長すぎた。
「……じゃあ、何て呼べばいいんだよ」
誰も答えなかった。書記の筆の音だけがしていた。
八 判決
有罪だった。
罪は奴隷の所有ではなかった。届けのない雇用、定めを下回る給金、身分による支配の継続。懲役三年である。
判決文は長くなかった。筋は通っていた。農園主は最後まで聞いた。
「……まあ、そうなるよな」
弁護人が上訴を勧めた。彼は首を振った。
身辺の整理に十日が与えられた。彼は農園に帰り、帳簿を執事に渡し、給金の額を法律どおりに書き直した。その額で払えるのは、六十人のうち二十人ほどだった。そのことも帳簿に書いた。
九 道
十日目の朝、警察官が六人、馬車で来た。
農園の道が塞がっていた。六十人が、鍬と鎌と棒を持って立っていた。
農園主は玄関で青くなった。
「お前ら、何してる!」
「旦那様を連れていかせません」
警察官のリーダーが前に出た。
「どきなさい。あなた方はもう奴隷ではない。この男の命令を聞く必要はないんだ」
「だから聞いてねえんだよ!」
リーダーの足が止まった。
「俺たちが、自分でやってんだ」
農園主は道へ下りた。
「馬鹿野郎、どけ!」
「嫌です」
「俺の命令だ!」
「もう旦那様の奴隷じゃありませんから、その命令は聞きません」
農園主は口を開けたまま、何も言えなかった。
昼過ぎに、馬が一頭、道を上ってきた。護衛はいなかった。乗っている男を見て、警察官たちが姿勢を正した。
アレンだった。
彼は馬を下り、六十人の前まで歩いた。鍬の先が届くところで止まった。怒ってはいなかった。
「君たちを自由にしたのは、俺だ」
「そうだよ」
年かさの男が言った。
「だから、自由にさせろよ」
アレンは男を見た。それから、後ろの六十人を端から端まで見た。口が一度開いて、閉じた。
世界でいちばん強い男が、綿畑の道で、返事を探していた。
十 我が主
「もういい」
農園主が言った。彼は六十人のあいだを抜けて、アレンの前に出た。
「こいつらには手を出すな。俺が行く」
「……分かった」
アレンは言った。約束する、とも言った。
背中で声が上がった。
「旦那様!」
「行かないでください」
「俺たちは、どうすればいいんです」
誰かが膝をついた。
「我が主様。見捨てないでください」
農園主は立ち止まった。
去年までなら、決めてやれた。売ることも、よそへやることも、どこへでも行けと怒鳴って追い出すこともできた。それで彼らの明日は決まった。
今は、できない。彼らは自分で選んで、ここにいる。選んだものを取り上げる力は、もう彼にはなかった。持ってはならない力だということも、分かっていた。
孫娘が人垣の前に出てきた。腹を抱えている。
「旦那様。名前を」
農園主は長いこと、その腹を見ていた。
「お前がつけろ」
「でも」
「お前の子だ」
娘はわっと声をあげて泣いた。
執事が、優しく抱きよせた。
彼は馬車のほうへ歩き出した。振り返らなかった。
歩きながら、口の中で言った。
「……お前の主は、お前自身だ」
誰にも聞こえなかった。後ろではまだ、旦那様、と呼ぶ声が続いていた。
馬車の扉が閉まった。




