最後の反逆者
一 写真
大陸は豊かになった。
戦が終わって数年になる。道は石で固められ、川には橋が掛かり、どの町にも学校と診療所があった。麦粥で腹を満たしていた者が、白いパンを食べている。市場では人間と魔族が隣り合って店を出し、値切り合い、たまに殴り合い、警察官に引き離されている。
悪いことがなくなったわけではなかった。流行り病は毎年どこかで出た。盗人はいた。袖の下を取る役人もいた。穀物を買い占めて値を吊り上げる商人がいて、角のあるなしで喧嘩をする酔っ払いがいた。
それでも、アレンが来る前と比べれば、比べものにならなかった。それは誰もが認めていた。
秋の初め、北から早馬が着いた。
「見たことのない軍勢が現れました」
写真が卓に並べられた。写真機は、アレンが何年か前に作らせたものだった。
居並ぶ者たちは首をひねった。鉄の箱に長い筒がついて、車輪のかわりに帯を履いている。翼のある鉄の鳥が、地面に列をなしている。兵は見慣れない短い銃を提げている。
アレンだけが、黙っていた。
「知ってるのか」と古い仲間が訊いた。
「……これは戦車だ。こっちは戦闘機」
「センシャ」
「俺のいた世界の武器だよ。俺には作れなかったやつだ」
仲間は最後の一枚を指した。空に、羽虫の群れのようなものが写っていた。一つ一つに小さな翼があった。
「じゃあ、これは」
アレンは写真を取り上げて、長いこと見た。
「……俺も知らない」
二 北
アレンは古い仲間たちと、兵を二千だけ連れて北へ行った。
北の辺境の野に、灰色の天幕の町ができていた。鉄の箱が何百も並び、羽虫の群れが空を巡っていた。アレンが近づくと、群れは道を空けた。
天幕の前に、若い男が立っていた。
二十歳そこそこだった。穏やかな顔で、丁寧にお辞儀をした。
「あなたがアレンさんですか。ずっとお会いしたかった」
嘘のない目だった。
「この世界をここまで変えたのは、本当にすごいことだと思います。道も、学校も、魔族との和平も。僕一人では、同じ年数でここまでは来られなかった」
アレンは茶を出された。旨い茶だった。
若者は、訊かれたことに何でも答えた。隠す様子がなかった。
自分は、この大陸を一度に消すことができる。しない。するつもりもない。
死んだ者でも、体がある程度残っていれば生き返らせることができる。
連れてきた医師たちは、こちらで死病と呼ばれている病のほとんどを治せる。
畑のこと、荷の運び方、遠くと話す仕組み、役所の回し方。若者は一つずつ話した。アレンは一つずつ聞いた。どれも、アレンが十七年かけてやってきたことの、その先だった。いつか作ろうとして、作り方が分からなかったものだった。
「世界はまだ、完全には平和ではありません」
若者は言った。責める口調ではなかった。
「病気で死ぬ人がいます。犯罪もある。種族どうしの諍いもある。飢える人だって、まだいます」
アレンは否定できなかった。先月の報告書に、同じことが書いてあった。
「だから、世界をもっと良くするために。合理的に、最適にするために」
若者はまっすぐアレンを見た。
「僕の言うことを、聞いてください」
アレンは、その言葉を知っていた。
十七年、自分が言ってきた言葉だった。砦の前で。土手の上で。丘の上で。鉄の船の甲板で。
若者は正しかった。筋が通っていた。そしてアレンより強く、アレンより多くを知り、たぶんアレンより優しかった。
アレンは茶の礼を言って、一戦も交えずに都へ帰った。
三 夜
都に戻って、アレンは訊いて回った。
将軍に訊いた。勝てません、と将軍は言った。あの鉄の鳥一羽で、我が軍の一個師団が半日で消えます。
医師に訊いた。老いた医師長は、若者の連れてきた医師団の仕事を見てきていた。泣いていた。あれがあれば、去年の熱病で子供は一人も死なずに済みました。
学者に訊いた。役人に勘定させた。
答えは全部同じだった。戦えば負ける。従えば、今より多くの命が助かる。
アレンは自分でも勘定した。三度やって、三度同じになった。
従うべきだった。
分かっていた。自分がそう言ってきたのだ。古い軍学に。貴族の家柄に。千年続いた都に。もっと良いやり方があるなら変えろ。面子より人の命だ。筋道を立てて考えろ。
夜、寝台に横になった。
眠れなかった。
起きて水を飲んだ。また横になった。天井を見た。
窓の外に、都の灯があった。自分が引かせた街灯だった。朝になればパン屋が窯に火を入れる。市場が開く。子供が石板を抱えて学校へ走る。
あの若者に渡せば、たぶんもっと良くなる。
なぜだ、とアレンは思った。
あいつの言うことは正しい。俺なら、そう言う。
いや。
俺は、そう言ってきた。
それなのに、腹の底がざわついて収まらなかった。
この世界に来て初めて、アレンは朝まで眠れなかった。
四 会議
朝の御前会議で、アレンは言った。
「従おう」
誰も反対しなかった。いつものことだった。アレンの決めたことは、十七年、いつも正しかった。書記が筆を取った。
妃だけが訊いた。
「あなたは、どうするの」
アレンは口を開けて、止まった。
厚く遇されるだろう。地位も、屋敷も、そのままだろう。世の中が良くなれば、暮らしは今より楽になるかもしれない。全部分かっていた。
「……分からない」
「どうしたいの」
「……どうしたいんだろう」
妃が笑った。
「初めてね」
「え?」
「あなたがそんなに悩んでるの、初めて見た」
「俺も」と古い仲間が言った。
「私も」と誰かが言った。
卓のまわりに笑いが起きた。
古い仲間が、椅子の背にもたれた。十七年前、最初にアレンの荷物を持った男だった。
「お前の好きにすりゃいいじゃん」
「好きにって……」
「俺はやるぜ?」
「……何を」
「お前がやりたいことをだよ」
「私もやる!」
「俺も!」
「私も!」
アレンは困った顔で、卓を見回した。こういうときにどうすればいいのか、誰にも教わっていなかった。
内務の長だけが、手を挙げなかった。白髪の、実直な男だった。
「私は残ります。明日も役所は開けねばなりませんので」
「……うん。頼む」
「は」
妃は泣いていた。泣きながら笑っていた。
「ねえ。気にしなくていいから」
アレンは答えられなかった。
「私、あなたがそうやって苦しんでるの、見たくない。だから、いつもみたいに言ってよ。やろうって。誰も逃げないから」
アレンは頭を掻きむしった。
「……ああもう!!」
立ち上がった。椅子が倒れた。
「俺はさあ!! みんながもっと良くなるようにって、ずっと頑張ってきたんだよ! 良くなったよ! でも、まだ足りないのも分かってる! あいつが正しいのも分かってる! あいつに任せたほうが、きっとうまく行くのも!!」
息が切れた。
「でも……!」
皆が待った。
「あいつの顔が、いけ好かないんだよ!!」
静かになった。
それから、会議室が割れるほど笑った。将軍が卓を叩いていた。書記が筆を落とした。内務の長まで、口もとを押さえていた。
世界の行く末を賭ける理由が、それだった。
アレンも、しまいには笑った。
「……じゃあ」
目尻を拭いた。
「喧嘩、売りに行くか」
五 布告
その前に、アレンは外務の役人を呼んで、布告を書かせた。
一 国は、北の転生者にこれを譲る。
一 役所も軍も、以後は新しい政府の指図に従う。
一 民は一切、抗ってはならない。
「ここまでは結構ですが」と役人は言った。
「続きがある」
一 アレン及びこれに同心する者は、この限りでない。
一 右の者どもは国を代表しない。国の軍でもない。反逆者である。
「……ご自分で、反逆者とお書きになる」
「事実だろ」
一 何人も、右の者どもの行く手を妨げてはならない。
「妨げた場合は」
「俺が山ごと吹き飛ばす、と書け」
役人は額を押さえた。
「これ、本当に公文書に書くんですか」
「書け」
役人は書いた。字は立派だった。
山を割る力は、最後まで衰えていなかった。その最後の使い道は、国を取ることでも守ることでもなかった。喧嘩を売りに行く道を、空けさせることだった。
六 百人足らず
出立の朝は晴れた。
かつて何十万を動かして大陸を一つにした男の横に、その朝いたのは、古い仲間たちと、勝手についてきた者たちだけだった。数えると九十三人いた。百人に少し足りなかった。
誰も命じられていなかった。誰も、勝てるとは思っていなかった。
沿道には人が出ていた。手を振る者がいた。首を振る者がいた。パン屋は店を開けていた。子供は学校へ走っていった。国はもう降伏していて、行列に加わる義理は誰にもなかった。それでよかった。
都の門を出て、北への街道を歩いた。
「世界最強に殴り込む反逆者の集団か」と誰かが言った。
「怖い?」と妃が訊いた。
「怖いね」とアレンは言った。
「勝てると思う?」
「勝てないだろうなあ」
「勝てないなら、戦わない?」
アレンは少し黙った。
歩きながら、北の空を見た。
「……いや」
口の端が上がった。
「あいつを一発、ぶん殴りたい」
笑い声が上がった。
「いいじゃない、それ」
「じゃあ俺は蹴りを入れるわ」
「私は股を蹴り上げてやる」
「うわあ、痛え!」
「ひでえ!」
笑いながら歩いた。声が、だんだん増えた。
「……そうだな」
「そうだね」
「うん」
「やってやろう」
「やろう」
「見せてやろうぜ」
三日歩いた。四日目の朝、野の向こうに灰色の天幕が見えた。空に羽虫の群れが浮いていた。その下に、若い男が一人、困った顔で立っていた。
アレンは、その顔を知っていた。昔、自分がしていた顔だった。
笑った。
「よーし!!」
振り返った。九十三人が、もう走る構えをしていた。
「みんな行こう! あいつを泣かせに!!」
「「「おおおおおおお!!」」」
*
そして世界は平和になった。




