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不敗の聖女~後編~

後編 不敗の聖女が歩いていくまで


一 終わらない


娘にとっては、それで終わりのはずだった。

父は戻った。神父も戻った。父は先に村へ帰した。弟たちが隣の家で待っている。娘も、二、三日のうちに帰るつもりだった。

「お前も帰るんだぞ」

郡都の門の前で、父は言った。

「うん。片づけたら、すぐ」

「片づけるものなんか、ないだろう」

「怪我した人がいるの。あの人に、頼まれたから」

父は何か言いかけて、やめた。

「……弟たちには、姉ちゃんはすぐ帰るって言っとく」

人が、集まり続けた。

同じ目に遭った村の者が来た。追い出された神父たちが来た。徴兵を嫌った若者が来た。王がいたころを懐かしむ年寄りが、昔の紋章の旗を持って来た。役所というものを、もう誰も信じていなかった。

紋章の旗を持った老人が、娘の前に膝をついた。

「聖女様。どうか、我らの先頭に」

「私、先頭なんか立ったことないです」

「立たずともよい。そこにいてくださればよい」

「そこって、どこですか」

老人は答えずに、深く頭を下げた。

五千になり、一万になり、やがて数えられなくなった。

求めるものも大きくなった。郡都の広場で、誰かが紙を読み上げた。王を戻すこと。国は教会に手を出さぬこと。定められた税のほかは、一切取らぬこと。

「王様まで戻すんですか?」

娘は神父に聞いた。

「今のままでは、また同じことが起きる。皆はそう言っています」

神父は、それ以上は言わなかった。

娘には、王のことも国のことも分からなかった。分かるのは一つだけだった。もう、知らないところで、勝手に暮らしを決められたくない。

娘は、村へ帰りそびれていた。


二 神輿


軍は娘を輿に乗せた。教会の椅子に、担ぎ棒を二本通しただけのものだった。

聖女が死ねば、不敗も終わる。だから聖女は、弾の届かないところにいなければならなかった。

「降ろしてください」

「駄目です」

「歩けます」

「聖女様のお体は、全軍のものです」

「それも嫌なんですけど!」

担いでいる男たちが笑った。降ろしてはくれなかった。

「せめて、揺らさないでください」

「努力します!」

揺れた。

戦った。勝った。また勝った。

娘には何の力もなかった。少なくとも本人はそう思っていた。けれど兵たちは、聖女様がいるから負けないと信じていた。だから、ふつうなら崩れるところで崩れなかった。旗持ちが倒れれば、誰かが拾った。拾った者が倒れれば、また誰かが拾った。

そうして、本当に勝ってしまった。

ありもしない力が、人の信じる心を通って、戦場に出てきていた。


三 王都へ


軍は王都へ向かった。

村々では、聖女の絵姿が護符として配られた。どれも似ていなかった。本人より目が大きく、髪が長かった。

聖女様の軍が来る、という知らせが先を走った。着く前から、村の入口で人が待っていた。

娘は輿の上で頭を抱えていた。

それでも、降りられなかった。降りられない理由を、娘は知ってしまっていた。輿が村に入ると、怯えていた子供が笑った。怪我をして寝ていた男が、起き上がって手を振った。自分がそこにいるだけで、それが起きた。

ある村で、母親が赤ん坊を差し出した。

「聖女様、この子に触れてやってください」

「私が触っても、何も――」

「お願いします」

娘は、赤ん坊の頰に指を当てた。柔らかかった。赤ん坊は泣かなかった。母親が泣いた。

ある晩、輿を担ぐ男たちに、娘は言った。

「……分かりました」

男たちは、何が分かったのかを聞かなかった。


四 本物の軍隊


中央は、正規軍を出した。

司令官は、転生者の軍学を学んだ男だった。少しずつ兵を出して少しずつ負けるような真似は、しなかった。

「今動かせる、最大の兵力を出す」

最初の会議で、そう言った。

参謀が首を傾げた。

「相手は農民です。一個連隊で足りるかと」

「郡の守備隊も、そう考えて負けた」

「あれは、指揮が悪かったのでは」

「指揮も悪かった。だが、それだけで負けるほど、当初の差は小さくなかった」

司令官は、地図の上に手を置いた。

「向こうには、何かある。何かは知らん。だから、一度で終わらせる」

魔王軍との戦はまだ続いていた。主力は北にいた。それでも、残っているものを集められるだけ集めた。歩兵。騎兵。工兵。砲兵。新式の連発銃。機関銃。野砲。前線と後方をつなぐ電信。どこまでも途切れずに続く補給の列。

反乱軍がこれまで相手にしてきた郡の守備隊とは、何もかもが違った。

転生者の改革が作った、新しい軍隊だった。


五 負け始める


反乱軍は負けた。

負けたことは前にもあった。小さな負けなら何度もあった。けれど今度は、どこにも勝ち筋が見えなかった。

砲弾が、見えないところから落ちてきた。機関銃が、近づく前に列を薙いだ。気づくと横に回られていた。後ろの補給の道が切られていた。

それでも、反乱軍は逃げなかった。

「聖女様がいる! 下がるな!」

「右が崩れた!」

「崩れてない! 聖女様が見てる!」

後ろの輿の上で、娘はその声を聞いていた。見ているだけだった。

司令官は丘の上から、双眼鏡で見ていた。手当てを受けた者が、包帯のまま戻ってくる。老人が鎌を持っている。女が猟銃を構えている。

「……士気が、異様に高いな」

もう少し見ていた。

「これは、本当に反乱か」

参謀が振り向いた。

「は?」

「いや」

司令官は双眼鏡を下ろした。考えるのは、そこでやめた。数万の武装した群れが、王都に向かっている。軍人の仕事は、それを止めることだった。


六 加護


娘は輿を降りて、後ろの天幕で怪我人の世話をしていた。それだけは、降ろしてくれと頼まなくても許された。

水を飲ませた。傷を洗った。包帯を巻いた。包帯が足りなくなると、自分の裾を裂いた。

肩を撃たれた若い男が、目を開けた。

「ありがとうございます、聖女様」

「まだ寝ててください」

「もう大丈夫です」

「大丈夫じゃありません!」

男は笑って起き上がった。

「聖女様の加護をいただきましたから」

そう言って、天幕を出ていった。

二日後、同じ男がまた運ばれてきた。今度は脚だった。男は目を開けて娘を見ると、少し照れたように笑った。

「……また来ちゃいました」

「来ちゃいました、じゃありません」

「聖女様の手、あったかいんで」

「包帯が足りないんです。もう来ないでください」

「はい」

男はまた笑った。翌朝、男の寝ていたところは空いていた。

娘に治癒の魔法は使えない。巻いてやったのは、ただの布だった。

それでも彼らにとって、それは本当に加護だった。


七 欲しかったもの


その夜、反乱軍は谷の底に追い込まれていた。三方の尾根に、正規軍の焚き火が並んでいた。

娘は神父と、何人かの男たちと火を囲んでいた。誰も喋らなかった。

やがて、誰かが言った。

「明日は、どうなる」

「どうもならん」

猟師が言った。

「囲まれてる」

「聖女様がいる」

猟師は答えなかった。火に枝を一本くべた。

しばらくして、娘がぽつりと言った。

「私……ただ毎日、弟たちとパンを食べて」

火がはぜた。

「畑で、みんなで歌いながら麦を刈って」

娘は、火を見続けている。

「日曜日には、神父様のお話を聞きたかったんです」

少し笑った。

「それは、許されないことだったのでしょうか」

誰も答えなかった。神父も、答えなかった。


八 降伏勧告


朝、白い旗を掲げた騎兵が一騎、谷を下りてきた。

使者は反乱軍の前で馬を止め、よく通る声で言った。

「これ以上戦っても、勝ち目はない! 武器を捨てろ! 降伏すれば、命は保証する!」

ざわめきが広がった。

反乱軍の中から、はっきりと弱い声が出たのは、初めてだった。

「……もう、いいんじゃないか」

「聖女様」

「帰ろう。帰れるなら」

「聖女様、どうするんです」

「聖女様」

「聖女様」

声が、輿に集まった。

娘は黙っていた。輿の上から、使者を見ていた。

そして、そのまま周りを見渡す。

怒る者。泣きそうな者。不安そうな者。

みんな知っている顔だった。みんな、彼女と同じだった。

娘は、目を閉じた。

使者は、もう一度声を張った。

「戦いは、終わった!」

銃声がした。

使者が鞍から落ちた。馬が驚いて、空の鞍のまま尾根のほうへ駆けていった。

谷じゅうが静まった。皆が振り返った。

娘が、銃を持っていた。輿の横にいた猟師の銃だった。

娘が人を撃ったのは、それが初めてだった。

娘は何も言わなかった。睨んでいた。使者がいた場所を、じっと。

銃を地面に置いた。それから、輿を降りた。

自分の足で、地面に立った。旗持ちのところまで歩いて、手を出した。旗持ちは黙って、旗を渡した。


九 私は不敗の聖女


娘は旗を掲げた。

「私は、不敗の聖女!」

その言葉が嘘だと、谷でいちばんよく知っているのは娘だった。そんな力はなかった。もらってもいなかった。戦は、もう負けていた。

それでも、娘は名乗った。

「敵を倒し、王都へ向かいます! まだ戦う者は――この旗のもとへ集え!」

声が上がった。さっきまで帰ろうと言っていた男が、鍬を拾った。

「行くぞ!」

「聖女様に続け!」

神父が、娘のそばに来た。

「……よいのですか」

「はい」

「何を選んだのか、分かっていますか」

「分かってます」

娘は旗を持ち直した。

「私が、選びました」

神父は、それ以上は聞かなかった。短い祈りの言葉を、口の中で唱えた。

人から押しつけられた名前だった。娘はそれを、このとき初めて、自分で選んだ。


十 聖者の行進


娘は走らなかった。歩いた。

旗を持って、尾根に向かって、まっすぐ歩いた。後ろを農民が歩いた。猟師が歩いた。神父が、片足を引きずって歩いた。包帯を巻いた男たちが歩いた。杖をついた爺さんが歩いた。婆さんも歩いた。

砲弾が落ちた。土が噴き上がった。それでも歩いた。

「聖女様、怖くないんですか!」

後ろで誰かが叫んだ。

「怖いです!」

「じゃあ、なんで笑ってるんです!」

「あなただって笑ってるじゃないですか!」

誰かが、麦刈り歌を歌い始めた。

娘が振り返った。

「あ、それ歌詞違いますよ!」

杖の爺さんが言い返した。

「昔はこれで合ってた!」

「違いますって!」

皆が笑った。それから、皆で歌った。娘も歌った。

砲弾が降る中を、歌いながら歩いた。楽しそうだった。

司令官は尾根の上から、双眼鏡で見ていた。あれだけ撃たれて、まだ散らない。勝つつもりなのかどうかさえ分からない。笑って、歌って、歩いてくる。

司令官は長いこと黙っていた。それから、静かに言った。

「……あれは、駄目だ」

参謀が顔を見た。

「あれを残せば、アレンの改革は進まない」

憎しみではなかった。恐れでもなかった。軍人として、そう判断した。命令は短かった。

谷の底で、娘が旗を高く上げた。また誰かが歌詞を間違えた。皆が笑った。娘も笑った。

麦刈り歌を歌いながら、皆で歩いていった。

その日、反乱は終わった。


終章 三行


数か月後、魔王軍との戦争が終わり、アレンが王都に帰った。

戦時の体制が解かれ、地方の行政監査が始まった。どの郡にも等しく行われる、決まりどおりの監査だった。

アレンは、ある郡の帳簿で手を止めた。

「……何だ、この税は」

「戦時特別負担金、とあります」

書記官が言った。

「そんなもの、出した覚えはない」

「はい。中央の記録にもありません」

アレンは帳簿をめくった。

「この郡で、何かあったか」

書記官は、別の綴りを開いた。

「反乱が。鎮圧済みです」

「……そうか」

アレンは、帳簿に目を戻した。

調べさせた。存在しない税。消えた公金。親族ばかりの人事。神父の任免の私物化。不当な逮捕。中央へ送られた、嘘の報告。

アレンは怒った。関わった者を一人残らず処罰した。制度を直した。

反乱があったから見つかったのではなかった。誰かが死んだから、改革が進んだのでもなかった。数か月待っていれば、アレンが見つけていた。

世界は、また少し良くなった。

ずっと後の時代の歴史の教科書に、その反乱のことは三行だけ書かれている。

そこに、娘の名前はない。弟たちと分けたパンもない。神父もいない。嘘だった不敗の力もない。麦刈り歌もない。

ただ、多くが犠牲となった、とだけ書かれている。



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