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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第二幕 波乱の再戦
9/19

其の九 奇襲


 芸備(げいび)の南海には、蒲刈(かまがり)群島を皮切りに、大小無数の島々がまるで一筋の龍のように、西より東へ一列に連なっている。

 その列島の中で、大山祇(おおやまづみ)神社を戴く大三島(おおみしま)に最も近い最東の有人島こそ、大内水軍が波待ちの陣を敷く大下島(おおげしま)である。

 そして、大下島と大三島の狭間にもまた、無人島や岩礁がいくつも浮かぶ。


 弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)率いる岩国(いわくに)水軍の小舟二十三艘は、火を落とし、波間へ気配を溶かし消すように進んでいた。

 日はすでに没し、空を覆う厚雲は月明かりを呑み込んでいる。

 大下島を南に回れば、まず東に見えてくるのは大きな肥島(ひしま)である。

 人家の灯りもなく、果てなき闇が広がっているばかり。

 だが、先頭を進む小舟の舳先へ身を屈めている舵之丞は、まるで潮の匂いでも嗅ぎ分けるかのように、迷いなく進路を示していく。

 また、その後ろで櫂を握る禰太郎(ねたろう)も、まるで夜目が利く鳥か蝙蝠(こうもり)かのように、夜闇の中の島影や波筋を読み、舵之丞の指し示す先の様子を言い当てていく。


(何なんだ、この二人は……)


 同じ舟で櫂を操る小山弥右衛門(こやまやえもん)は、息を呑んでいる。

 灯を消して夜のこの荒海を進むだけでも、正気の沙汰ではない。

 だが二人は、まるで昼のごとくに海を見ている。

 後続の岩国水軍の水夫たちもまた、瀬戸の荒潮に鍛えられた者ども。

 高波に舟を呑まれることなく、無言のまま隊列を保って進んでいた。

 やがて、左手に見える肥島の島影が尽きる。

 東の前方にはさらに小さな三ツ子島(みつこじま)が見えてくる。

 もっとも、それが見えているのは禰太郎くらいのものであったが。

 耳に聴こえるのは、波濤の激しい響きと、上空を裂いて吹き荒ぶ風の唸りばかり。

 櫂が海を掻く音も、舟板の軋みも、その全てが闇夜の海へ呑み消されていた。


 その時。

 舳先の舵之丞が、不意に振り返った。


「禰太郎、弥右衛門。見つけたぜ」

「えっ、何をです?」


 弥右衛門が思わず聞き返す。

 だが舵之丞の口は、すでに次の指示に移っていた。


「左に切れ。肥島を北へ回る」

「舵さん、了解ー」


 禰太郎は妙に陽気な声を返し、櫂を大きく回す。

 小舟は波間で傾ぎながら、左へと向きを変える。

 後続の岩国勢も、闇の中を影のようについてきた。


「ま、まさか……」


 弥右衛門が思わず固唾を呑む。

 肥島の東端を回り込んだ、その時。

 荒波の間、ちらちらと小さな火が揺れている。

 たった一つの篝火(かがりび)

 島影の裏手ゆえ、南を進む舟には本来見えるはずのない位置である。


(なぜ……分かった……!?)


 弥右衛門は戦慄している。

 舵之丞は、その小さな火を見据えたまま、鉤槍を握り直す。


「あの灯りに突っ込む。暴れるぞっ」

「舵さん、了解了解ー」


 禰太郎は笑うように応じ、櫂へ力を込めた。

 弥右衛門も歯を食いしばって、櫂を波へ押し込む。

 小舟は一気に前へと躍り出た。

 闇の沿岸に浮かぶ、たった一つの篝火。

 近づくにつれ、その火は思いのほか強く明るかった。

 その周囲に密集する幾艘もの小舟が淡く照らされている。


 ドガガガッ――!

 その群舟の横腹に、岩国水軍の舟が次々と激突した。

 夜の海へ、激しい衝突音が轟く。


「うおっ! な、なんだぁっ?!」

「どこから現れやがった!?」


 暗闇からいきなり突っ込んできた敵舟に、三島水軍の兵たちは大きく体勢を崩した。

 岩国勢は間髪入れず、敵舟へ飛び移っていく。

 狭き舟板の上で斬りかかり、三島の兵は次々と海へ叩き落とされていった。

 甲板で篝火が一つ置かれたひときわ大きな舟へ、弘中舵之丞は身軽に飛び移った。

 舟上の篝火の横には、二人の男が騒ぎに気付いて立ち上がっていた。

 一人は背が高く痩せた細身の男。

 もう一人は肩幅広く、無精髭を潮風に揺らす大男。

 日に焼けた腕は丸太のように太く、この船団をまとめる強者だと一目で分かる。

 二人は海図や書状を確認するために篝火を用いていたようである。


藤兵衛(とおべえ)さん、こいつガキだぞ。おい、何しに来やがった」


 痩せ身の賊が、太刀を抜き放って斬り掛かった。

 だが、振り下ろした刃は空を斬る。

 次に払った太刀も、また。

 舵之丞は舟の揺れに身を預けて、しなやかに刃をかわしている。


「……!」


 男は手応えを得られないことに焦っていく。

 次の瞬間。

 舵之丞の鉤槍が、下から跳ね上がった。

 鋭い刃先が細身の海賊の顎下を裂き、喉元まで深々と抉る。


「がぁぁぁっ!」


 血飛沫が篝火へ散り、ジュッと蒸発の音が立つ。

 男は絶叫しながら仰け反り、そのまま後ろへ倒れ込む。

 揺れる舟縁を越え、暗黒の海へと落ちていった。


「てめえっ!」


 残る大男が低く唸った。

 海図を足元へ投げ捨て、背に負った広刃の大太刀を引き抜く。

 その構えを見るや、明らかに剛の者と分かる。

 だが、舵之丞はためらわず一歩踏み込む。

 突き出した槍先がまっすぐ喉笛を狙った。

 大男もまた即座に太刀を立て、鍔際でその突きを受け止める。


「やるじゃねえか、小僧」


 無精髭の海賊が、賞賛らしき言葉を吐く。

 松明の揺れる光に照らされた舵之丞の顔には、愉悦が浮かんでいる。


「オッサンもなかなかだね。トウベエさん、って言ってたか?」


 大男が鋭い目で、ぎろりと舵之丞を睨む。


「三島水軍、桧垣藤兵衛(ひがきとおべえ)とは俺のことだ」

「聞いたことないね」

「武士ならば、名乗られたら(おのれ)も名乗れ、小僧」

「大内の岩国水軍、(はやぶさ)の槍使いこと弘中舵之丞」


 舵之丞の返した名乗りに、藤兵衛は笑う。


「隼の槍使い? なんだそりゃ」

「狙った獲物は逃さねえってことさ」


 舵之丞が、押し込んでいた槍を、唐突に引いた。

 槍刃の根本に備わる鋼鉤が、太刀の鍔を引っ掛ける。


「うっ……!」


 藤兵衛は押し返す力へ意識を向けていた分、不意の引きに身体を持っていかれた。 

 ぐらり、と体勢が崩れる。

 次の瞬間には、太刀が藤兵衛の両手から引き離されていた。


「ちぃっ!」


 武器を失った桧垣藤兵衛は、舟縁を蹴り、荒れ狂う夜の海へ自ら身を躍らせた。

 周囲の舟からも鬨の声が次々と上がる。

 三島水軍の者どもは、奇襲の混乱から立ち直れぬまま、次々と海へ飛び込んでいた。

 海で育った者にとって、高波であろうと海は最後の逃げ道でもあった。


「やったぁ、舵さん!」


 自舟で櫂を握って待つ禰太郎は、歓喜の声を上げた。

 だが舵之丞は、敵からもぎ取った太刀を蹴り飛ばし、険しい顔をしている。


「ちくしょう……。こいつらじゃねえ」

「若、どうしました」


 禰太郎と共に自舟を守っていた弥右衛門が尋ねる。

 舵之丞は深い息を吐くと、答えた。


「奇襲部隊はこっちかと思ったが……、違ったな。もう一方だったか」

「しょうがないよ、舵さん。おいらが二択にしちゃったから。一つに絞れなかった」


 軽い舌打ちをする舵之丞を励ますように、禰太郎は言葉をかける。


「いや、戦さはそんなもんさ。肝要なのは、これからどう動くかだ」


 舵之丞は高い波の沫を浴びて濡れた顔を拭うと、冷静になった。


「禰太郎、弥右衛門、すぐに大下島へ引き返す」

「舵さん、了解ー」


 禰太郎の声は相変わらず祭りのような明るさがある。

 舵之丞は周囲を見渡して伝える。


「皆、一人も死んでないな。敵の舟は、いくつあった?」


 その声は、荒波と風鳴りの中でも不思議なほどよく通った。


「十二です、若」

「よーし、十二隻は丸ごと戦利品だ。分乗してくれ。余りは鉤縄で曳こう。西へ返すぞ!」

「おおおっ!」


 夜の海へ、岩国水軍の鬨の声が響く。

 一夜にして三十五隻へと増えた船団が、西へと転じる。


「や、やりましたね、若」


 弥右衛門は興奮を隠しきれない。

 だが、舵之丞の顔に油断はなかった。


「いや、末端の部隊をちょっと脅しただけだ。こんなもの、誰もが認める軍功にはならない。それに――」


 舵之丞は振り返り、弥右衛門に告げる。


「大内が勝たなけりゃ、この岩国水軍は弘中には戻ってこないんだ。軍功と勝利はこれからだぞ。力を貸してくれ」

「は、ははっ」


 弥右衛門は思わず姿勢を正し、再び櫂を力強く握る。


「よーし舵さん、飛ばすよー!」


 またしても戦場に似つかわしくない禰太郎の声が上がる。

 先頭を行く舵之丞の舟はさらに速度を増し、荒れる夜の海を西へと疾走していった。




(つづく)

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