其の九 奇襲
芸備の南海には、蒲刈群島を皮切りに、大小無数の島々がまるで一筋の龍のように、西より東へ一列に連なっている。
その列島の中で、大山祇神社を戴く大三島に最も近い最東の有人島こそ、大内水軍が波待ちの陣を敷く大下島である。
そして、大下島と大三島の狭間にもまた、無人島や岩礁がいくつも浮かぶ。
弘中舵之丞率いる岩国水軍の小舟二十三艘は、火を落とし、波間へ気配を溶かし消すように進んでいた。
日はすでに没し、空を覆う厚雲は月明かりを呑み込んでいる。
大下島を南に回れば、まず東に見えてくるのは大きな肥島である。
人家の灯りもなく、果てなき闇が広がっているばかり。
だが、先頭を進む小舟の舳先へ身を屈めている舵之丞は、まるで潮の匂いでも嗅ぎ分けるかのように、迷いなく進路を示していく。
また、その後ろで櫂を握る禰太郎も、まるで夜目が利く鳥か蝙蝠かのように、夜闇の中の島影や波筋を読み、舵之丞の指し示す先の様子を言い当てていく。
(何なんだ、この二人は……)
同じ舟で櫂を操る小山弥右衛門は、息を呑んでいる。
灯を消して夜のこの荒海を進むだけでも、正気の沙汰ではない。
だが二人は、まるで昼のごとくに海を見ている。
後続の岩国水軍の水夫たちもまた、瀬戸の荒潮に鍛えられた者ども。
高波に舟を呑まれることなく、無言のまま隊列を保って進んでいた。
やがて、左手に見える肥島の島影が尽きる。
東の前方にはさらに小さな三ツ子島が見えてくる。
もっとも、それが見えているのは禰太郎くらいのものであったが。
耳に聴こえるのは、波濤の激しい響きと、上空を裂いて吹き荒ぶ風の唸りばかり。
櫂が海を掻く音も、舟板の軋みも、その全てが闇夜の海へ呑み消されていた。
その時。
舳先の舵之丞が、不意に振り返った。
「禰太郎、弥右衛門。見つけたぜ」
「えっ、何をです?」
弥右衛門が思わず聞き返す。
だが舵之丞の口は、すでに次の指示に移っていた。
「左に切れ。肥島を北へ回る」
「舵さん、了解ー」
禰太郎は妙に陽気な声を返し、櫂を大きく回す。
小舟は波間で傾ぎながら、左へと向きを変える。
後続の岩国勢も、闇の中を影のようについてきた。
「ま、まさか……」
弥右衛門が思わず固唾を呑む。
肥島の東端を回り込んだ、その時。
荒波の間、ちらちらと小さな火が揺れている。
たった一つの篝火。
島影の裏手ゆえ、南を進む舟には本来見えるはずのない位置である。
(なぜ……分かった……!?)
弥右衛門は戦慄している。
舵之丞は、その小さな火を見据えたまま、鉤槍を握り直す。
「あの灯りに突っ込む。暴れるぞっ」
「舵さん、了解了解ー」
禰太郎は笑うように応じ、櫂へ力を込めた。
弥右衛門も歯を食いしばって、櫂を波へ押し込む。
小舟は一気に前へと躍り出た。
闇の沿岸に浮かぶ、たった一つの篝火。
近づくにつれ、その火は思いのほか強く明るかった。
その周囲に密集する幾艘もの小舟が淡く照らされている。
ドガガガッ――!
その群舟の横腹に、岩国水軍の舟が次々と激突した。
夜の海へ、激しい衝突音が轟く。
「うおっ! な、なんだぁっ?!」
「どこから現れやがった!?」
暗闇からいきなり突っ込んできた敵舟に、三島水軍の兵たちは大きく体勢を崩した。
岩国勢は間髪入れず、敵舟へ飛び移っていく。
狭き舟板の上で斬りかかり、三島の兵は次々と海へ叩き落とされていった。
甲板で篝火が一つ置かれたひときわ大きな舟へ、弘中舵之丞は身軽に飛び移った。
舟上の篝火の横には、二人の男が騒ぎに気付いて立ち上がっていた。
一人は背が高く痩せた細身の男。
もう一人は肩幅広く、無精髭を潮風に揺らす大男。
日に焼けた腕は丸太のように太く、この船団をまとめる強者だと一目で分かる。
二人は海図や書状を確認するために篝火を用いていたようである。
「藤兵衛さん、こいつガキだぞ。おい、何しに来やがった」
痩せ身の賊が、太刀を抜き放って斬り掛かった。
だが、振り下ろした刃は空を斬る。
次に払った太刀も、また。
舵之丞は舟の揺れに身を預けて、しなやかに刃をかわしている。
「……!」
男は手応えを得られないことに焦っていく。
次の瞬間。
舵之丞の鉤槍が、下から跳ね上がった。
鋭い刃先が細身の海賊の顎下を裂き、喉元まで深々と抉る。
「がぁぁぁっ!」
血飛沫が篝火へ散り、ジュッと蒸発の音が立つ。
男は絶叫しながら仰け反り、そのまま後ろへ倒れ込む。
揺れる舟縁を越え、暗黒の海へと落ちていった。
「てめえっ!」
残る大男が低く唸った。
海図を足元へ投げ捨て、背に負った広刃の大太刀を引き抜く。
その構えを見るや、明らかに剛の者と分かる。
だが、舵之丞はためらわず一歩踏み込む。
突き出した槍先がまっすぐ喉笛を狙った。
大男もまた即座に太刀を立て、鍔際でその突きを受け止める。
「やるじゃねえか、小僧」
無精髭の海賊が、賞賛らしき言葉を吐く。
松明の揺れる光に照らされた舵之丞の顔には、愉悦が浮かんでいる。
「オッサンもなかなかだね。トウベエさん、って言ってたか?」
大男が鋭い目で、ぎろりと舵之丞を睨む。
「三島水軍、桧垣藤兵衛とは俺のことだ」
「聞いたことないね」
「武士ならば、名乗られたら己も名乗れ、小僧」
「大内の岩国水軍、隼の槍使いこと弘中舵之丞」
舵之丞の返した名乗りに、藤兵衛は笑う。
「隼の槍使い? なんだそりゃ」
「狙った獲物は逃さねえってことさ」
舵之丞が、押し込んでいた槍を、唐突に引いた。
槍刃の根本に備わる鋼鉤が、太刀の鍔を引っ掛ける。
「うっ……!」
藤兵衛は押し返す力へ意識を向けていた分、不意の引きに身体を持っていかれた。
ぐらり、と体勢が崩れる。
次の瞬間には、太刀が藤兵衛の両手から引き離されていた。
「ちぃっ!」
武器を失った桧垣藤兵衛は、舟縁を蹴り、荒れ狂う夜の海へ自ら身を躍らせた。
周囲の舟からも鬨の声が次々と上がる。
三島水軍の者どもは、奇襲の混乱から立ち直れぬまま、次々と海へ飛び込んでいた。
海で育った者にとって、高波であろうと海は最後の逃げ道でもあった。
「やったぁ、舵さん!」
自舟で櫂を握って待つ禰太郎は、歓喜の声を上げた。
だが舵之丞は、敵からもぎ取った太刀を蹴り飛ばし、険しい顔をしている。
「ちくしょう……。こいつらじゃねえ」
「若、どうしました」
禰太郎と共に自舟を守っていた弥右衛門が尋ねる。
舵之丞は深い息を吐くと、答えた。
「奇襲部隊はこっちかと思ったが……、違ったな。もう一方だったか」
「しょうがないよ、舵さん。おいらが二択にしちゃったから。一つに絞れなかった」
軽い舌打ちをする舵之丞を励ますように、禰太郎は言葉をかける。
「いや、戦さはそんなもんさ。肝要なのは、これからどう動くかだ」
舵之丞は高い波の沫を浴びて濡れた顔を拭うと、冷静になった。
「禰太郎、弥右衛門、すぐに大下島へ引き返す」
「舵さん、了解ー」
禰太郎の声は相変わらず祭りのような明るさがある。
舵之丞は周囲を見渡して伝える。
「皆、一人も死んでないな。敵の舟は、いくつあった?」
その声は、荒波と風鳴りの中でも不思議なほどよく通った。
「十二です、若」
「よーし、十二隻は丸ごと戦利品だ。分乗してくれ。余りは鉤縄で曳こう。西へ返すぞ!」
「おおおっ!」
夜の海へ、岩国水軍の鬨の声が響く。
一夜にして三十五隻へと増えた船団が、西へと転じる。
「や、やりましたね、若」
弥右衛門は興奮を隠しきれない。
だが、舵之丞の顔に油断はなかった。
「いや、末端の部隊をちょっと脅しただけだ。こんなもの、誰もが認める軍功にはならない。それに――」
舵之丞は振り返り、弥右衛門に告げる。
「大内が勝たなけりゃ、この岩国水軍は弘中には戻ってこないんだ。軍功と勝利はこれからだぞ。力を貸してくれ」
「は、ははっ」
弥右衛門は思わず姿勢を正し、再び櫂を力強く握る。
「よーし舵さん、飛ばすよー!」
またしても戦場に似つかわしくない禰太郎の声が上がる。
先頭を行く舵之丞の舟はさらに速度を増し、荒れる夜の海を西へと疾走していった。
(つづく)




