其の八 波待
富田湊を発って以来、雲ひとつなかった瀬戸内の空は、いつしか鉛色の雲に覆われ始めていた。
潮風は唸りを増し、波頭が白く砕けて、艦隊の舷を幾度も打つ。
「波待ちを致す。全軍、大下の湊に入れ。後続の警固衆にも報せよ」
総大将の白井縫殿助が、波間を読みながら命を下す。
「これしきの波で進軍を止めるのかよ、縫殿助」
三浦十兵衛が不満を露わにした。
一刻も早く三島水軍を討ち滅ぼしたい血気が、その声音に滲んでいる。
その後ろでは、宮川佐之助も同調して荒息を吐いていた。
だが、普段であれば十兵衛や佐之助には一歩引く縫殿助も、海と舟のことになると譲ることはない。
「無論、この程度の波ならば戦えぬことはない。されど、波が荒れれば荒れるほど、潮に育った三島水軍に利がある。勝てる戦をわざわざ危うくする必要もない」
縫殿助は甲冑を濡らす沫を気にも留めず、なおも続ける。
「武働きは十兵衛と佐之助に任せる。だが、潮の機嫌と舟の扱いについては、富田水軍を預かる我ら白井の判断に従ってもらいたい」
「分かった分かった。総大将はおまえだからな。副将の俺たちは、おまえに従う」
十兵衛は肩をすくめながら、ひとまず矛を収めた。
「確かに、焦る必要はない。三島水軍などいつでも潰せるからな」
宮川佐之助もまた、十兵衛に同意する。
十兵衛と佐之助は船団の指揮を縫殿助に任せ、上陸の支度に取り掛かった。
大下島は、目指す大三島の西方に浮かぶ小島である。
大下の湊は、その西岸に入り込んだ入江にあった。
無論、そのまま大三島まで進んでも、大した刻はかからない。
だが、三島水軍が本拠とする大三島は広大で、陸地にいくらでも兵を隠すことができる。
敵の本拠で、陸からの夜襲を受ければ厄介だ。
ゆえに白井縫殿助は、島全体を把握しやすい小島の大下島を波待ちの地に選んだのである。
海こそ荒れてはいるが、陸にはまだ雨は落ちておらず、風も強くはない。
曇天の下、陶の軍勢は次々と浜へ上がり、平地に思い思いに陣幕を張っていく。
やがて、先勝を祝う酒盛りが始まった。
足軽頭たちは島の民より酒を集め、あるいは港町の白拍子を呼び寄せ、諸将の退屈を紛らわせようと駆け回る。
当然のように、奇襲に備えて大下島全体に厳重な見張りも置かれた。
敵兵が潜んでいないか、まるで山狩りのように兵たちが島内を歩き回る。
だが、勝ち続けている将兵の心までは、誰にも引き締められない。
大下湊の浜辺は、松明の火が日没後の空を朱に染め、波音をかき消すほどの喧騒に包まれていた。
「若。全軍、大下の湊に集結との触れが来てますが」
小山弥右衛門が、富田水軍から届いた早舟の報せを携え、舳先に立つ弘中舵之丞へ声をかけた。
舵之丞は振り向かず、迫り来る大下島の島影を見つめながら答える。
「聞いてられるか、そんなの」
「えっ」
舵之丞の一蹴に、弥右衛門が驚く。
右手に握った槍の柄の先を、舵之丞は力強く甲板に突き立てた。
「禰太郎っ」
「はいはいーっ!」
舵之丞に名を呼ばれるや、それまで甲板を寝床代わりに眠っていた大井禰太郎が、勢いよく跳ね起きた。
眠い目を擦り、大きくまばたきを二つ三つ。
途端に冴えた眼光を見せ、舟の前後をぐるりと見回した。
舵之丞が肩越しに訊く。
「敵が仕掛けるとしたら、どこか」
「背後の小大下島を南に回るか、あるいは先の大下島の南回りですかねー」
禰太郎は昼寝の夢の続きを語るかのような気軽さで答えた。
弥右衛門には、禰太郎が何を根拠にそこまで言い切れるのかさっぱり分からず、尋ねる。
「おい、禰太郎。今の今まで眠っていて、何が分かるというのか」
「いやぁ、敵の身になって考えれば、そのどちらかから機をうかがって出撃するかなぁって」
禰太郎は頭を掻きながら答えた。
瀬戸内の海は複雑である。
大小無数の島々が潮の道を分かち、海流は刻々と姿を変える。
潮を知らぬ者にとっては、迷路にも等しい海域である。
だが禰太郎は、目を覚まして周囲の島影と波筋をひと目見るや、自分たちが巡ってきた航路を即座に頭の中で結び直し、敵が身を潜めるとすればどこかを瞬時に見抜いたのだ。
弥右衛門が驚くのも無理はない。
舵之丞は禰太郎の言葉を聞くや否や、即座に判断する。
「よし。禰太郎、弥右衛門。我ら岩国水軍は大下島を南に回り、東へ進む」
「お、お待ちください!」
弥右衛門が思わず声を荒げた。
「大三島へ近づくことは厳禁、との触れが三浦どのより出ております。恐らくは、若が独断で動くことを危ぶんでの念押しかと……」
「大三島に着かなきゃいいんだよ」
舵之丞は、さして気負うでもなく言ってのけた。
「その手前の三ツ子島まで出て、引き返そう。下調べだよ。用心に越したことはないからね」
「で、ですが若。勝手な振る舞いをすれば、あの三浦どのや宮川どのが黙っておりますまい」
「なあに」
焦る弥右衛門とは対照的に、舵之丞は笑った。
「オレひとりが怒られれば済む話。それに、総大将の縫殿助どのは戦下手ではあるが、仮にも水軍を預かる将。オレたちの働きに異を唱えることはないと思うよ。海戦に疎い十兵衛どのや佐之助どのからの文句など、別にどうでもいいさ」
舵之丞はそう言って振り返り、岩国水軍への進路変更の指図を飛ばし始めた。
弥右衛門はその背を見つめて、強く拳を握り締める。
(若……。この方なら、まことに岩国水軍を弘中の旗の下へ取り戻せるやもしれぬ)
父の弥太次が幾度となく語り続けてきた、岩国水軍返還の悲願。
その実現は容易ではなく、もはや夢物語に近い願いであった。
まして、その大役を託されたのがまだ十三歳の少年。
弥右衛門も心のどこかでは、こんな若者に到底成し遂げられるものではないと思い込んでいた。
だが、目の前の少年は違った。
自軍の将たちの特性を掴み、潮の癖を読み、海そのものを盤上のように見渡している。
その背にはすでに、一軍を率いる将としての器が宿っていた。
元服してからずっと、大内警固衆の一人として禄を食んでいた小山弥右衛門には、父の弥太次のように岩国弘中家への忠義の心はさほど強くはなく、どこか遠い旧主家という意識であった。
しかし、この舵之丞という少年を見ていると、岩国水軍の行末を知りたくなってきた。
毎日のように弘中家への忠心をひたむきに語る、父の姿が脳裏に浮かぶ。
(父上……。若がどんな道を歩んでいくのか、見てみたい。この弥右衛門、若についていってみますよ)
弥右衛門は胸の内で、父へ誓った。
岩国水軍の舳先は、先鋒の富田水軍が本陣を張る大下湊から右に大きく反れ、大下島南方の暗い潮路へと静かに進み始めた。
(つづく)




