其の十 油断
小原中務丞の率いる大内警固衆の船団が、大下島の入江に入った。
南の岬が風を程よく防ぎ、入江の水面は穏やかであった。
入江の奥には、すでに先鋒たる富田水軍の大船団が碇を下ろしている。
その泊地には警固衆の船を迎え入れるための空きがある。
小原中務丞は、その配慮に気づいて感心した。
陶の郎党どもは血気に逸りがちな若武者たちではあるが、水軍を率いる白井縫殿助だけは海戦の理をよく心得ていることが見て取れる。
「しかしな……」
浜へ視線を向けた中務丞は、眉をひそめて溜め息を吐く。
大下の湊では、すでに戦勝を祝う宴が始まっていた。
無数の篝火が浜辺を昼のように赤々と照らし、白拍子の笛と鼓の音が、潮騒を押し返すほどに鳴り響いている。
将兵どもが酒盃を掲げ、勝ち鬨さながらの怒声を張り上げ、浜は酔気と熱気に包まれていた。
普段は百余人ほどしか住まぬ寂れ島とは、とても思えぬ有様だ。
まるで一夜にして城下町が現れたかのようである。
「陶の郎党どもも困ったものだ」
中務丞は呆れまじりにつぶやいた。
「あれでは本陣の在処を、大三島まで音で触れ回っているようなものよ」
「それでも勝算十分、ということなのでございましょう」
艦隊の点検を終えて報告に来た小山弥太次が、白髭を撫でながら穏やかに笑った。
長年海と舟を見続けてきた老水夫らしい、どこか達観した声音である。
「若さというのは、恐れを知らないものでございますから」
「だが、それが眩くもあるがな。舵之丞はどこへ行ったのやら」
小原中務丞は、若き陶の若山党の武働きは認めている。
頭領の陶五郎隆房、そして若山の五房らの豪胆さには、戦をかき回す大きな力がある。
慎重さを欠き危うくもあるが、それを打破する力を感じてしまう。
そして彼らよりもさらに幼い弘中舵之丞にも、只ならぬ面白さを感じていた。
見習いにもかかわらず、警固衆の調練の際にも水将が見落としていた異変に気づいたことが幾度となくあった。
「今ここに岩国水軍がいないということは、舵之丞は何かに気づいて別働きしておるのかもな」
小原中務丞は笑って呟く。
その言葉を受けて、小山弥太次は目を細めて水平線を眺めた。
(倅よ、若を頼んだぞ——)
嫡男の弥右衛門へ、心の内で伝える。
その時。
一艘の小早が波間を縫うように近づき、将船の脇へぴたりと横付けされた。
伝令装束の青年武士が軽やかに飛び移り、小原中務丞の前に来ると膝をつき、懐から書状を差し出した。
「御無事の航行、恐悦に存じます」
「うむ。富田水軍の者か」
「はっ」
若き使者は深々と頭を下げ、口上を続けた。
「今宵、中務大輔様におかれましては……」
横に立つ小山弥太次が、思わず口を挟んだ。
「ご使者どの。小原様は中務大輔様ではなく、中務丞様でしてな」
「……」
使者は俯いたまま、ぴたりと口を閉ざした。
「……?」
しばしの静寂に、弥太次は小さく首を傾げる。
次の瞬間。
使者の目が、獣じみた鋭光を宿した。
素早く鯉口を切り、抜き放たれた太刀が、夜気を裂いて弥太次へ振り下ろされた。
「ぎゃっ——!」
鮮血が甲板へ弧を描く。
弥太次が袈裟に斬り裂かれ、そのまま膝から崩れ落ちた。
(倅——、若を頼ん……だ……)
息子の姿を思い浮かべながら、小山弥太次の意識は途絶えた。
白髪が赤く濡れ、甲板に血の池が広がっていく。
「弥太次っ」
小原中務丞はとっさに弥太次を支えようと手を伸ばした。
だが、振り抜かれた太刀がすぐに返ってくる。
中務丞は身を翻して刃をかわし、即座に太刀を抜き放つ。
「何者か」
「三島水軍、越智左京」
静かな声で名乗った若武者は、女と見紛うほどに秀麗な顔立ちをしていた。
しかし、その双眸には氷のような殺気が宿っている。
小原中務丞は歴戦の将らしく、狼狽えることなく、切先を真っ直ぐに左京に向けた。
「わしは名を間違わんぞ、左京とやら」
「ふっ」
左京の口元がわずかに歪む。
「だがおぬしらの軍は、すでに戦さを間違っておる」
「……!」
中務丞は背後の音に気づく。
船縁に次々と鉤縄が掛けられ、その縄を伝って海賊どもがさながら猿のように次々と船へと躍り上がってきた。
警固衆の兵は各船へ散っており、この将船に残る兵はわずかであった。
「敵襲じゃぁ——」
警固衆の一兵が叫んだが、言い終わる前に左京に斬られて倒れる。
狭き甲板の上で血飛沫が舞い、中務丞は瞬く間に包囲された。
太刀を振るい二人、三人と斬り払ったが、多勢に無勢。
無数の刃が中務丞の甲冑の隙へ突き立てられた。
「ぬぅっ」
中務丞はそれらの刃をへし折ろうと力を込めたが、越智左京の一刀がその首を深々と薙いだ。
膝が折れ、そのまま地に濡れた甲板に崩れ落ちる。
とどめの刃が次々に刺され、小原中務丞隆名は伏せたまま動かなくなった。
「終わったな。行くぞ」
左京は船上に並ぶ篝火を次々に蹴倒していくと、合図を出して兵らと共に闇夜に散った。
その異変は、なおも酒宴に酔う大下湊の陣からも見えていた。
「おい……、警固衆の船、火が出ておらんか?」
酒で顔を赤らめた一将が、盃を片手に湾内を指差す。
陣中ではなお、白拍子の舞に歓声が飛び、酔った兵どもが肩を組んで踊り狂っており、その異変に気づく者は他にいない。
だが、左手に盃を持ち、白拍子から酒を注がれていた三浦十兵衛だけは、その火を見逃していなかった。
「おい、女」
絹の羽衣を身に纏い、妖艶な手つきで酒を注ぐ白拍子を睨む。
白拍子の注ぐ酒が止まる。
十兵衛が右手を太刀の柄に掛けて立ち上がろうとした刹那。
白拍子は持っていた酒器を砂地へ打ち捨てた。
甲高い破砕音が鳴る。
十兵衛が本能的に破片から目を守ろうと瞼を細めた時、羽衣の陰から小刀が閃いた。
「……っ!」
十兵衛が柄を握りきるより早く、その小刀の刃は深々と右腿へ突き立っていた。
肉を裂く鈍い音。
熱い血潮が一気に吹き出し、陣羽織を赤く濡らす。
「ぐぅっ……おのれぇっ!」
十兵衛は激痛に顔を歪めながらも、反射的に左手を伸ばした。
白拍子の頭をつかみ、そのまま地へ叩き伏せようとする。
しかし。
その手に絡みついたのは、薄絹の羽衣だけであった。
白拍子は鳥のようなしなやかさで半歩飛び退き、返す手で血濡れの小刀を投げ放つ。
十兵衛は咄嗟に手を掲げた。
黒い手甲に当たった小刀は火花を飛ばし、弾かれた。
だが、その防御の動きが一瞬の死角を生んだ。
白拍子は宴席の傍へ立てかけられていた舞踊用の長刀を手にして、軽やかに振り構えている。
その刃が一閃し、風を裂いた。
「ぐぅっ……!」
十兵衛は太刀で防ごうとしたが、腿の傷で反応が遅れる。
長刀の刃は左肩へ深々と食い込み、鎧の隙から鮮血を噴き上げさせた。
「うらぁっ!」
十兵衛はそのまま太刀を振り払ったが、空を斬る。
既に白拍子は長刀を握ったまま、ひらりと後方へと飛んでいた。
「十兵衛っ!」
遅れて異変に気づいた宮川佐之助は、傷ついた幼馴染の名を叫ぶ。
侍大将こそが無礼講の範となろうと、愛用の太刀を腰から外したことを悔やんだ。
その時。
陣内に酒樽や肴を持ち込んでいた島民たちが、懐や手押し車に隠していた武器を一斉に手にした。
先ほどまで酌をしていた娘が、大内の将の喉を裂く。
肴を配っていた老人に見えた男が、大内の兵に短い槍を突き立てる。
島民——いや島民たちに化けていた三島水軍たちによって、完全に気を緩めていた陶勢は次々に斬り伏せられていった。
血飛沫が篝火へ散り、酒臭い夜気へ鉄臭い血の匂いが混じる。
「どけぇっ」
宮川佐之助は飛びかかってきた敵兵の顔面を殴りつけ、次に来た敵兵を体当たりで吹き飛ばし、陣の端に置いていた太刀に駆け寄って掴んだ。
十兵衛が剣を構えながら、叫ぶ。
「佐之助っ、船に残る縫殿助に伝えろ! 応戦っ、そして機を見て撤退だ」
「く……っ」
佐之助の顔が歪む。
しかし、佐之助は十兵衛の剛勇を誰よりも知る。
「十兵衛、戻ってこいよ!」
目で合図をすると、佐之助は迫り来る三島兵を太刀で斬り、砂を蹴立てて船着場へと駆け出す。
十兵衛は腿と肩の激痛でよろけながらも、なお足を踏ん張って大太刀を構えていた。
「女……。そうか、てめえか。大祝の妹ってのは」
白拍子は不敵に口角を上げると、自ら残る羽衣を掴んで剥ぎ取った。
絹の衣の下から現れたのは、女の細身へぴたりと馴染んだ黒胴の甲冑姿。
もはや舞姫ではなく、海に生きる武者の出立ちであった。
「三島水軍陣代、越智鶴」
美しき少女が名乗る。
まるで一羽の鶴が羽を広げるかのように、美しい黒髪が風にひらりと舞い広がった。
(つづく)




