其の六 鬨声
拝殿の外では、具足に身を固めた三島水軍の将たちが、固唾を呑んで越智鶴を待っていた。
皆、あの奇跡の勝利を目の当たりにした者たちである。
次なる戦さでも果たして鶴は陣代として立ってくれるのか――。
その答えを待ちわびていた。
「おお、姫様じゃ」
拝殿より現れた鶴の姿に、一将が声を上げる。
彼らの先頭に立つ美丈夫が、一歩進み出て鶴に尋ねた。
「姫様、いかがでございましたか。大祝様は次の陣代もお認めくださいましたか」
「左京どの、姫様はやめて。同じ越智の一族なんだから……」
鶴は幼馴染の従兄からの呼び方に照れて、わずかに頬を和らげた。
一呼吸おいて顔を引き締め、諸将に向き直る。
「大祝様もご決意を固められ、お許しくださいました。次の戦さも、鶴が陣代を務めます」
「おおおぉっ」
たちまち将たちの間に歓声が広がる。
鶴のもとなら勝てる。
鶴が先頭に立つ限り、この海では負けぬ。
そんな確信にも似た熱が、諸将の胸に満ちていた。
「左京どの。新たに分かったことはありますか」
すでに鶴の面差しは、一軍を率いる将のそれへと変わっている。
「はい。大内は再び陶の富田水軍を編成し、白井縫殿助がまたも総大将を務める模様」
越智左京安成が答える。
三島水軍随一の知恵者であり、すでに敵地の山口や若山へ幾人もの間者を放って報をかき集めている。
鶴と左京の呼吸は、幼き頃より共に文武を鍛え合ってきた者同士ならではのものであった。
海育ちの荒くれ者の諸将の目には、そのやり取りはもはや大軍の総大将と軍師のそれに映る。
「また白井ですか。懲りぬものですね」
「いや、鶴どの、油断はなりませぬ」
左京の声音が低くなる。
「此度は陶五郎隆房の腹心、三浦十兵衛と宮川佐之助が加わるとのこと。どちらもその武勇は周防屈指の将。また九州より大内警固衆の一軍も東に向かっているとのこと。後詰と見て間違いないでしょう。敵勢は二千を下るまいかと」
「そう……」
左京の報告へ、鶴は静かに頷いた。
敵は五倍を超える大軍。
だが、鶴の瞳に陰りはない。
瀬戸を渡る潮の流れすら、己に味方すると信じて疑わぬ眼差しであった。
「我ら三島水軍は、この海を知り尽くしています。そして、大山積神のご加護もある。次も負けるわけがありません」
鶴は諸将を見渡し、柔らかく、それでいて力強く言った。
「皆、どうか力を貸してください。この鶴が、皆を護りますゆえ」
大きな鬨の声が上がった。
その響きは霊島の社を震わせ、瀬戸の潮へ白き沫を立てるかのようであった。
その輪の中心で将たちを鼓舞する鶴の姿を見つめながら、左京はそっと袖の内で拳を握る。
(鶴どのが男子であれば、どれほどの名将となったであろう……)
左京の胸に去来したのは、それだけではなかった。
共に育った幼き頃と変わらぬ美しく透き通った瞳を見ながら、心の内に思う。
(そして、鶴どのが、大祝の血を継ぐ女子でさえなければ……、拙者は……)
左京はそっと胸を押さえた。
越智の将として許されぬ焦がれ心を、誰にも知られぬよう沈めるかのように。
大内の水軍は、周防南部の富田湊に集結していた。
陶五郎隆房の居城・若山城の城下にあり、陶家の持つ富田水軍の拠点である。
ここへさらに小原中務丞率いる警固衆も加わり、二千余の水軍が大三島へ出撃をしようとしているところである。
名目の総大将は、白井縫殿助。
だが軍議の席において声を張り上げていたのは、三浦十兵衛と宮川佐之助であった。
まるで己らこそが帥将であるかのように振る舞い、大内筆頭家老の腹心たる威厳を隠そうともしない。
「殊に、警固衆の舵之丞!」
三浦十兵衛は、小原中務丞の隣に座する弘中舵之丞を指差して、あからさまな嘲りをぶつける。
「我ら富田水軍の足だけは引っ張るんじゃねえぞ。小童ゆえ危うくなったとて、助けになど行かぬ。てめえの身はてめえで守れ」
「はいはい」
舵之丞は面倒そうに首をすくめる。
言い返したいことは山ほどあるが、ここで最年少の自分が何か言えば、三浦や宮川も余計に熱くなり、軍議の時間が長引くだけであることは目に見えている。
その軽い受け流しが癇に触ったのか、今度は宮川佐之助がその横の小原中務丞へと鋭い目を向ける。
「小原どの。その舵之丞が妙な真似をせぬよう、よく見張るように」
「承知」
小原中務丞は、一言だけ返した。
中務丞は警固衆主将たる冷泉判官隆豊の副将とはいえ、大内家の直臣である。
本来、陶家の陪臣に過ぎない三浦や宮川に軽んじられるような立場ではない。
しかも彼らは小原より二十五は若く、倅の若き年代である。
だが中務丞は、主将の冷泉判官に似た、冷静沈着の将であった。
彼ら若山党の武勇も、その気性も知っている。
ゆえに彼らの増長もまた「若武者の血気とはかようなもの」と受け流し、いちいち腹を立てることはなく、悠然と座している。
弘中舵之丞にとって、その上官の落ち着きはありがたいものであった。
感情に流されずに静かに軍を見渡すことが海戦では重要であることを、冷泉判官や小原から大いに学んでいる。
軍議が終わり、舵之丞が陣幕から出ると、待ち構えていたように十数人の武士が駆け寄ってきた。
「若!」
老齢の武者の声に、舵之丞は目を丸くし、その手を取る。
「弥太爺じゃないか! 久しいな」
老武士の名は、小山弥太次。
舵之丞を囲む他の壮年の武者たちも皆、かつては弘中家が召し抱えていた水軍の者たちであった。
弘中の岩国水軍が大内の警固衆に編入されて、もう二十年近くになる。
その舟こそ冷泉の預かりとなっているが、三百余の岩国水軍の将兵たちは、いつしか弘中家から引き離され、冷泉や小原ら警固衆諸将の配下へと散っていった。
それでもここに集った弥太次たちは、己を岩国の水夫と信じ続け、弘中家への忠心と誇りを捨ててはいなかった。
殊に小山弥太次は、岩国水軍の現況を伝えるため折々に弘中家を訪れていたため、幼少期より舵之丞とも親しかった。
舵之丞が「弥太爺」と呼ぶのも、その頃からである。
齢六十を超える弥太次は、白髪白髭を潮風に揺らしながら、震える手で舵之丞の袖をつかんだ。
「若、若ぁ。岩国水軍の弘中への返還は、大殿の、そして我らの長らくの悲願。それを……、それを若が……。あの小さかった若が……、今も大きくはないが……、感無量でございますぅ……」
その目には涙が浮かび、周囲の岩国勢もまた目頭を押さえた。
「待て待て、弥太次も皆も。まだ水軍が還ると正式に決まったわけじゃないよ」
舵之丞は苦笑しながら言った。
「冷泉判官どのから条件を二つ出されてる。一つは軍中の誰もが認める大功を挙げること。もう一つは、大内を勝たせることだ」
「なれば、舵之丞」
舵之丞の背後から、低く落ち着いた声が飛んできた。
警固衆の小原中務丞隆名である。
弥太次たちは慌てて膝を折り、礼を取った。
中務丞は舵之丞の肩に手を当て、その目を見る。
「此度の戦さ、おぬしは岩国水軍を遊軍として指揮せよ。警固衆本隊について回る必要はない。機を見て、好きに動かせ」
「は、はい」
舵之丞の目が輝く。
冷泉判官から岩国水軍の指揮を命じられてはいたが、現場では中務丞がそれを許さないという可能性も考えられたからである。
「判官どのは、おぬしの性格も岩国水軍の気風もよく知っておられるようでな。後詰として控えるだけでは大功も立てにくかろうと、遊軍を認められた。舵之丞、大内を勝たせるため、大きく働いてみせよ」
その言葉に、舵之丞の顔はぱっと明るくなる。
岩国の老臣たちの眼にも、若き日の炎が宿った。
「ただし、悪いが――弥太次だけは我が船へ預かる」
中務丞が言うと、弥太次は頭を掻いた。
「実は今回、小原様の将船の改修をわしが一手に請け負いましてな。細かな勝手は、恐らくわしでなければ分からぬものでして」
弥太次は若の傍で働けぬことを残念に思いながらも、続ける。
「だが、若。代わりに倅の弥右衛門がおそばにつきまする。弥右衛門や」
「ここに」
弥太次の声に応じ、若武者が進み出る。
小山弥右衛門。
弥太次の嫡男にして、岩国勢最年少の二十歳であった。
「若。弥右衛門が若をお守り致します。この弥右衛門、四十を過ぎてようやく授かった倅ゆえ、目に入れても痛うないほど可愛いのでございますが……」
「父上、そういう親馬鹿はおやめください。恥ずかしい」
生真面目な弥右衛門が父の言葉を遮ると、一同にどっと笑いが起こる。
舵之丞は弥太次の肩へ手を置き、大きく頷いた。
「分かった。弥太爺の大切な弥右衛門、オレがしかと預かった」
その声は、先ほどまでの軽薄さとは違う。
一軍の将としての、太く強い響きを帯びていた。
「とびっきりの軍功を挙げ、大内に勝利をもたらそう。そして――岩国水軍を、我が弘中へ取り戻すぞ!」
「おおぉぉっ!」
皆が大きな雄叫びを上げ、一斉に拳を突き上げる。
一人眠そうにしていた大井禰太郎も、その声の大きさに驚いて目を覚まし、周囲に倣って「お、おぉっ」と拳を上げた。
岩国衆の声は富田浦に響き、瀬戸の波を震わせ、白い沫を風に舞い上がらせるほどであった。
(第二幕へつづく)




