其の五 陣代
「鶴……。まだ十六の女子であるそなたに、かような重き役目を背負わせること、心苦しく思うておる」
神紋を織り込む高貴な装束に身を包む若き大宮司は、烏帽子をいただく頭を静かに垂れた。
瀬戸の潮風が開け放たれた拝殿を駆け抜け、潮の香が鼻腔をくすぐる。
「やめてください、兄様。いや、大祝様」
鶴はまだ具足を帯びぬ直垂姿のまま、まっすぐに長兄を見据えた。
「この家に生まれた以上、避けられぬ定めです。何一つ、憂うことなどありません」
凛と響く鶴の声には、一切の揺らぎがなかった。
美しき少女の顔。
しかしその瞳には、島々を束ねる将のごとき峻烈な光が宿っている。
大宮司は妹の成長を痛いほど感じながらも、その胸中にもつれる不安を押し隠せずにいた。
「鶴よ……。我が大祝家は、瀬戸内の安寧と発展を祈る者。決して戦さを望み勝利を願うものではない。それは分かるな」
「はい」
「守護大内は山口に多くの寺社を勧進し、厳島神社への崇敬も篤い。もし彼らが瀬戸内を護る新たな秩序となるのであれば、大祝たる私が頭を下げれば済む話……」
「なりませぬ!」
戦を好まぬ大宮司の献身の言葉を遮り、鶴の一喝が社殿に響く。
「これまで大内が、遣明船の警固料を三島水軍や海賊衆に求めて来なかったのは、自前で警固衆を有しているからです。しかし今になって島々へ銭を求め始めたのは、先の出雲遠征での大敗の損失を手早く埋めるために相違ありません。これを瀬戸内を護るためと言えますか」
「……」
「大祝様。よくお考え下さい。この聖なる御島では古来より、魚を獲ることすら禁忌。島の者たちは漁で糧を得ることも許されておりません」
鶴の声音は、次第に切実さを帯びていく。
「大内より今以上の負担を課されれば、彼らの生計はいったいどうなるのです。我ら越智の者は伊予の館に居れば済みます。しかし……、しかし、島の者たちは……!」
鶴の目は戦さそのものではなく、その先にある人々の暮らしに向いていた。
海に浮かぶ島々に寄せ合い、慎ましく生きる民らの営みに。
涙が滲む鶴の目を見て、大宮司は頭を下げる。
「分かった、分かった、鶴。私が浅はかであった。そなたの申す通りだ」
決意を新たに、大宮司は身を起こして告げた。
「越智鶴を、三島水軍の陣代と認める。瀬戸内の静謐を、そなたに託そう」
そこで一度言葉を切り、再び深く頭を下げる。
「皆を頼んだぞ」
「はい。お任せください」
鶴は神の宣旨を拝命するように姿勢を正し、深く頭を垂れた。
大宮司の声が、ふっと和らぐ。
「だが、鶴……。ここからは大祝としてではなく、おまえの兄として申す」
大宮司が妹の目を見つめる。
「どうか、無理だけはするな……。おまえの無事を祈願することしかできぬ、この不甲斐ない兄を赦してくれ」
その声には、先の戦さで弟を失った悔恨が滲んでいた。
それを誰よりも理解している鶴は、長兄を安心させるように柔らかな笑みを浮かべる。
「兄様の祈願以上の力添えなどありましょうか。安心してお待ちください。鶴は必ず悪党を退け、兄様の元へ帰ってまいります」
その笑顔には、不思議な神気が宿っていた。
鶴の言うことは、必ず叶う。
神前に仕え、幾千もの祈りを見つめてきた大宮司にさえ、その笑みを見てそう思わずにはいられなかった。
瀬戸内の芸予諸島の中央に位置する霊島・大三島。
蒼き潮流に抱かれるその島に、大山祇神社は鎮座する。
大山積神を祀る各地の神社の総鎮守であり、瀬戸内の島人たちからは海の守護者として篤く崇敬されてきた。
その大宮司は、大祝と呼ばれる。
代々、四国伊予の越智家の嫡流がその神職を継ぎ、大祝の姓を名乗った。
ゆえにその近親の者が大将として三島水軍を率い、この海域を鎮護する。
それが幾代にもわたり受け継がれてきた、越智家の務めであった。
越智鶴は、第三十一代大祝・安用の娘である。
長兄の安舎が第三十二代の大祝を継ぎ、神事を司った。
次兄の越智右近安房は、兄が神事に専心できるよう、総大将として三島水軍を率いた。
穏やかで文を愛する長男安舎とは対称的に、次男右近は幼き頃より武芸に秀でた若武者であった。
兄弟はまるで昼と夜のように異なる気質を持ちながら、それぞれに適した役目を担っていたのである。
周防より大内軍が襲来した折も、右近安房は将船の舳先に立ち、三島水軍を導いた。
その傍らには、二人の若き近親がいた。
一人は右近と同い年の幼馴染、越智左京安成。
若くして軍略に通じ、船団の采配に長けた智将である。
その面差しは端麗で、荒くれ者の多い水軍においてひときわ人目を引く美丈夫であった。
そしてもう一人が、右近の妹・鶴である。
幼き頃より兄右近や左京とともに木刀を交え、浜辺を駆け、潮風の中で弓を引いて育った。
その剣は鋭く、その弓は疾い。
何より、彼女が船に立つだけで、荒くれの水夫たちの心は不思議と静まり、士気と戦意は一気に満ちた。
左京の立てた戦略のもと、三島勢は数に勝る大内軍を相手に善戦を続けていた。
だが――。
戦さの最中、敵船から放たれた一本の流れ矢が、将船で采配を振るっていた右近の額を射抜いたのである。
総大将の突然の討死。
その報は瞬く間に船団を駆け巡り、三島水軍は大きく揺らいだ。
その時――。
「皆、狼狽えないで! 鶴がここにいます!」
凛と響いたその一声に、三島の将兵が顔を上げた。
少女が将船の屋形へ軽やかに飛び上がると、陽光を弾き煌めく刀を天高く掲げた。
「この鶴もまた、大祝の血を引く者。皆の命も、この海も、私が守り抜く! 共に戦いましょう!」
鶴はさらに太刀を高々と突き上げて叫ぶ。
鬨の声が轟音となって、海を揺らした。
櫂が一斉に海を打つ。
波は砕け、沫が舞う。
三島水軍の船団はまるで巨大な一つの生き物のように動き始めた。
大内勢は、その異様なまでの士気にたじろぐ。
鶴の将船は潮流を裂いて疾走し、白井縫殿助の本船へと迫った。
たちまち海上の形勢は覆り、大内水軍は総崩れとなった。
兄の死によって偶然代役となった鶴の采配。
だが、それは一時の代役では終わらなかった。
戦を終えた将兵たちが皆、口を揃えて願った。
「次の陣代も、ぜひ姫様に」
その声は日ごとに大きくなり、やがて島々の総意となる。
大祝安舎は、その願いを受け入れた。
大祝の家に生まれた者として、幼き日より女を捨て、武人として自らを鍛え上げてきた越智鶴。
彼女はこうして正式に三島水軍の陣代となり、瀬戸内の運命を大きく背負うこととなったのである。
(つづく)




