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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第一幕 瀬戸の女神
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其の四 出陣


(すえ)どのが自ら足を運ばれるとは」 


 口髭を蓄えた武人は、わずかに眉を動かしたのみで、すぐにいつもの無骨な無表情に戻った。

 その声にも態度にも、筆頭家老へ向ける媚びは欠片(かけら)もない。

 冷泉判官隆豊れいぜいはんがんたかとよ。歳は三十一。

 陶と同じく大内(おおうち)家の庶流に連なり、祖父が公家冷泉(れいぜい)家より妻を迎えたことより、父・興豊(おきとよ)の代から冷泉の姓を称している。

 大内本家直属の水軍・警固衆(けごしゅう)を率いる提督で、各国の守護代の威勢ひしめく大内家中にあって、いずれの守護代にも与せぬ独立の立場を保つ男であった。


「折よく参られた。大三島(おおみしま)の敗報は、つい先ほど早馬から聞き及んでいる。それで陶どの」

「警固衆と(かじ)ィを借りたい」


 判官の言葉を待たず、(すえ)五郎隆房(たかふさ)は間を断ち切るように言い放った。

 冷泉邸の応接の間に、沈黙が走る。

 五郎の背後では、家臣の江良鬼丸(えらおにまる)が岩の如く佇み、沈黙のうちに圧を放っている。

 もし主を軽んずる気配あらば、その場で斬りかからんとする気迫すら感じられた。

 舵之丞(かじのじょう)はその傍らで、小さく首をすくめた。

 これから重臣同士の長い駆け引きでも始まるのだろうと、舵之丞は内心うんざりする。

 冷泉判官の眼差しは、怒りとも冷淡ともつかぬ無表情のまま動かない。

 五郎は気にせず、言葉を継いだ。


「判官どのは大三島攻めには反対だったもんな。今さら俺なんかに力を貸す義理もない、といったとこだろ」

「そのようなことはない」


 五郎の自嘲を、判官は静かに断ち切る。


評定(ひょうじょう)において異を唱えたのは確かだ。瀬戸内の諸勢力を支配するのは陸地の国衆を束ねるより難儀と、あの時は主張した。しかし……」


 判官の無骨な表情は変わらないが、言葉は強まった。


「最終的に御屋形様(おやかたさま)がお決めになったこと。ひとたび決せられた以上、同じく大内に仕える身として力を尽くすは当然の理だ」

「そうか。力を貸してくれるか」

「無論。ただし」


 冷泉判官は水軍の状況を説明する。


「警固衆の大半は、少弐(しょうに)大友(おおとも)の動きが不穏な九州にある。動かせるのは五軍のうち一軍ほど。それでもよろしいか」


 判官の言葉には、一切の私情がなかった。

 五郎は頷く。


「十分だ。数ではない。警固衆本隊が動いたという事実こそが要る」

「承知した。小原中務(おはらなかつかさ)を出そう」


 話は驚くほどあっさりとまとまった。

 舵之丞が予想していた駆け引きなど、両者にはなかった。


 陶五郎隆房に冷泉判官隆豊。

 いずれも評定衆に列する、大内家中枢の重臣である。

 主家への忠義の心は同じ。

 無用な腹の探り合いは要さなかった。

 九州に派遣中の警固衆五軍のうち、小原中務丞隆名なかつかさのじょうたかなの率いる一軍を陶の富田(とんだ)水軍の後詰めとし、再び大三島へ兵を向けることが決する。


「舵之丞」


 冷泉判官が、五郎の横に控える少年へと視線を向ける。


「はっ」

「おぬしは小原中務に従い、大三島へ向かえ。そして……今より、二つの条件を与える」


 思いもよらぬ言葉に、舵之丞は息を呑んだ。


「その二つを成し遂げたならば、警固衆預かりとなっている岩国(いわくに)水軍を弘中(ひろなか)へ戻し、おぬしをその将と認めてもらうよう、御屋形様へ上申する」

「……!」


 舵之丞は思わず身を乗り出した。

 冷泉判官からは、未熟の将であることを飽きるほど言われ続けてきた。

 時折、未熟というのは表向きの理由で、本当は岩国水軍を返せぬ事情が大内家にあるのではないかと疑ったことも、一度や二度ではない。

 その判官が今、自ら未来を約束するような言葉を口にしたのである。

 驚かぬはずがなかった。

 冷泉判官が指を折って条件を告げる。


「一つ、軍中の誰しもが認める大功を挙げること。二つ、大内軍を勝たせること。よいか」


 舵之丞の顔が、ぱっと輝く。


「やるやるやるやる、やります! 絶対にやります! わぁー」


 目を輝かせて声を弾ませるその様は、戦場に赴く武者というより、褒美を与えられた少年そのものであった。

 判官の口元が、ほんのわずかに緩む。

 この舵之丞という若武者は、心が躍るほどに力を発する。

 それを判官は、日々の鍛錬でよく知っていたのである。

 その眼差しには、期待の光が宿っていた。

 五郎は舵之丞に手を伸ばして、肩を小突く。


「よかったじゃねえか、舵ィ」


 舵之丞は満面の笑みで何度も強く頷いた。


「ところで、判官どの」


 五郎は、すぐに次の話に移った。


大山祗(おおやまずみ)大祝(おおほうり)の娘が陣代に立ったと聞くが、その娘、何者か存じているか」

「耳にしたことはある」


 海のこととなれば、大内家中で冷泉判官の右に出る者はいない。

 大三島の大祝家についても、判官はその動静をすでにつかんでいた。


「名は、(つる)という」

「……!」


 判官がその女将の名を挙げた瞬間、舵之丞の顔から笑顔が消えた。

 鶴という名が、舵之丞の胸に妙に引っかかった。

 五郎は興味深そうに判官の話を聞く。


「ほう、鶴か。兄の右近(うこん)も、なかなかの武人とのことだったが」

「左様。武勇に秀でる兄と妹だと、島々では名が知れていたようだ。此度右近が流れ矢に倒れた時、その鶴が即座に軍をまとめ上げたのも、日頃から三島の連中は鶴の武を認めていた証」

「それで、三島の兵がその鶴の一声に従ったってわけか」


 判官の説明に、五郎は感心したように頷いた。

 鶴の名を耳にするたび、傍らの舵之丞もまた心を動かされている。


 話は流れるように進み、次戦の大勢は早々に定まった。

 五郎は鬼丸を連れ、早々に若山城(わかやまじょう)へと引き返す。

 陶の水軍は引き続き白井縫殿助(しらいぬいのすけ)が率いるが、次の戦さでは若山党(わかやまとう)三浦十兵衛(みうらじゅうべえ)宮川佐之助(みやがわさのすけ)が両翼を固める。

 警固衆は、小原中務丞率いる一軍が九州より瀬戸内へと回る手筈となった。


(五郎どのも、判官どのも一緒じゃないのか……残念だなぁ)


 舵之丞の顔に、不満が滲む。

 てっきり、両者と一緒に戦えるものと思っていた。

 だが、無理もない。

 五郎は周防守護代の上に筆頭家老。

 当然、大内家中で最も多忙である。

 猛将江良鬼丸を伴い、先の出雲(いずも)遠征の失敗を機に離反していった各地の国衆の討伐に奔走していた。

 一方の冷泉判官もまた、警固衆全体を統べる身。

 その大半が北九州の海上警固に努めている今、自らもまた西へ赴かねばならない。

 西国随一の陸将と水将。

 その両才を間近で学べないことが、舵之丞には歯痒かった。

 冷泉判官はその想いを、表情から読み取る。


「そう落胆するな、舵之丞。将見習いとして小原に従わせる。だが、戦さ場では岩国水軍を、おぬしが直接指揮するとよい」

「……えっ、いいんですか!?」


 弾かれたように、舵之丞が顔を上げる。

 岩国水軍は今や警固衆に編入され、小原軍の一部として扱われている。

 旧来の岩国将兵もまた、皆その指揮下にあった。

 冷泉判官が小さく頷く。


「岩国勢二百を遊軍とし、おぬしに託す。存分に励め」

「は、ははっ」

「そして一人、母衣(ほろ)武者をおぬしに添える。おい、いるか」


 判官が(ふすま)の向こうへ声を投げた。

 畳を踏む軽い足音が近づき、襖が勢いよく左右に開く。

 一人の少年武者が、満面の笑みを浮かべて立っていた。


(かじ)さぁん!」

禰太郎(ねたろう)!」


 二人は駆け寄り、抱き合って笑った。

 舵之丞の一つ年下の少年、大井(おおい)禰太郎である。

 甲斐国(かいのくに)の武士の子であったが、父を戦さで失い、母とともに遠縁を頼って山口へ落ち延びてきた。

 その遠縁とは冷泉判官の妻であり、その縁で判官は禰太郎を水軍で預かった。

 だが武芸には身が入らないようで、稽古の最中にも居眠りしてしまうような、覇気のない少年であった。

 その禰太郎が、弘中舵之丞が見習いとして警固衆に入って来てから変わった。

 歳の近い舵之丞の背を追い、武芸の稽古に打ち込むようになったのである。

 弘中家では末子である舵之丞にとっても、弟ができたようで嬉しかった。

 二人は共に鍛錬し、共に叱られ、共に怒鳴られ、共に悪さをして罰を受け、共に失敗して説教を食らい、共に成長してきた。

 結局叱られてばかりだったが、いまや禰太郎の顔に、かつての陰はない。

 兄と慕う舵之丞のもとで初陣できると知ったその笑顔は、はち切れんばかりだった。

 冷泉判官の口元が、わずかに緩む。

 舵之丞は勢いよく立ち上がり、拳を握って見せる。


「華々しい軍功に、大内の勝利——。それで岩国水軍は弘中に戻るんですよね。やりますよ。やってやりますよー! な、禰太郎!」


 舵之丞は弟分の禰太郎の肩を叩く。

 禰太郎は力いっぱい頷いた。


「うん! ……おいらは弘中家は全然関係ないけどね」


 あまりにきっぱり言われて、舵之丞は思わず苦笑した。




(つづく)

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