終幕(二) 舵之丞その後
三島水軍陣代・越智鶴との死闘を経て、岩国水軍を弘中家へ取り戻した弘中舵之丞は、元服して市郎包明と名乗った。
兄・弘中隆包が安芸守護代として国政にあたる傍ら、市郎は岩国水軍を預かり、瀬戸内の安寧と交易の発展に力を尽くす。
足利将軍家に仕えた太平記読みの御噺衆を源流とし、西日本に今も残る講釈士早鞆流という講談の流派がある。
そこに口伝されてきた講談には、弘中市郎に関するこのような噺があるという。
大三島海戦から、二年後のこと――。
弘中市郎は兄の進める安芸経営を海から支えるべく、暇さえあれば領内の海岸を巡察していた。
その日もまた、安芸の入海を視察していると、太田川河口近くの浜で数人の部下と船の手入れをしている、大柄な髭面の男が目に入った。
市郎は船に近づき、気軽に声を掛ける。
「おっちゃん、あんた何者? 海賊?」
男は振り返り、髭を揺らして笑った。
「なんだ若いの。おまえは商船と賊船の区別もつかんのか」
「商船ってことは、商人?」
「そうだよ。この貧しい土地を少しでも豊かにしようと商いをがんばってる、九郎左というおっちゃんだよ」
堀立九郎左衛門という海上商人であった。
太田川河口の祇園町を拠点とし、上流の荘園からの年貢の輸送から、赤間関や博多港の交易の仲介まで、幅広く水運業を手掛けているという。
話してみると、ただの商人ではない。
堀立家は元は武家らしく、領国経営や物流についても独自の見識を持っていた。
市郎はその話に強く惹かれた。
以来、堀立の店にたびたび足を運び、商いについて教えを受けるようになる。
ある日のこと。
「なるほどなあ、領国発展には、金なんだね」
市郎は腕を組んで、うんうんと頷いている。
「じゃあ、安芸の海岸にはまだまだ、港湾と市が足りないな」
九郎左衛門は感心した。
「市郎。おぬし、どこの武士か知らんが、理解が早いな」
「まあね」
「武士という連中は、金の重みを知らんものだがな。己の体面ばかりで」
先の安芸守護である武田家と軋轢があったらしく、九郎左衛門は武家への偏見を吐く。
市郎は公家化しつつある主家大内を思い出し、鼻で笑う。
「まあ、武家はどこも似たようなもんかな」
「阿呆よの。金さえあれば、買えぬものなどないというのに」
九郎左衛門は武家社会の不条理を笑う。
市郎は素早く返す。
「そうかなー。金でも買えないものはあるよ」
「なかろうが」
九郎左衛門は鼻で笑う。
だが、市郎は屋敷から見える穏やかな瀬戸の海に目をやり、呟くように答える。
「たとえば……オレの夢とかさ」
春の陽を受けた海面が、穏やかにきらめいている。
いつかきっとあの海に、安寧をもたらし、豊かにする。
そんな海を、見せたい相手がいる。
それが――夢だ。
だが、その相手はもういない。
どれほど金を積もうとも、どれほど強く願おうとも、その相手は帰ってこないのだ。
「ははは。禅問答みたいだな」
市郎は海を見つめながら、高らかに笑った。
そんな市郎の様子を見て、堀立九郎左衛門は苦笑する。
「市郎は明るいな。うちの娘も、せめておぬしの一割でもいいから、笑ってくれればよいのだが」
「へえ、娘さんいるのか。九郎さんに似て、厳つい顔かい」
市郎は九郎左衛門の髭面を見ながら、やはり笑う。
「いや、幸いにもわしに似ずに、整った顔立ちだぞ。だが――」
「だが?」
「一度も笑ったことがない。部屋からも出てこない娘でな。わしも先々を心配しておる」
「美人なのに、引きこもりなんだ」
「ああ。良き出会いもなければ、嫁にも出せん。真鶴という娘なのだが――」
「……! 何だって!?」
市郎の声が変わった。
思わず九郎左衛門の両肩を掴み、強く揺らす。
「名前、何て言った!?」
「真鶴だ。堀立真鶴」
「……!」
市郎は息を呑む。
脳裏に、懐かしい声が駆け巡る。
(でも、その射止める鶴は、私じゃない――あなたが心を射止める真の鶴は、きっとこの海のどこかにいる)
心臓が大きく脈打った。
「九郎さん、娘さんに会わせてよ」
「どうした急に。娘は人に怯えて口も開かんぞ」
市郎の顔からは笑みが消えている。
「それでもいい。話がしたいんだ」
真剣な眼差しに、九郎左衛門は呆気に取られながらも、何か光明のようなものを感じた。
この若武者であれば、もしや――。
九郎左衛門は市郎を奥の廊下へと案内する。
閉ざされた奥の間。
笑わぬ娘はその中で、来る日も来る日も窓辺に座り、遠くの海を眺めているという。
笑うこともなく、話すこともなく、ただ静かに。
「真鶴……。父だ。開けるぞ」
九郎左衛門は低い声で伝えると、そっと襖に手を掛ける。
だが、市郎もその襖をつかみ、勢いよく引き開いた。
パァァァン!
乾いた襖の音が、大きく屋敷に響く。
窓辺に座っていた若い娘の肩が、びくりと震える。
ゆっくりと振り返った。
手入れもされず長く伸びた、艶のない黒髪。
血の気の薄い白い肌。
元気なく丸まった背中。
怯えた瞳。
だが――。
市郎は部屋に入り込むと、すぐに娘に駆け寄って膝をつく。
至近距離で目が合う。
市郎は息を呑んだ。
似ている――。
驚くほどに、あの日の彼女に似ていた。
もちろん、違う。
彼女のような凛々しさはなく、細く頼りない身体。
彼女のような強さはなく、希望の色を失った眼差し。
生まれ変わりと言うには、歳も近すぎる。
何もかもが、彼女とは違う。
市郎の額に残る古い斬り傷を見ても、娘は何の反応も示さない。
だが、その顔立ちはどう見ても彼女だった。
「……鶴どの……」
思わず、市郎の口から名が漏れる。
娘は市郎の目を見つめたまま、冷たく答えた。
「真鶴ですが。あなたは、どなたです」
当然のような疑いの眼差し。
市郎の目に涙が一瞬浮かぶ。
だが、次に笑いが込み上げてきた。
「あははは、真鶴どの」
まるで、あの鶴に話しかけている気がした。
もっとも、相手は彼女よりずっと冷たい。
「いきなり人の顔を見て笑うとは、無礼ではありませんか」
「あははは、そうだね」
「あなた、私よりも年下ですよね? 馴れ馴れしすぎます」
真鶴はぷいと窓へと向き、再び海を見た。
市郎は笑っている。
(……なんと……)
二人の様子を見て、恐る恐る部屋に入っていた九郎左衛門は唇を震わせている。
一度も声を聞いたことがない娘が、普通に声を発して話している――。
九郎左衛門の目に、涙が溜まっていく。
「真鶴どの!」
市郎が明るく呼びかけた。
真鶴がうんざりしたような声で返す。
「何ですか」
「海を見たくないか?」
予想外の質問に、真鶴は眉をひそめながらゆっくりと振り返った。
「見えてますが。ここから毎日見ています」
「もっともっと広い海だよ! 海はもっと大きいんだ」
市郎は両手を大きく広げる。
真鶴の声は、なおも冷たい。
「知ってます。でも、海は海です」
それでも、市郎は笑った。
「一人で見る海と、二人で見る海が、同じなもんか」
市郎は再び真鶴の前に膝を折ると、その目を見据えて言う。
「オレはこんなにも、人に海を見せたいと思ったのは初めてなんだ」
真鶴は相変わらず無表情だった。
だが、その瞳には明らかに戸惑いが浮かんでいる。
「私も、知らぬ人にいきなり笑われて、こんなにも不愉快なのは初めてです」
「だったら、次の初めてを始めようぜ。真鶴どの!」
市郎は両手で、真鶴の手を包み込む。
真鶴は市郎の瞳を見つめたまま、訊く。
「どこへ行くのです」
「どこへでも。海のことなら、オレに任せろ」
「嫌だと言ったら?」
「オレもこの部屋で、一緒に海を見るよ」
「小さい海なのに?」
「言ったろ。一人で見る海と二人で見る海は、違うんだ」
「変な人」
「でも、二人で見る小さな海より、二人で見る大きな海のほうが、もっと――」
そこから二人は、見つめあったまま会話が止まる。
言葉など必要がなく、目で語っているかのように。
「では――」
真鶴は口を開くと、静かに市郎の手を外した。
そして姿勢を正し、三つ指をついて、深く頭を下げる。
「堀立真鶴、ふつつか者ですが、末長くお願い申し上げます」
市郎も慌てて頭を下げた。
二人は照れながら、同時に窓の外へと目を移し、共に遠く海を見つめた。
「……え?」
父の九郎左衛門だけが、あまりに早すぎる展開についていけず、口を開けたまま固まっている。
瀬戸の海が白い沫を上げて、きらきらと光っていた。
(最終話へつづく)




