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終幕(一) 諸将その後


 後の世に伝わる、大三島(おおみしま)海戦の後の諸将の運命を記す。


 弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)三島(みしま)水軍の陣代を討った功により、筆頭家老・陶五郎隆房(すえごろうたかふさ)警固衆(けごしゅう)提督・冷泉判官隆豊れいぜいはんがんたかとよの推挙を受け、主君・大内周防介義隆おううちすおうのすけよしたかより岩国(いわくに)水軍の継承を認められた。

 これにより、岩国水軍はおよそ二十年ぶりに大内警固衆の手を離れ、周防岩国の弘中家へと返還される。

 舵之丞は同時に元服を果たして、市郎包明(いちろうかねあき)と名乗った。


 兄・弘中小太郎隆包(こたろうたかかね)安芸(あき)守護代として国政にあたる傍ら、市郎は海よりこれを支えた。

 後に、安芸太田川(おおたがわ)河口の海上商人・堀立九郎左衛門直正ほたてくろうざえもんなおまさの娘を娶る。

 義父となった堀立直正もまた、弘中隆包の経済顧問となって安芸発展に力を尽くすこととなる。


 その後、大内家中では武断派と文治派の対立が深まり、内紛の兆しを見せるようになる。

 天文(てんぶん)十九年(一五五〇)、武断派の領袖たる陶隆房は兵を上げ、長門大寧寺(ながとだいねいじ)において主君大内義隆を自害へ追い込んだ。

 冷泉判官隆豊は最後まで主君義隆を守って戦い、その変に殉じた。

 大井禰太郎(おおいねたろう)は、冷泉判官の妻の縁を頼って平賀家の養子となり、平賀清恒(ひらがきよつね)と名乗って冷泉家に仕えていたが、大寧寺の変の後に姿を消し、帰農したという。


 陶隆房は九州大友(おおとも)家より当主義鎮(よししげ)の弟・晴英(はるひで)を大内に迎え、大内義長(おおうちよしなが)として擁立し、自らは陶晴賢(すえはるかた)と改名して軍権を握る。

 しばらくして、大内義隆の養女を妻としていた毛利隆元とその父・元就が陶晴賢陣営から離反し、挙兵。

 弘中隆包は旧友たる陶晴賢に乞われ、その副将として従軍。

 弘中家は長らく盟友であった毛利家と刃を交えることとなる。

 市郎包明は陶晴賢に疑心を抱きながらも、兄隆包に従った。


 越智鶴(おちのつる)亡き三島水軍の将兵は、村上水軍の庇護を受けた。

 やがて因島(いんのしま)来島(くるしま)能島(のしま)の村上氏が、三つの島ゆえに総じて「三島水軍」の名を受け継ぐこととなる。


 陶晴賢の第一の忠臣として知られる猛将・江良鬼丸房栄(えらおにまるふさひで)は、毛利家の離間計によって主君の疑いを受け、弘中兄弟との死闘の末に誅殺される。

 宮川佐之助房頼みやがわさのすけふさよりも、折敷畑(おしきばた)の戦いで毛利に討たれ戦死。

 天文二十四年(一五五五)十月一日、大内軍と毛利軍は「厳島の戦い」にて雌雄を決することとなる。


 弘中隆包は敗北を予見しながらも、友情を捨てることなく陶晴賢を守り厳島へと渡海した。

 弘中一族はことごとく当主隆包に従ったが、弟の市郎だけは岩国水軍と共に岩国に留まり、参陣しなかった。

 村上三島水軍も陶方を離れ、毛利方に加勢する。

 陶の軍勢は毛利軍の八倍に及ぶ兵力を有しながら、暴風雨の中で奇襲を受けて総崩れとなった。


 三浦十兵衛房清みうらじゅうべえふさきよ伊香賀壱次郎房明いかがいちじろうふさあき

は、主君晴賢を守って討死。

 陶晴賢もまた、厳島の浜辺において自刃。

 最後まで峻険の龍ヶ馬場(りゅうがばば)にて抗戦していた弘中隆包も、毛利軍の包囲を破れずに討たれた。

 陶晴賢の首は近習によって隠され、しばらく所在が知れなかった。

 浜に残された首無き遺骸には、無数の槍傷があったと伝わる。

 また、厳島を封鎖していた毛利方の小早川隆景(こばやかわたかかげ)乃美宗勝(のみむねかつ)は、霧深き海の上に、鉤槍(かぎやり)を携え額に金属を輝かせる武者の乗る船影を見たともいう。



 毛利元就・隆元父子は、厳島の勝利を機として大内勢力を駆逐し、その版図を次々と併呑していった。

 やがて山口の大内義長もまた長門長福寺(ちょうふくじ)にて自害し、大内家は滅亡。

 かくして毛利家は大内家の旧領を継承し、西国最大の大名へと成長した。


 主家滅亡の後、出家していた弘中市郎包明は、義父の堀立九郎左衛門直正と共に毛利家に召し出される。

 市郎は還俗し、毛利の一将・児玉就方(こだまなりかた)の水軍に入る。

 就方の一字を賜り、弘中方明(かたあき)と改名した。


 また「若山の五房」の唯一の生き残り・白井縫殿助房胤もまた、毛利水軍に属した。

 小山弥右衛門(こやまやえもん)は、厳島にて戦死した弘中隆包の遺児を農村にて匿い、養育したと伝わる。

 平賀清恒となった大井禰太郎は、周防厚狭(あさ)にて長く世を避けて暮らした。

 三年以上寝続ける奇妙な毎日を送り、村人から気味悪がられていたが、ある日忽然と飛び起きて厚狭川(あさがわ)の堤を完成させ、村を水害から守る。

 この逸話は、「三年寝太郎」という民話として後の世に語り継がれている。


 弘中方明は終生鉤槍を手放さず、瀬戸内の海の安寧に尽くした。

 九州豊前の大友義鎮と関門海峡の覇権を争った門司城(もじじょう)の戦いでは、大友方の名将・戸次鑑連(べっきあきつら)との凄絶な一騎打ちを演じた、と講釈士早鞆流の講談にて後世に伝わる。

 また木津川口(きづがわぐち)の戦いでは織田信長(おだのぶなが)の水軍を急襲し、多数の大船を焼き崩したともいう。


 瀬戸内の海を東奔西走しながら戦い続けた弘中方明は、嫡子に家督を譲った後は、妻と睦まじく瀬戸の美しき島々を巡り、輝かしい海を眺めたという。

 弘中方明の家系は、後に毛利長州藩の藩士として続いた。

 厳島の戦いで弘中一族の多くは滅んだが、その血脈は絶えなかった。

 今なお、山口県には弘中姓の者が多く残る。

 また、方明が兄隆包と礎を築いた安芸国、現在の広島県は、いまや中国地方最大の都市圏を形成している。


 そして瀬戸の内海は――。

 幾百年の歳月を経た今もなお白い沫を上げて、西国に富と安らぎをもたらしている。



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