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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第三幕 生死の血沫
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其の二十五 約束


 御前で頭を下げている、直垂(ひたたれ)姿の弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)

 戦さ場ではないにも関わらず、その額には鉢金(はちがね)を据えた白い鉢巻が巻かれている。


 周防山口(すおうやまぐち)大内館(おおうちやかた)

 当主大内義隆(よしたか)の御前にて、評定(ひょうじょう)が開かれていた。

 評定衆(ひょうじょうしゅう)と呼ばれる重臣が一堂に会し、国の大事を議する場である。

 上座に向かって左列には諸国の守護代たち武官、右列には右筆(ゆうひつ)や奉行人ら文官が列をなし、広間には張り詰めた静寂が満ちていた。

 本来ならば、十二名の評定衆が列席する。

 だがこの日は、安芸(あき)守護代の弘中小太郎隆包ひろなかこたろうたかかねのみが、備後(びんご)神辺城(かんなべじょう)攻略のために不在であった。

 代わって齢十三の弟・舵之丞(かじのじょう)が列席している。

 代役とはいえ、評定衆の席に元服前の若武者が列することなど、前例にない。

 この日の評定における第一の議題が、他ならぬ弘中舵之丞の論功行賞と岩国水軍についてである故、特例となった。


 広間の中央。

 話題の中心にありながら、舵之丞はただ静かに頭を下げている。

 武官列の最前に座す筆頭家老、周防(すおう)守護代の(すえ)五郎隆房(たかふさ)が、先の大三島(おおみしまかいせん)海戦の戦況と共に、その功を述べていた。


「弘中舵之丞は敵将越智鶴(おちのつる)を将船へ追い詰めて討った。首級こそ持ち帰ってはいないが、敵将より奪いしその鉢金の鉢巻が何よりの証。将船を燃やし沈める様子は、この陶隆房をはじめ諸将も確かに見届けている。よって弘中舵之丞の軍功、疑う余地はないと思うが」


 五郎は誇らしげに主君と諸臣に述べる。

 だが当の舵之丞は、黙して頭を垂れている。


「いかがかな、判官(はんがん)どの」


 五郎は視線を、警固衆(けごしゅう)提督・冷泉判官(れいぜいはんがん)へと移した。

 判官は武人でありながら文官列に座している。

 舵之丞は三年前より、冷泉判官が水将見習いとして預かっている。

 いつもの厳しい面差しで、判官が口を開く。


「大功、勝利。それがしが与えた二つの条件を、舵之丞は成した」


 広間が静まり返る。


「岩国水軍を警固衆より離し、周防弘中家へ返還すること、それがしに異議はなし」


 判官の言葉に、たちまち評定衆の間にざわつきが広がった。

 大内の守護代職は長年、本家の傍流縁戚の名門が占めてきた。

 その中にあって、弘中家は異色である。

 かつては没落の憂き目を見ていた一族で、ここ三代の抜擢により再興を果たした新参の家格であった。

 その弘中が三年前に安芸守護代となり、さらに今また大功を挙げた。

 名族というものは既得権益を危ぶみ、変化を嫌う。

 この論功に面白からぬ思いを抱く者が多い。

 しかし、その空気を断ち切ったのは五郎であった。


御屋形様(おやかたさま)、いかがにござりましょうや」


 筆頭家老の言葉は重い。

 その意見は、そのまま評定衆の総意にも等しい。

 上座に座す大内義隆は、しばし黙していた。

 細身にして色白。

 公家を思わせる優美な風貌でありながら、その眼差しには百臣を束ねる武家の棟梁としての威厳が宿っている。

 義隆は手にしていた扇子をぱちりと閉じる。


「舵之丞。面を上げよ」

「はっ」


 舵之丞が顔を上げ、義隆を見据えた。

 義隆は静かに問いを投げる。


(なんじ)に訊く。汝が岩国水軍で励むは、何が為ぞ」


 義隆が好む、お決まりの問いであった。

 問われた家臣は主家への忠節を述べ、その志を明らかにする。

 論功行賞の折ごとに興じられる、大内家の古き慣わしである。

 舵之丞は一瞬たりとも迷わなかった。


「瀬戸内の民のためにございます」


 その答えが放たれた瞬間、広間の空気が変わった。


「何だと!」

「無礼な!」


 重臣たちから非難の声が上がる。

「何が為ぞ」の問いへの返答は決まっている。

「大内のためにございます」

 それが代々続く評定の作法である。

 舵之丞の返答は、その慣例を真っ向から破るものだった。

 怒号が捲き起こる。


 だが、陶隆房は口元を歪めて笑っていた。

 冷泉判官は目を閉じたまま動かない。

 そして、大内義隆のみが興味深げに舵之丞を見つめていた。

 舵之丞は、さらに言葉を継ぐ。


「言うなれば、過去の瀬戸内の民、今を生きる瀬戸内の民、そしてこれからの瀬戸内の民のためにございます」


 広間に低いどよめきが走った。


「黙れ小童!」

「この場を何と心得る!」


 怒声が飛び交い、立ち上がる者さえあった。

 だが、義隆は冷静に聞いている。


「ほう、その心は」


 まるで学僧の問答を楽しむかのような声音である。

 舵之丞は怯まず答える。


「瀬戸内の海は京への道。これを安んずれば、人も物も巡ります。人が巡れば国は富み、国が富めば世は栄え、世が栄えれば天下は安んずる」


 諸将が息を呑む中、舵之丞は続けた。


「そして、それを成そうとしておられるのが、御屋形様でございます」


 義隆は静かに頷く。


「なるほど」


 静かな笑みが浮かんでいる。


「つまりは大内のため、ということだな」

「御意にございます」


 舵之丞は頭を下げた。

 先ほどまで声を荒げていた重臣たちは口を閉ざす。

 主君の意を測れずに感情に流れたことを悟ったのである。

 義隆は感心して言った。


「その通りぞ、舵之丞」


 それは、諸臣へも聞かせるような声でもあった。


「天下は山陰山陽だけを支配するのみでは成らぬ。瀬戸内の恵みこそ西国の礎。わしもまた、そんな世を望んでおる」

「なれば、御屋形様」


 舵之丞は姿勢を正して述べる。


「その御志(おんこころざし)を支えるべく、この舵之丞、瀬戸内の海を守ってご覧に入れます」


 額の鉢金が静かに光る。


「大内の(ことわり)に背き、この海を脅かす者あらば、我が鉤槍(かぎやり)で滅多刺しにいたします。何人たりとも、瀬戸の海の安寧は乱させませぬ」


 十三の少年とは思えぬ言葉であった。

 評定の空気は変わる。

 諸将は息を呑み、その覚悟の重さに沈黙した。

 陶隆房は弟分の成長を感じ取り、喜びに笑う。

 冷泉判官は目を閉じたまま、ゆっくりと頷いている。

 やがて大内義隆は膝を打った。


「よう申した」


 広間に強く響く声。


「警固衆預かりの岩国水軍、これより弘中家へ返還とする」


 その決定に、諸臣が頭を下げて理解の意を示す。

 義隆はしっかりと舵之丞の目を見た。


「頼むぞ、舵之丞」

「はっ」


 舵之丞は、深く平伏した。

 これまでの人生で、最も深く。


「ありがたき幸せにございます!」


 その声は、万感に震えている。

 だが、夢が叶ったのではない。

 これから、夢に向かうのである。

 託された夢に。


 平伏する舵之丞の眼下の床へ、ぽたりと雫が落ちた。

 さらに一つ。

 また一つ。

 その雫は、小さな沫となって跳ねた。 



(終幕へ)


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