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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第三幕 生死の血沫
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其の二十四 崩壊


 灼熱の業火が燃え盛る音。

 焼き崩れ始めた将船の軋む音。

 吹き荒ぶ風、砕ける波濤――。

 そのあらゆる音が、二人の耳には届いていなかった。

 まるで時が止まったかのように、二人は動かない。


 ただ――。

 弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)の淡い群青の鉢巻は断ち切られ、露わになった額から鮮血が流れている。

 鶴の振り下ろした太刀の切先が、その眉間を裂いていた。

 見つめ合う二人。

 唇を震わせている舵之丞へ、(つる)は優しく笑う。


「負けだよ――」


 その笑んだ口から、美しい声が漏れる。


「私の――」


 舵之丞は固唾を呑み、そして気づく。

 振り下ろされたはずの太刀が――鶴の両手の中にない。

 いつの間にか鶴の手を離れ、甲板を転がっていた。

 鶴の瞳へ視線を移した舵之丞は、目を見開く。


 長き討ち合いの間、どこまでも涼やかな余裕に見えた鶴の顔。

 だが、その頬は既に煤に汚れ、波沫に濡れ、長き重責に耐え続けた疲労を隠しきれていなかった。

 見せる笑顔の奥では、苦痛が表情を歪めている。

 舵之丞の槍先が――鶴の脇腹に深々と突き刺さっていた。

 槍の柄を伝い、鮮血がぽたりぽたりと甲板へ滴り落ちる。

 鶴は空いた手で槍をつかみ、眉一つ動かさず自ら引き抜いた。

 鮮血が散る。


 舵之丞は、その場でがくりと膝を折り、項垂れる。

 対する鶴は、凛とまっすぐ立っていた。

 どちらが勝者で、どちらが敗者か――。

 二人を知らぬ者が見れば、必ず見誤るであろう光景だった。

 頭上で燃え落ちた梁が爆ぜ、火の子が二人の間へ降り注ぐ。

 それでも二人は、互いの目を逸らさない。


「……勝ってねえよ……。咄嗟(とっさ)に出した槍で……」


 舵之丞の声は震えている。

 悔しさなのか、情けなさなのかは、自分でも分からない。


「それが……あなたの強さだよ」


 鶴の声音には、不思議なほど揺らぎがなかった。


「私は負けた。もう動けない」


 炎がさらに勢いを増し、船体が大きく軋む。


「オレは……」


 舵之丞の瞳に涙がにじむ。


「ちゃんと超えたいんだ、あんたを……」


 舵之丞は歯噛みしながら、鶴を見上げる。

 鶴はその顔を見つめ、静かに笑った。


「水軍の要は、(ことわり)――」


 火の粉の飛び交う中で、鶴は強く語る。


「武具も、船も――水軍の全ては理で作られている」


 まるで、師匠が愛弟子に語るかのような眼。


「舵之丞、水軍では理を重んじて。……そんな理のない、ただの鉢巻を巻いているから、額を割られるの」


 そう言って鶴は、自らの頭に巻かれた鉢巻に手を伸ばす。

 血に濡れた指で、結び目をほどいた。


「この鉢巻の鉢金は、飾りじゃない。この鉢金が額を守り、流血を防ぐ。あげるよ、あなたに」


 鶴はその鉢巻を差し出す。

 舵之丞は震える手を伸ばし、それを受け取って握り締めた。

 その目は涙に潤む。

 鶴はそれを見て、優しく目を細める。


「舵之丞……。岩国の(はやぶさ)が、瀬戸の鶴を射止める、って神のお告げの話――――」


 その言葉に、舵之丞の胸が跳ねた。

 自分が最も確かめたかったことは――その神託の真意だった。


「射止めるって、とどめを刺すことだけじゃない」

「……」

「相手の意を射抜く、心を奪うって意味もある」

「えっ……」


 思いもよらぬ答え。

 舵之丞の頬が、わずかに熱を帯びる。


「でも、その射止める鶴は、私じゃない――」


 言いながら、鶴は懐に手を入れる。

 取り出したものが、白く光った。

 それは、白鶴の羽を模した細工がついた、一本の(かんざし)だった。


「あなたが心を射止める(まこと)の鶴は、きっとこの海のどこかにいる」


 燃え落ちた梁が背後で崩れ、轟音が響く。

 だが、鶴の穏やかな声は、不思議と舵之丞の耳に届く。


「その子に出会えたら、あなたの守る美しい海を見せてあげて」


 舵之丞は何も言えず、息を呑んでいる。

 羽の簪を撫でながら、鶴は言った。


「私は大祝(おおほうり)家の者として、幼い頃に女は捨てた。だから――あなたが射止める鶴は私じゃないの」


 ふっと笑う。


「これは、亡き母上がくれたもの。私の名に合うようにとくださった髪飾り――」

「……」

「一度もつけたことのない簪……。一度くらい、つけよっかな」


 鶴は白羽の簪を、無造作に束ねた髪に不慣れな手つきで差し、舵之丞に照れたように微笑んで見せた。

 世を去る前に一度だけでも、誰かに女としての飾った姿を見せたかったのかもしれない。

 煤と潮に汚れきった、陣代の女の顔。

 しかし、何よりも輝いて見えた。

 舵之丞の頬を、ひとすじの涙が伝う。


 炎は勢いを増し、将船を呑み込んでいく。

 焼けた梁が崩れ落ち、船体全体が凄まじい音を立てた。

 熱風が吹き抜け、灼熱の火焔が二人を包囲するように迫り来る。

 遠くから小さく、叫び声が聞こえる。


「若ぁぁ! 若ぁぁぁぁっ!」

(かじ)さぁぁぁん! おーい、舵さぁぁぁん!」


 小山弥右衛門(こやまやえもん)大井禰太郎(おおいねたろう)の声に違いない。

 鶴は小さく頷く。


「さあ、行って……。あなたには、待っている人がいる」

「だったら、あんたも……」


 舵之丞は思わず手を伸ばした。

 だが鶴は一歩下がると、優しく首を横に振る。


「みんなには、陣代を待つなと言ってある。それに……もう動けないの」


 鶴は気丈に立っているが、脇腹の傷は深かった。

 鮮血は今も止まらず、すでに足元を濡らしている。


「もう行って」


 静かなれど強い声。

 立ち尽くす舵之丞へ、言い放つ。


「最後まで、あなたが超えられない敵でいさせてよ」


 鶴はどこまでも澄んだ瞳で続けた。


「あなたは、生きて超えていくの――もういない私を」



 バキバキバキッ……!!

 帆柱が悲鳴を上げるように裂け、灼熱の甲板がぐらりと大きく傾く。


「……っ!」


 舵之丞は何歩もよろめいた。

 だが、鶴は一歩も動かずに立っている。

 澄んだ瞳。

 晴れやかな微笑み――。

 まるで春の海を前に、未来を語る時のような顔であった。

 だが、それはすぐに、大きく燃え上がった炎の中にかき消されて見えなくなった。


 船が火焔の中で焼け崩れていく。

 一刻の猶予もない。


「禰太郎ぉぉぉぉっ! 弥右衛門ぉぉぉん!」


 舵之丞は腹の底から、大きく海へ叫ぶ。


「はいはいーーーー! ここにいまーす!」

「若ぁぁ、ここです!!」


 すぐ下から声が返った。

 二人は危険を承知で、真下に小舟を寄せている。

 大きな炎の向こうから、風に乗るように、誰かの声が聞こえた気がした。


(任せたからね――! この海を――)


 だが、炎の中にはもう、彼女の姿は見えなかった。


「くそぉぉぉぉっ!!」


 舵之丞は吼えた。

 怒りとも、悲しみとも、悔しさともつかぬ感情を乗せて。

 そして力の限り、船縁を蹴って跳ぶ。

 熱風の宙。

 眼下に、二人の乗る小早が見えた。


「若ぁっ!」


 弥右衛門が両手を広げる。

 落ちてくる舵之丞を全身で抱き止め、その衝撃で小早は大きく揺れた。

 手から離れて海に落ちそうになった鉤槍を、舵之丞は空中で掴み取り、大きく振り払う。

 焼け落ちてきた船体の木材を払い除け、直撃を防いだ。

 またも舵之丞に守られたことに、弥右衛門が恥じて言う。


「すみませんっ、若っ」

「行こう! これからもずっと」


 舵之丞は弥右衛門の身を起こしながら言う。

 弥右衛門は強くうなずき、禰太郎に並んで櫂を取る。

 炎に包まれた巨大な将船が、轟音と共に崩れ落ち、火柱が天へと噴き上がる。


「つかまってねーー!」


 禰太郎は叫ぶと、猛烈な勢いで櫓を漕ぎ回した。

 何日も眠り続けて存分に蓄えた力を、全て吐き出すかのように。

 弥右衛門も負けずに漕ぐ。

 小早がぐんと前に進んだ。

 舵之丞は、波に落ちないように縁にしがみつく。

 降り注ぐ炎の残骸、砕ける帆柱、燃え落ちる梁――。

 次の瞬間。

 燃え盛る関船の遺骸が大きく傾き、轟音と共に海へ沈み始めた。

 周囲の海面が盛り上がり、小早はその波に持ち上げられて押し流される。


 間一髪で、炎の崩壊を逃れた。


 舵之丞は額から流れる血を拭いながら、振り返る。

 燃え上がっていた火焔は次第に波に呑まれ、黒煙へと変わる。

 そして、全てが、ゆっくりと大海の底へと消えていった。



 舵之丞は見つめ続けた。

 その沈む姿が見えなくなり、黒煙が風に散った後も。

 握り締める手の中には、鉢金入りの鉢巻。

 それだけが、あの死闘が夢ではなかったことを伝えていた。 

 舵之丞は洋上を見つめながら、呟く。


「同じ夢を目指している者でも……、一緒にその夢を見ることって、できないのかな……」


 戦国の世の無情を語ったその声は、震えている。

 あの燃える船上で舵之丞が何を見たのか、弥右衛門と禰太郎は察する。


「若……。私は一緒におります」

「おいらもいるよ、舵さん」


 二人の精一杯の言葉。

 舵之丞は鉢巻を握った手の甲で、眼を拭った。


「……帰ろう」


 海へと沈んだ幻影から、舵之丞の目は現実の二人へ移る。


「これからやること、山ほどあるぞ!」


 舵之丞は将としての顔で、二人に命じた。

 その言葉は、大きな夢に(あふ)れていた。




 天文(てんもん)十二年(一五四三)六月十五日。

 筆頭家老・(すえ)五郎隆房(たかふさ)を総大将とする大内軍が大三島(おおみしま)を攻め、女陣代の討死によって三島水軍は降伏。

 大三島は大内軍の支配下に置かれたと後世に伝わる。


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