其の二十三 火焔
「姫さまぁ、姫さまぁぁっ!」
「ええい、泣くなぁっ!」
揺れる小早の上で泣き叫ぶ水夫たちを、一人の古参水夫が叱りつけた。
だが、その男の頬にもまた涙が伝っている。
「わしらがいつまでも悲しんでおれば、鶴さまもきっと悲しむ。鶴さまのように……わしらも強くいようや」
練達の水夫の言葉に、皆が静かにうなずく。
誰もが振り返りたい気持ちを押し殺して、櫂を漕ぐ。
随分と漕いで進んだところで、一人が衝動に駆られて後ろを振り向いた。
つられて皆が櫂を止め、目を向ける。
朱塗りの線が船腹に描かれた三島水軍の将船は、小さく見えるほどに遠くになっていた。
「姫さま……」
水夫たちはつぶやく。
大声で姫の名を叫べば自分の気は狂ってしまうかもしれない、と皆が自制している。
越智鶴は、将船から三島水軍の者たち全員を退避させていた。
自分だけをこの船に残すようにと言い残して。
陣代だけができる責務をここで果たすために、残る。
鶴の意思は固く、三島兵たちは泣きながらその命に従った。
脱出用に積まれていた二艘の小早に皆が乗るのを確認して、鶴は甲板より微笑んで見送っていた。
いつも優しく笑いかけてくれたあの顔を見ることも、もうないだろう。
皆、泣いていた。
「鶴さまは、越智の者として覚悟を決められたのじゃ。わしらの命を守るために……。そのお心を、無駄にしてはならん。行こう」
古参の水夫が、悲しみを押し殺して皆に言った。
三島水軍の水夫たちは涙を拭って櫂を握り直す。
そして、鶴が庇護の約定を取り付けているという村上水軍の拠点へ向けて舟を進めていった。
漕ぎ手を失って大海原に取り残された一艘の将船は、ぐらりぐらりと揺られながら、静かに軋む。
船の上には、鶴ただ一人。
(この船は、大三島を守るために陣代が乗る船――。他家に渡り、他事に使われるぐらいなら、もう要らぬ陣代と共に――)
木箱を開け、火攻め用に積まれていた油壺を手に取ると、船上へ次々と放った。
音を立てて割れ砕けた壺から溢れる油が、船上を黒く濡らしていく。
篝火に焚べられていた薪を取り上げると、その上に投げ落とす。
瞬く間に、炎が走った。
海風に煽られて炎は燃え上がり、将船はたちまち火焔に包まれていく。
揺らめく炎を見つめながら、鶴は深く息を吐いた。
(終わった――。これで私は――)
重荷を下ろしたように、肩が軽くなった気がして、鶴は笑む。
懐に手を差し入れ、何かを取り出そうとした、その時。
トン――。
背後で、誰かが軽やかに甲板に降り立つような音が聞こえた。
ドン――。
棒状の何かが、甲板に突き立てられたような音も続く。
「……ふふっ、あははは――」
笑いが込み上げてきた。
鶴は取り出しかけたものを、再び懐深くに戻す。
「みんなには、退避命令を出したはずなんだけどな」
肩越しに言い放つ。
若き声が、背後から返る。
「配下じゃないからな」
「敵だもんね」
鶴は鞘から太刀を抜き放ちながら、振り返る。
そこには、予想したとおりの人物が、炎の中に立っていた。
甲板に鉤槍を突き立て、激しく揺れる船の上でも平然と立つ少年。
「面白い――」
鶴は声を上げて笑う。
「あなたは最後まで――本当に面白いよ。舵之丞」
炎を映して紅蓮に輝く切先を、相手の顔に向ける。
少年は鉤槍を大きく回すと、素早く構え直した。
「オレは――あんたを超えるんだ。勝ち逃げなんてさせないぜ」
真剣な眼差しに、鶴は口元を歪める。
「どうして、私を超えたいの? 家のため? 大内のため?」
「この海を守るためだ――!」
舵之丞の即答。
鶴の心臓が、どくりと大きく脈打つ。
大きくなっていく胸の鼓動に、息を呑む。
「オレは……」
舵之丞が続けて語る。
「この海を守る強さを持ちたい。あんたを凌駕するぐらいの強さを――!」
口から出たのは、夢だった。
兄は安芸守護代として、陸の安寧の実現のために奔走している。
ならば弟の自分は、海を守ってそれを支えたい。
少年の夢は素朴で、だが誰よりも大きかった。
「だったら――」
鶴は微笑みながら、太刀をがちゃりと鳴らした。
「試してあげるよ。あなたが、この海を守る男になれる器か」
鶴は腰を深く落とし、構えた。
舵之丞もまた、鉤槍を握り直す。
将船は炎に包まれ始めていた。
帆柱を舐める火が爆ぜ、甲板には船の焦げる強烈な匂いと共に、熱風が吹き抜ける。
その中で二人の瞳は見つめ合う。
そして――。
何の合図もなく、同時に踏み込んだ。
刃と刃がかち合い、火花が散る。
船がぐらりと揺れた瞬間、舵之丞の槍が一直線に鋭く突き出された。
鶴は半歩身をずらしてかわす。
舵之丞は即座にその槍を引いた。
鉤が戻る。
だが、鶴は見切っていた。
先の戦さで越智左京を転倒させたその槍筋を、すでに見知っている。
戻る鉤に太刀の鍔を当てると、力を流すように払い上げた。
「……っ!」
船の揺れに足を取られ、舵之丞の身体が大きく泳ぐ。
その隙を、鶴は見逃さない。
銀光が閃く。
容赦のない斬撃が真上から振り下ろされた。
「くっ……!」
咄嗟に両手で槍を横たえ、その一撃を下から止めた。
押しつぶされそうな重みに、腕が痺れる。
目の前に迫り来る、鶴の不敵な笑み。
「どうしたの……? そんなんじゃ、私は倒せないよ?」
「……うらぁぁっ!」
舵之丞は吼えた。
揺れた船の傾きに合わせて、全身の力を槍に乗せる。
鶴は軽やかに飛んでその一撃を受け流し、着地と同時に再び斬り込んだ。
十合、二十合――。
刃がぶつかるたびに火花が散る。
炎と火花が入り混じり、甲板を紅蓮に染め上げる。
三十合、四十合――。
灼熱の船上で、なおも二人は討ち合う。
舵之丞の額から汗が噴き出し、鉢巻はすでに濡れ切っていた。
息も荒い。
しかし、眼前の鶴は違った。
まるで春風の中で稽古でもしているかのような顔。
涼しげな瞳が、炎に照らされ美しく輝く。
その余裕が、舵之丞を焦らせる。
舵之丞の焦りは迷いではなく、闘志へと変わる。
「うりゃぁぁぁっ!」
溜め込んだ力からの、渾身の突き。
この速さを防げる者などいない、そう確信したほどの会心の一撃。
だが――。
鶴は左手一本で槍の柄を掴み、上へと持ち上げた。
両腕が上がり、胴が空いた。
(しまった――!)
舵之丞の背筋が凍る。
そこへ、鶴の蹴りが腹部へと入った。
「ぐ……っ!」
避けることができず、鎧越しでなお息が詰まる。
舵之丞の身体はくの字に折れ、そのまま後方へ吹き飛ばされた。
凄まじい威力であった。
細身の身体からは考えられない、重い蹴り。
船の揺れ、波の力、己の体重――全てを一撃へと転化する。
それは舵之丞が大内水軍の中でも随一だと自負するほどの得意な戦い方だったが、鶴はさらにその上を行っている。
(負けねぇっ!)
倒れるものかと、舵之丞は両足で踏ん張る。
だが、鶴は一瞬の猶予も与えない。
甲板を蹴って、素早く前へ飛ぶ。
そして大きく振りかぶった太刀を、振り下ろした。
その一撃は、あまりにも速く、あまりにも重かった。
鈍い音が、火焔の中に響く。
宙に血沫が舞い、甲板に鮮血が飛び散った。
(つづく)




