其の二十二 離岸
大三島の宗方の浜より南。
岬に連なる丘を越えた岸に、三島水軍の将船が静かに碇を下ろしていた。
船上に自由はない。
三島の水夫たちは両手を縄で縛られ、甲板の一角に放られている。
それを見張るのは、伊香賀壱次郎と十余名の陶兵であった。
「殿がうまくやっている頃合いか……」
壱次郎は北の空を見上げ、不敵に口元を歪めた。
二日にわたり、伊香賀壱次郎は無能を装って大三島を攻めた。
三日目となる今日、主君の陶五郎隆房を無傷で上陸させるための大芝居である。
その間に島に放っていた斥候が、この南岸に関船一隻が停泊していることを突き止めた。
船腹に朱塗りの線が目立つ船。
三島水軍の陣代が乗る将船であることはすぐに分かった。
壱次郎は今朝、十数名の兵を引き連れて乗り込み、船を制圧した。
主君五郎の策で、今日中にも大三島は大内へ降るだろう。
将船を押さえているのも、万一の逃亡を防ぐために過ぎない。
本音を言えば、主君の鮮やかなる上陸をその目で見届けたかった。
船上から北を眺める壱次郎の苦笑には、そんな心残りが滲んでいた。
「……!」
壱次郎が、異変に気づく。
将船から見下ろす浜辺で、見張りに立たせていたはずの四人の兵が、地に伏している。
「どうした……」
ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
咄嗟に振り返る。
視界に飛び込んできたのは、振り下ろされる白刃であった。
壱次郎も「若山の五房」に名を連ねる豪傑である。
間一髪、その斬撃を飛んでかわすと、刀の柄に手を伸ばした。
だが、遅い。
振り下ろされた太刀は返す刃となり、そのまま鋭く突き出される。
切先が壱次郎の右肩にずぶりと突き刺さった。
「ぐっ……!」
利き腕から太刀が地に落ちる。
肩から噴き出す血を押さえながら、壱次郎は低く唸る。
「女ァ……」
眼前に立っていたのは、甲冑姿の若き女将であった。
気づけば船上の手勢はすべて血に染まり、甲板に斬り伏せられていた。
壱次郎はすぐに悟った。
その女こそが、あの三浦十兵衛を瀕死に追い込んだ越智鶴であることを。
己の目を掻い潜って船に忍び込み、十余名の兵を静かに屠っていったその豪胆さと剣技。
「くそっ、ぬかったわ……。敵ながら見事よ」
壱次郎は吐き捨てた。
鶴は素早く斬り込む。
武器なき壱次郎はその斬撃をかろうじてかわすと、甲板から身を躍らせた。
浅瀬へ落ちて飛沫を上げ、肩の傷口を押さえながら砂浜へとよろめく。
「姫さま!」
「姫さまぁ!」
両手を縛られた三島の水夫たちが、涙声を上げる。
鶴は次々と縄を断ち切って、皆の目を見ながら言った。
「みんな、お願い。船を出して」
その真剣な眼差しに、水夫たちは鶴のために奮い立つ。
「おう!」
「皆の者、行くぞ!」
自由を取り戻した水夫たちは、鶴の号令に応じ、一斉に櫂を握る。
将船は軋みを上げながら岸を離れ、沖へと進み始めた。
弘中舵之丞は鉤槍を握り締め、南へと駆けていた。
丘を越え、木立を抜ける。
後ろからは小山弥右衛門が、息を切らせて続いていた。
「はぁ、はぁ……。若っ」
身軽に山道を駆け降りる舵之丞を、弥右衛門は必死で追いかける。
だが、木の根に足を取られて、前のめりにつまずいた。
「うお……っ!」
弥右衛門の身体は宙に浮いたが、先に斜面を降りていた舵之丞が下で両手を広げて待っていた。
落ちてきた弥右衛門を、舵之丞は全身で受け止める。
甲冑がかち合い、二人は斜面で止まる。
「すみません、若っ」
「無事だな。行こう」
舵之丞は弥右衛門の肩当てをぽんと一つ叩くと、先へ走り出した。
弥右衛門は気を奮い立たせる。
この年下の若を支えていくと亡き父に誓ったのに、逆に支えられてしまうこの体たらく。
(次こそは絶対、私が若を守らねば――)
弥右衛門は強く心に叫んで、舵之丞の背を追った。
二人は林を抜け、浜辺へと出る。
潮の音が心地よく、静かに漂っている。
数人の兵が倒れており、白浜を赤黒く血で染めている。
その中を、肩から流れる血を押さえながら歩く男がいた。
主君に失態を報告すべく引き返そうとしている、伊香賀壱次郎である。
「壱次郎どの」
「……舵ィじゃねえか」
壱次郎は苦笑しながら顔を上げた。
「追ってんのは、鶴か?」
「そうだよ。もしや……」
「ああ。あいつァ、只モンじゃねえぞ……」
壱次郎は親指で肩越しに沖を示した。
舵之丞は軽く舌打ちをする。
前の戦さで乗り込んだ三島水軍の将船が、すでに岸から大きく離れて南へと進んでいる。
舵之丞は腹の底から声を張り上げた。
「禰太郎ォォォッ!」
「はいはいーーっ!」
遠くより、間の抜けた返事が響いた。
見ると、大井禰太郎が小早に乗り、一心不乱に櫂を操ってこちらに向かっている。
「あ、あいつ……! ずっと寝てたのに……」
小山弥右衛門が唖然とする。
禰太郎はこの三日ほど、岩国水軍の舟の甲板に寝転んだままほとんど起きず、今朝も眠ったままで上陸に加わっていない。
その禰太郎が、どこにいたのか分からないが、小舟で颯爽と現れた。
舵之丞は迷わず駆け寄って、小早へ飛び乗る。
弥右衛門も慌てて続き、禰太郎と並んで櫂を握った。
「禰太郎、弥右衛門。あの船に追いつけるか」
「何とかなるんじゃないー?」
舵之丞の問いに、禰太郎は相変わらず気の抜けた声で答えた。
だが、禰太郎の言うことは妙によく当たる。
「禰太郎が何とかなるというなら、何とかなるな。 行くぞ!」
「はいはいーー!」
舳先で叫ぶ舵之丞に答え、禰太郎は笑顔のまま櫂を掻く。
「どこまでも、若についていきますよ」
弥右衛門も歯を食いしばり、必死に漕いだ。
「次こそは――超える」
舵之丞は、言い放つ。
はるか沖へと遠ざかっている将船へ向かって。
将船は南へと進む。
南へ下れば、四国本土へと至る。
三島の水夫たちは、何としても越智家本拠の伊予国へ鶴を送り届けようと、懸命に櫓を漕いだ。
だが――。
「みんな。手を止めて聞いて」
鶴が皆を制止する。
沖へ出て、なお伊予までは遠い。
四方を海に囲まれる中、鶴が静かに言った。
「みんな、ありがとう。ここでいい」
いつもの覇気のある鶴の声よりも、心なしか穏やかな声。
「ど、どういうことですか、姫さま……」
水夫たちは怪訝そうに、鶴を見つめる。
鶴は穏やかに言う。
「大三島は大内の支配下に入ります。三島水軍も安堵との約定ですが、きっと大内の警固衆に組み込まれるでしょう」
「姫さま……」
「みんなも、大内の傘下に入ることになります。でも、大内は本当に信頼できる相手かどうか、私にも分からない……」
鶴は一人一人の目を見て伝える。
「だから、みんなは村上水軍を頼って。因島、来島、能島……、いずれも三島の漕ぎ手なら見捨てないから」
鶴は以前から、瀬戸の島々に点在する村上水軍と連絡を取り合っていた。
万一の際、三島の将兵を託すためである。
村上水軍も元は越智と同族。
信頼する鶴の嘆願とあって、いずれの村上も約定してくれていた。
「し、しかし……、姫さまはどうされるんです」
水夫たちは心配して問う。
鶴は迷いなく答えた。
「私は――この将船を焼く」
(つづく)




