其の二十 陶然
ただならぬ異変を察し、越智鶴は陣幕を跳ね上げるようにして外へ飛び出た。
そこには桧垣藤兵衛をはじめ、四、五人の将が顔色を失って立ち尽くしている。
誰もが狼狽し、言葉をまとめきれていない。
その様子だけで、尋常ならざる異変が浜で起きたことを鶴は悟った。
「何かあったんですか」
問うより早く、鶴は駆け出していた。
「姫様、お待ちください。今行かれては――!」
藤兵衛らの制止も聞かず、鶴は浜へと急ぐ。
戦さの音が聞こえない。
剣戟の音も、喚声もない。
幾重にも鉄柵が打ち込まれ、堀は深く掘り巡らされて、物見櫓には旗が翻る、鉄壁の防衛陣。
越智左京が築き上げた、大軍勢の侵攻すら阻むはずの不落の備え。
だが、その陣の内側に、見慣れぬ軍勢が整然と居並んでいた。
千を超えるであろう兵。
陣中へ入り込んだ外敵を前に、三島勢の将兵たちも武器を構えながら、どう動けばよいのか分からず立ち尽くしている。
いや、何が起きているのかすら理解できていない。
鶴は居並ぶ軍勢を見渡した。
海に生きる三島水軍の荒々しい出立とは違う。
揃いの羽織。
端然と結ばれた帯。
洗練された本土武者の気配。
そして、その列の中には――鉤槍を握る弘中舵之丞の姿もあった。
(大内軍……)
鶴は瞬時に察する。
だが、その舵之丞の様子はおかしい。
鶴と目が合うや、息を呑みながら、小さく首を横へ振った。
まるで「違う」とでも言いたげに。
舵之丞自身も、この状況を理解できていないようであった。
そして、鶴や三島の諸将が最も異様に感じたもの。
それは――。
その大内勢の只中に、越智左京が立っていることである。
左京は鶴の姿を見るや、待ちかねたように一歩前に進み出た。
「鶴どの……!」
その顔は、晴れやかであった。
いや、晴れやかというよりも、どこか熱に浮かされたような歓喜に満ちていた。
「鶴どの、お喜びください!」
左京は声を張り上げる。
「我らは、救われましたぞ!」
突然の言葉に、三島勢はますます狼狽する。
左京が何を言っているのか分からない。
鶴は息を呑み、傍らの藤兵衛に小声で尋ねた。
「ど……どういうこと……?」
「それが……」
藤兵衛も困惑しきった顔で首を振る。
「左京どのが守備兵へ命じ、突然城門を開け放って、大内勢を迎え入れたようで……」
陣中では未だ混乱した知らせが飛び交っている。
だが、左京が城門を開いたことは確かなことのようである。
左京はなおも興奮した様子で語る。
「大内は、大山祇神社と三島水軍の存続をお認めになりました。これで我ら三島の者は、安心して暮らしてゆけます」
左京の顔には、長年の悲願が叶ったかのような、恍惚に近い安堵が浮かんでいる。
「そして鶴どの、あなたも――」
もうその重荷を下ろしてもいい、という眼差し。
左京は嬉し涙を目に浮かべ、言葉を失っている鶴を見つめた。
三島水軍の将兵たちも、その熱に呑まれ始めている。
左京は誰よりも先を読み、大内軍を幾度も翻弄してきた軍略家。
その左京が、ここまで断言しているのであれば――。
次第に、将兵たちの槍先が下がっていく。
一方、大内勢もまた、刀を抜いてはいなかった。
圧倒的な兵威こそ漂わせているが、露骨な敵意は見えない。
その時。
左京の背後より、一人の若武者が静かに進み出た。
圧倒的な存在感を放つ、若き武人。
「大内家筆頭家老、陶五郎隆房である」
名乗りが響いた瞬間、三島水軍の空気が凍りつく。
(こ……この若武者が……あの陶隆房……)
皆が声を失う。
若くして大国大内の政軍を掌握した「周防の虎」の名は、瀬戸内の島々にまで轟いていた。
獣のような猛々しさと、どこか高貴な気品が、奇妙な均衡で同居する。
その五郎が、唯一の女武者たる鶴を見据え、口を開いた。
「鶴どのとは、そなたか」
「……ええ。私が越智鶴です」
鶴は警戒を崩さず、静かに答える。
だが五郎は、意外にも快活な笑みを見せた。
「会えて光栄だ。うちの三浦十兵衛を滅多刺しにし、舵之丞と揺れる船上で互角にやり合うとは、よほどの名将の器だ。気になっていたぞ」
その声色には、敵将への賞賛が本心から滲んでいた。
鶴はなおさら戸惑う。
そして左京は、陶五郎が鶴を認めたことに、心から安堵したように笑みを深めた。
「陶どのもまた、瀬戸内の安寧を願われている御方なのです」
熱に浮かされたように、左京は語る。
「陶どのは、我ら三島水軍の強さも、拙者の高い智略も、全て認めてくださった。これより我らは大内家の庇護のもと、変わらず生きてゆけるのです」
歓喜に震える声。
あの左京が、ここまで断言するのであれば――。
三島勢の胸にも、次第に安堵が広がり始めていた。
左京は、居並ぶ諸将をゆっくりと見渡す。
皆の顔から、張り詰めた色が少しずつ解けていくのを見て、深く満足げにうなずいた。
そして最後に、鶴の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「だから、鶴どの――」
優しい声音。
「あなたはもう、今までのように背負わなくていいのです。陣代としての重責も、戦場へ立ち続ける宿命も……」
目を細める左京を見て、鶴は息を呑む。
左京が安寧を語るたび、鶴の胸には得体の知れぬ不安が広がっていく。
それでも左京は続ける。
「ようやく終わるんです。これよりは、拙者が陶どのや大内の皆々と共に、この島を守ってまいります。鶴どの、あなたは拙者の――」
長年抱き続けた悲願が、ついに成就したかのように、左京は目にうっすらと涙を浮かべながら微笑んだ。
その時であった。
ぶっ――!
左京の笑みの口から突如、鮮血が噴き出した。
「……!?」
鶴の目が見開かれる。
また舵之丞も、何が起きたか理解できず、その場で硬直した。
だが――。
誰よりも信じられないという顔をしていたのは、左京自身であった。
笑みは引き攣ったまま。
理解が追いついていない左京が、震えながらゆっくりと視線を下ろしていく。
自身の胸元に、鋭い太刀の切っ先が突き出ていた。
背から、身体を刃に貫かれている。
ぐぶっ――。
左京の口から、再び大量の血が溢れた。
「な……なぜ……」
左京は理解できぬまま、震える首をわずかに巡らせた。
その太刀の柄を握っていたのは――。
陶五郎隆房であった。
先ほどまで快活に笑っていた若き名将は、今は何の感情も浮かべず無表情で立っている。
左京は身体を貫かれた痛みよりも、眼前の現実を理解できぬことに脳を支配されていた。
「陶……どの……」
震える唇が、かすれた声を濡らす。
「なぜ……」
周囲の三島勢も、ようやく異変を理解し始めた。
一斉に武器を構える。
だが、その場にいる誰一人として、即座に動くことができない。
あまりにも唐突すぎて、頭が追いついていない。
そんな中、五郎は静かに口を開いた。
「なぜ……だと?」
その声には、怒気すらなかった。
「おまえが、主を売る不忠者だからだ」
ずぶり――。
五郎はさらに、太刀を押し込む。
左京の身体が痙攣したように跳ねた。
「がっ……ぁ……!」
大量の血が吐き出される。
五郎の手には、一切の躊躇がなかった。
まるで、人を最も苦しめる刺し方を熟知しているかのように、容赦無く刃を抉り込んでいく。
「左京。おまえはさっき、拙者の高い智略を認めてもらえた……と言ったな」
五郎の目は、どこまでも冷えていた。
「そんなことは一言も言ってねえ。おまえの言葉は誇大で欺瞞だ。信用ならん」
「がはっ……!」
左京は血を吐きながら、なお理解できぬという目で五郎を見上げる。
あまりの急転に、舵之丞は唖然と立ち尽くしていた。
鶴もまた、幼馴染の左京の凄惨な姿を前に、声すら失っている。
まだ陣幕での睡夢の中にいるのではないか。
目の前で起きている光景が、現実とは思えなかった。
(つづく)




