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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第三幕 生死の血沫
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其の二十 陶然


 ただならぬ異変を察し、越智鶴(おちのつる)は陣幕を跳ね上げるようにして外へ飛び出た。

 そこには桧垣藤兵衛(ひがきとうべえ)をはじめ、四、五人の将が顔色を失って立ち尽くしている。

 誰もが狼狽し、言葉をまとめきれていない。

 その様子だけで、尋常ならざる異変が浜で起きたことを鶴は悟った。


「何かあったんですか」


 問うより早く、鶴は駆け出していた。


「姫様、お待ちください。今行かれては――!」


 藤兵衛らの制止も聞かず、鶴は浜へと急ぐ。

 戦さの音が聞こえない。

 剣戟の音も、喚声もない。

 幾重にも鉄柵が打ち込まれ、堀は深く掘り巡らされて、物見櫓には旗が翻る、鉄壁の防衛陣。

 越智左京(おちさきょう)が築き上げた、大軍勢の侵攻すら阻むはずの不落の備え。


 だが、その陣の内側に、見慣れぬ軍勢が整然と居並んでいた。

 千を超えるであろう兵。

 陣中へ入り込んだ外敵を前に、三島(みしま)勢の将兵たちも武器を構えながら、どう動けばよいのか分からず立ち尽くしている。

 いや、何が起きているのかすら理解できていない。


 鶴は居並ぶ軍勢を見渡した。

 海に生きる三島水軍の荒々しい出立とは違う。

 揃いの羽織。

 端然と結ばれた帯。

 洗練された本土武者の気配。

 そして、その列の中には――鉤槍(かぎやり)を握る弘中舵之丞(ひろなかかじのじょう)の姿もあった。


(大内軍……)


 鶴は瞬時に察する。

 だが、その舵之丞の様子はおかしい。

 鶴と目が合うや、息を呑みながら、小さく首を横へ振った。

 まるで「違う」とでも言いたげに。

 舵之丞自身も、この状況を理解できていないようであった。


 そして、鶴や三島の諸将が最も異様に感じたもの。

 それは――。

 その大内勢の只中に、越智左京が立っていることである。

 左京は鶴の姿を見るや、待ちかねたように一歩前に進み出た。


「鶴どの……!」


 その顔は、晴れやかであった。

 いや、晴れやかというよりも、どこか熱に浮かされたような歓喜に満ちていた。


「鶴どの、お喜びください!」


 左京は声を張り上げる。


「我らは、救われましたぞ!」


 突然の言葉に、三島勢はますます狼狽する。

 左京が何を言っているのか分からない。

 鶴は息を呑み、傍らの藤兵衛に小声で尋ねた。


「ど……どういうこと……?」

「それが……」


 藤兵衛も困惑しきった顔で首を振る。


「左京どのが守備兵へ命じ、突然城門を開け放って、大内勢を迎え入れたようで……」


 陣中では未だ混乱した知らせが飛び交っている。

 だが、左京が城門を開いたことは確かなことのようである。

 左京はなおも興奮した様子で語る。


「大内は、大山祇(おおやまづみ)神社と三島水軍の存続をお認めになりました。これで我ら三島の者は、安心して暮らしてゆけます」


 左京の顔には、長年の悲願が叶ったかのような、恍惚に近い安堵が浮かんでいる。


「そして鶴どの、あなたも――」


 もうその重荷を下ろしてもいい、という眼差し。

 左京は嬉し涙を目に浮かべ、言葉を失っている鶴を見つめた。

 三島水軍の将兵たちも、その熱に呑まれ始めている。

 左京は誰よりも先を読み、大内軍を幾度も翻弄してきた軍略家。 

 その左京が、ここまで断言しているのであれば――。

 次第に、将兵たちの槍先が下がっていく。


 一方、大内勢もまた、刀を抜いてはいなかった。

 圧倒的な兵威こそ漂わせているが、露骨な敵意は見えない。

 その時。

 左京の背後より、一人の若武者が静かに進み出た。

 圧倒的な存在感を放つ、若き武人。


「大内家筆頭家老、(すえ)五郎隆房(たかふさ)である」


 名乗りが響いた瞬間、三島水軍の空気が凍りつく。


(こ……この若武者が……あの陶隆房……)


 皆が声を失う。

 若くして大国大内の政軍を掌握した「周防(すおう)の虎」の名は、瀬戸内の島々にまで轟いていた。

 獣のような猛々しさと、どこか高貴な気品が、奇妙な均衡で同居する。

 その五郎が、唯一の女武者たる鶴を見据え、口を開いた。


「鶴どのとは、そなたか」

「……ええ。私が越智鶴です」


 鶴は警戒を崩さず、静かに答える。

 だが五郎は、意外にも快活な笑みを見せた。


「会えて光栄だ。うちの三浦十兵(みうらじゅうべえ)衛を滅多刺しにし、舵之丞(かじのじょう)と揺れる船上で互角にやり合うとは、よほどの名将の器だ。気になっていたぞ」


 その声色には、敵将への賞賛が本心から滲んでいた。

 鶴はなおさら戸惑う。

 そして左京は、陶五郎が鶴を認めたことに、心から安堵したように笑みを深めた。


「陶どのもまた、瀬戸内の安寧を願われている御方なのです」


 熱に浮かされたように、左京は語る。


「陶どのは、我ら三島水軍の強さも、拙者の高い智略も、全て認めてくださった。これより我らは大内家の庇護のもと、変わらず生きてゆけるのです」


 歓喜に震える声。

 あの左京が、ここまで断言するのであれば――。

 三島勢の胸にも、次第に安堵が広がり始めていた。

 左京は、居並ぶ諸将をゆっくりと見渡す。

 皆の顔から、張り詰めた色が少しずつ解けていくのを見て、深く満足げにうなずいた。

 そして最後に、鶴の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「だから、鶴どの――」


 優しい声音。


「あなたはもう、今までのように背負わなくていいのです。陣代としての重責も、戦場へ立ち続ける宿命も……」


 目を細める左京を見て、鶴は息を呑む。

 左京が安寧を語るたび、鶴の胸には得体の知れぬ不安が広がっていく。

 それでも左京は続ける。


「ようやく終わるんです。これよりは、拙者が陶どのや大内の皆々と共に、この島を守ってまいります。鶴どの、あなたは拙者の――」


 長年抱き続けた悲願が、ついに成就したかのように、左京は目にうっすらと涙を浮かべながら微笑んだ。

 その時であった。

 ぶっ――!

 左京の笑みの口から突如、鮮血が噴き出した。


「……!?」


 鶴の目が見開かれる。

 また舵之丞も、何が起きたか理解できず、その場で硬直した。

 だが――。

 誰よりも信じられないという顔をしていたのは、左京自身であった。

 笑みは引き攣ったまま。

 理解が追いついていない左京が、震えながらゆっくりと視線を下ろしていく。


 自身の胸元に、鋭い太刀の切っ先が突き出ていた。

 背から、身体を刃に貫かれている。

 ぐぶっ――。

 左京の口から、再び大量の血が溢れた。


「な……なぜ……」


 左京は理解できぬまま、震える首をわずかに巡らせた。

 その太刀の柄を握っていたのは――。

 陶五郎隆房であった。

 先ほどまで快活に笑っていた若き名将は、今は何の感情も浮かべず無表情で立っている。

 左京は身体を貫かれた痛みよりも、眼前の現実を理解できぬことに脳を支配されていた。


「陶……どの……」


 震える唇が、かすれた声を濡らす。


「なぜ……」


 周囲の三島勢も、ようやく異変を理解し始めた。

 一斉に武器を構える。

 だが、その場にいる誰一人として、即座に動くことができない。

 あまりにも唐突すぎて、頭が追いついていない。

 そんな中、五郎は静かに口を開いた。


「なぜ……だと?」


 その声には、怒気すらなかった。


「おまえが、主を売る不忠者だからだ」


 ずぶり――。

 五郎はさらに、太刀を押し込む。

 左京の身体が痙攣したように跳ねた。


「がっ……ぁ……!」


 大量の血が吐き出される。

 五郎の手には、一切の躊躇がなかった。

 まるで、人を最も苦しめる刺し方を熟知しているかのように、容赦無く刃を抉り込んでいく。


「左京。おまえはさっき、拙者の高い智略を認めてもらえた……と言ったな」


 五郎の目は、どこまでも冷えていた。


「そんなことは一言も言ってねえ。おまえの言葉は誇大で欺瞞だ。信用ならん」

「がはっ……!」


 左京は血を吐きながら、なお理解できぬという目で五郎を見上げる。

 あまりの急転に、舵之丞は唖然と立ち尽くしていた。

 鶴もまた、幼馴染の左京の凄惨な姿を前に、声すら失っている。

 まだ陣幕での睡夢の中にいるのではないか。

 目の前で起きている光景が、現実とは思えなかった。




(つづく)

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