其の十九 睡夢
夜が明けると、総大将・陶五郎隆房の乗る将船は、三千の兵を載せた船団を率い、大崎島南岸を出航した。
大下島と柏島の狭間を北から抜け、いよいよ大三島・宗方の入江へと乗り入れる。
越智左京によって宗方の浜に築かれた陣では、三島の守備兵が慌ただしく駆け回っていた。
「舵ィ。不満げな顔だな」
五郎が、隣に立つ弘中舵之丞を見て言った。
舵之丞は大きく息を吐く。
三十五隻から成る弘中水軍は、大崎島に残った大内警固衆から独立し、此度は陶家の富田水軍に従って大三島沖まで進出している。
だが舵之丞自身は五郎に呼ばれ、近習の小山弥右衛門のみを伴って、将船の甲板に控えていた。
つまり――出番はまだ当分来ないということである。
「オレは大内に勝利をもたらす功を上げたいんだけど。いつ岩国水軍に戻ればいいのかな」
「舵ィ、まあそう焦るなよ」
五郎は笑いながら、舵之丞の肩を軽く叩く。
「まずは俺のそばにいろ。面白いのはこれからだ。おまえを必要とする場面が、必ず来る」
五郎は、まるで少年の頃そのままのような笑みを浮かべた。
元服前より、陶家郎党の次男坊や三男坊を集めては「若山党」と称し、日がな模擬合戦に明け暮れていた男である。
大内家筆頭家老となった今もなお、戦さのこととなると、少年の頃の血が騒ぐようであった。
この大三島の戦いも、必ず今日で決着がつく――。
五郎の笑顔を見ていると、舵之丞はそう確信してしまう。
(今度こそ必ず勝利に貢献して、岩国水軍を弘中に取り戻すぞ。そして……、必ずあいつをも超えて――)
舵之丞は五郎の言った「自分を必要とする場面」を、そして「あいつを超える場面」をも思い描き、胸の内に炎を滾らせた。
朝早くから宗方沖に陶の大船団が現れたことで、浜の三島勢は一瞬戦慄し、陣中には大きな緊張が走った。
だが、その緊張も長くは続かない。
富田水軍は、進んでいるのか留まっているのかも分からないほど、入江の口で浮いたままであった。
二日にわたる伊香賀の先鋒隊による様子見で、三島勢の防衛の堅さに対して慎重になっているのであろう。
加えて、その総大将・陶五郎の将船は、これまで二度にわたり痛撃を加え、敗走させた船でもある。
「また懲りずに来たか。次も追い返してくれるわ」
「いや、次は焼き捨ててやるぞ」
そんな勝利の光景を、誰もが容易に脳裏に浮かべていた。
越智鶴の神力と、越智左京の戦略、そして過去二度の撃退が、三島水軍の将兵たちに大きな自信を燃え上がらせている。
「姫様。ここのところ、ほとんど眠っておられますまい」
本陣の床几に腰掛ける越智鶴の顔色を見て、家臣の桧垣藤兵衛が案じるように声をかけた。
「藤兵衛どの、ありがとう。でも大丈夫です」
「いえ、少しでもお休みになられては」
藤兵衛は陣机の上に散らかる地図や書状を片付けながら、休憩を提言する。
「今はまだ、陶の船はまだ様子を見ておるようです。左京どのも万全の構えで防衛されておりますし、お休みになるなら今のうちかと」
「そうですね。でも……」
「姫様。岩国水軍が気になるのでしょう」
藤兵衛が、髭面の奥で笑う。
心中を見透かされ、鶴は思わず苦笑した。
「ふふ……。確かに。岩国水軍も来ているようですから」
「奴らを気にしているのは、姫様だけではありませんぜ」
藤兵衛は拳を作り、自らの胸をどんどんと叩いてみせた。
桧垣藤兵衛は、先の大下島の戦いで肥島にて待機していたところを、弘中舵之丞率いる岩国水軍の急襲に遭い、預かっていた舟を幾艘も奪われている。
「わしにとっても、岩国水軍は因縁深い相手。手合わせた弘中舵之丞の強さも、姫様と同じぐらい分かっておるつもりです」
「……」
「何か動きがあれば、すぐにお声掛けします、それまでは、少しでもお休みになってください。後でわしらが舟を取り戻す力になってもらいてえですし」
真剣な藤兵衛の目を見て、鶴はふっと笑ってうなずいた。
「分かりました。じゃあ、少しだけ」
「ぜひごゆっくり。おいみんな、姫様を一人にして差し上げろ」
桧垣藤兵衛は諸将を陣幕の外へと追いやり、自らも外に立って陣幕の護衛となる。
一人になった鶴は、皆の気遣いに安堵したのか、ふうっと深い息をひとつ吐いた。
そして、床几に腰掛けたまま、静かに瞳を閉じる。
やがて、うとうとと――束の間の眠りへ落ちていった。
夢を見ていた。
陽光に照らされた、青々とした瀬戸内の島々。
凪いだ海を渡る、穏やかな波の音。
懐かしい潮の香り。
風に揺れる浜草。
さざなみの上で砕けた沫が、キラキラと輝いている。
平和な海の光景であった。
生まれた時から、ずっと見続けてきたはずの風景。
だが、陣代に就いてからの鶴は、いつしかその美しさを忘れていたように思う。
一体これまで、何を考えていたのだろう。
何を見ていたのだろう。
気づけば、この美しい海の何もかもが懐かしい。
その穏やかな海原を、一艘の小舟が駆けていく。
白波を切り裂きながら、まっすぐ前へ、前へ。
その舳先に立ち、行き先を指示している若者の姿。
額へ撒いた鉢巻の鉢金が、日の光を受けてきらりと光る。
(あれは……!)
浜辺に立つ鶴は、はっとして自らの額へ手を当てた。
鉢巻が、ない。
陣代となってから肌身離さず締めてきた、鉢金つきの鉢巻が。
そして、その鉢巻をつけている舳先の若者は――、自分ではない。
その姿を見た瞬間、鶴は力が抜けるように、その場へ膝をついた。
さらさらとした白砂の感触が、膝から伝わる。
ふと気づくと、不思議なほどに、肩が軽かった。
ここのところ、ずっと何かが重く推し掛かっていた、両肩が。
気づけば鎧も着ておらず、平服がひらひらと海風を受けている。
(あいつが、守ってくれるんだ……。この瀬戸の海を)
鶴は、海を駆けて離れていくその背を見つめる。
(私じゃなくても、いいんだ……。あいつが、私に代わって……)
鶴の頬を、ひと筋の涙が伝う。
それは哀しみの涙でも、苦しみの涙でもなかった。
胸の奥から、暖かな喜びが込み上げてくる。
笑いたくて仕方がない。
叫びたくてたまらない。
鶴は両手を揃えて口元へ添え、舟へ向かって声を張りあげる。
「任せたからね――! この海を――!」
その声が、波音を越えて舳先のあいつまで届いたのかどうかは分からない。
それでもよかった。
鶴は涙を潤ませたまま、一つ息を吐くと笑みをこぼす。
「そして……。いつか聞かせてね。これからの、この海のこと――」
その呟きは、穏やかな潮風の中へ静かに溶けていった。
「姫様、姫様――!」
陣幕の外から響く藤兵衛の声に、鶴ははっと目を覚ました。
腕を組んだまま床几に腰掛け、鎧姿で眠っていたらしい。
だが、頬には涙が伝っていた。
「どうしました。今行きます」
鶴は手甲でそっと涙を拭う。
そして、再び陣代の顔へ戻ると、案外重い鎧を感じながら立ち上がり、陣幕を出た。
(つづく)




