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陰陽の沫 〜瀬戸内鶴姫秘録〜  作者: 紘野 流
■第一幕 瀬戸の女神
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其の二 敗報


 弘中(ひろなか)舵之丞(かじのじょう)が海上で「(つる)の女神」と出会う、四ヶ月前のこと。


 大内(おおうち)家の本拠・周防(すおう)山口(やまぐち)は、この頃すでに「西の京」と称されるほどの繁栄を見せていた。

 寺社の(いらか)が連なり、諸国の商人や職人が往来し、京風の文化が花開く。

 その華やぎとは対照的に、武家屋敷の並ぶ一角には張り詰めた空気が流れていた。


(かじ)ィ! てめえ!」


 低い声が路地に響く。

 鉤槍(かぎやり)を携えて先を急いでいた舵之丞の前へ、屈強な三人の青年武士が立ち塞がった。

 十三歳の舵之丞より、七つ八つ年上。

 頭ひとつ大きい体躯が三人並ぶと、岩のようにたくましい。

 先頭に立つ宮川佐之助(みやがわさのすけ)が、恫喝を続けた。


「我が殿に長らく目をかけられながら、他の将へ師事するとはどういう了見だ。(すえ)若山(わかやま)党を舐めてんのか?」


 立ち止まった舵之丞は、面倒そうな表情で答える。


「だって陶の水軍、弱いし」


 あまりにもあっさりした返答。

 聞くや、伊香賀壱次郎(いかがいちじろう)が佐之助を押しやるように前に出て、舵之丞を睨みつけた。


「舵ィ……。もう一度言ってみろ」

「だって陶の水軍、弱いし」

「繰り返すな!」

「もう一度言ってみろとか言うから」


 舵之丞に悪びれる様子は微塵もない。

 目の前の三人の威圧よりも、これから向かう先で待つ師匠との約束の時刻のほうがはるかに気になっていた。

 佐之助は眉間に皺を寄せて凄む。


「おまえ、若山党を離れたということは、岩国(いわくに)の弘中は陶と手切れと受け取っていいんだな?」


 舵之丞は呆れたように答えた。


「なんでそうなるかなあ。オレは若山党に入った覚えはないし、うちの弘中家は陶の家臣でもない」

「陶は代々、大内家の筆頭家老。弘中とは家格が違う。臣下も同然だろう」

「その理屈が既におかしいけどさ。仮にそうだとしても!」


 舵之丞は手にしていた鉤槍の石突を、乾いた音と共に路地に突き立てた。


「オレは弘中の岩国水軍を再興しなきゃならないんだ。だから、強い水軍で学ばなきゃならない。でも陶の水軍は弱い。だから行かない。それだけの話——」


 舵之丞の言葉を握り潰すかのような勢いで、佐之助と壱次郎の背後から太い腕が伸び、舵之丞の襟をつかんだ。

 いつも三人衆の中心にいる、三浦十兵衛(みうらじゅうべえ)である。


「我が殿は西国無双の侍大将。その殿が持つ陶の富田(とんだ)水軍を弱いと言うか」

「弱すぎでしょ。誰が見ても」

「……」


 舵之丞の辛辣な言葉に、十兵衛は言葉を失った。

 確かに陶の軍勢は強い。

 剛毅の大将と若山党の武勇によって、陸戦では西国随一と謳われる。

 だが、周防灘(すおうなだ)に配された水軍に限れば、戦果は振るわない。

 その事実だけは、十兵衛も否定できなかった。

 しかし舵之丞の講釈は、それで終わらない。


「それにさあ。陸戦最強って顔してるけど、案外そうでもないからね」

「……何だと!?」


 三人衆の眉が一気に吊り上がる。

 舵之丞は構わず続けた。


「先の出雲(いずも)遠征で、陶が主導した大内軍は月山富田城(がっさんとだじょう)を落とせず、総退却したよね。あれ、あんたら若山党は痛み分けくらいに思ってるようだけど、大内にとっては若様まで亡くすほどの大敗だからね」

「おい……」

「その退()き口だって、弘中勢が尻駆(しりが)りを引き受けたから本軍は何とか逃げ切れたけど、最後尾のオレたちは地獄を見たからね。あの惨劇を見たら、とても最強などとは……」

「黙れ」


 三浦十兵衛がたまらず怒声を発し、舵之丞の襟を両手で掴み上げた。

 その時だった。


「やめろ、十兵衛」


 地を打つような低い一喝が、十兵衛の背後から飛んだ。

 十兵衛の手が反射的に襟から離れる。

 佐之助と壱次郎も表情を引き締め、振り返る。

 そこに立っていたのは、三人よりもなお大きな体躯を持つ男だった。

 平服の上からでも分かる厚い胸板。

 丸太のような太い腕。

 武闘集団・若山党の中でも抜きん出た猛勇を誇る、江良鬼丸(えらおにまる)である。

 戦場では常人の扱えぬ大斧を軽々と振るい、敵将兵の頭を兜ごと砕き割るほどの猛者。

 若くして中国一の猛将との呼び声も高い。


「おまえたち。若山党の将ともあろう者が、三人がかりで元服前の()に凄んで、恥ずかしくないのか」


 江良鬼丸の叱責に、十兵衛たち三人は言葉を失う。

 慌てて佐之助が弁明する。


「し、しかし鬼丸。この舵ィの奴が、陶の富田水軍を弱いと侮辱して……」

「そこは殿も承知しておられたであろう」


 鬼丸が佐之助の言葉を遮った、

 その直後。

 背後から鼻で笑う声が聞こえた。

 鬼丸の巨躯に隠れ、誰もがその姿に気づいていなかった。


「こ、これは殿」

「殿っ」


 十兵衛、佐之助、壱次郎が慌てて頭を下げる。

 現れたのは、若山党の主君——陶五郎隆房(すえごろうたかふさ)

 二十二歳の若さにして、大内家筆頭家老。

 端正な面持ちの青年武士である。

 しかし武芸百般に秀で、その武名は山陰にまで響く。

 二年前の安芸吉田郡山城あきよしだこおりやまじょうの戦いでは、初陣ながら、出雲の雄・尼子詮久(あまこあきひさ)に一太刀浴びせたと伝わる。

 人は彼を「西国無双の侍大将」と呼ぶ。

 大内の繁栄を支えた名将である養父・陶興房(すえおきふさ)の異名「周防の虎」も、もはや五郎を表す名となりつつある。


「よう、舵ィ。出かけるのか」


 陶五郎は腕を組んだまま、笑みを浮かべて舵之丞の前へと進み出た。


「うん、五郎どの。判官(はんがん)どのの屋敷へ」

「そうか」


 五郎は小さく頷く。


「舵ィを陶ではなく冷泉(れいぜい)判官のところに預けるとは、おまえの兄貴も親父どのも、うちの弱点をよく見てるな」


 その言葉に自虐の響きはあったが、不快げな色はない。

 舵之丞は当然のように頷いた。


「まあ、弘中家にとって岩国水軍の復活は悲願だからね。弱い水軍での修行してる暇はないし」

「調子に乗るなよ、舵之丞」


 十兵衛がまたも舵之丞の襟へ手を伸ばしかける。


「やめろ、十兵衛」


 五郎の一声で、その手はぴたりと止まる。


「し、しかし、殿」


 十兵衛はなおも食い下がる。


「我らが富田水軍とて、縫殿助(ぬいのすけ)の調練で練度を増し、今も大三島(おおみしま)攻略は大詰めではございませぬか。決して弱いということは……」


 その弁明の途中。


「殿、殿ぉ……!」


 遠くから切羽詰まった声が飛んだ。

 一人の郎党が息を切らして駆けてくる。


「どうした」


 ただならぬ様子を見て、鬼丸が先に問う。

 郎党は五郎の前へ滑り込むように膝をついた。

 額には汗が滲み、肩は激しく上下している。


「大三島攻めの白井縫殿助(しらいぬいのすけ)様の富田水軍……、敗北の(よし)にございます」

「な、なんだとっ……!」


 真っ先に驚きの声を上げたのは、十兵衛だった。

 つい今しがた富田水軍を擁護したばかりで、無理もない。

 五郎はわずかに眉を上げる。

 舵之丞は何とも言えない目で、気の毒そうに十兵衛を見た。

 鬼丸が低く問う。


「大将の越智(おち)右近(うこん)を討ち取ったと聞いていた。あとは大三島を制して終わりではなかったのか」

「三島水軍が急遽立てた陣代の指揮により、縫殿助様の船が孤立したと」

「……」


 その場の空気が重くなる。

 これまで届いていた軍報では、大三島攻略は間もなくとのことだった。

 それが最後の最後で覆されたのである。

 五郎が半ば興味深そうに、郎党に問う。


「その陣代とは誰だ。知恵者と名高い越智左京(さきょう)という奴か?」

「それが……」


 伝令は言い淀んだ。


「構わん。申せ」

「陣代は、討死した越智右近の妹」

「妹だと?」


 十兵衛が思わず声を漏らす。


「はっ。齢は、わずか十六とのこと」

「……!!」


 若山党の面々が一斉に目を見開いた。


「十六の……女子(おなご)が……」


 誰となく呟く。


 だが舵之丞だけは、敗北そのものよりも別のものに心を奪われていた。

 十六の女将が、戦局を覆す——。

 それほどまでに、水軍とは奥深いものなのか。

 海の戦いとは、そこまで読めぬものなのか。


 舵之丞の胸の奥で、小さな火が灯った。

 やがて大きな炎となる、最初の火種であった。




(つづく)

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